1-14 手応えのある歪み
夜の空気は昼の名残をわずかに引きずっていて、冷えきらないまま肌にまとわりついていた。藤堂家の敷地を抜け、道場の裏手へ回る。使われなくなった稽古場の脇は、灯りもほとんど届かない半端な空間だ。ここは昔から、練習の合間に休憩したり、子どもの頃に隠れたりした場所で、どちらかと言えば遊んでいた記憶の方が大きかった。
「……ここでいい?」
先を歩いていた紗季が立ち止まり振り返った。月明かりに照らされた横顔は落ち着いているが、どこか張り詰めているようにも見えた。
「ああ。道場より気が散らなくていい」
自分で言っておきながら、少しだけ可笑しくなる。以前なら「道場じゃないのか」と戸惑っていたはずだけど……今は、こういう場所の方が、かえってやりやすいと感じている。
紗季が何気ない調子で言う。
「おじいちゃん、今日も戻らないんだよね。隣の県で異変があったって。数日かかるって連絡だけ」
「……そっか」
それだけの会話だ。
詳しい説明もないが、重い空気もなかった。藤堂師範が家を空けるのは珍しいことじゃない――紗季の口ぶりからそれが伝わってくる。
つまり、今ここにいるのは俺と紗季だけだ。その事実に、不安よりもどこか気楽さを覚えている自分に気づく。
その時、一瞬だが、空気が微かに変わった。風が止んだわけでも、音が消えたわけでもない。ただ、肌に触れる感触が一段と重くなる。意識を向けると、そこに“何か”があるのが分かる。
「……来たな」
呟くと同時に、体の内側の気を静かに立ち上げる。以前のような、勢い任せではない。落ち着いて、集中出来ているのを感じる。
「規模は小さい。たぶん、単体」
紗季も同じものを感じ取っているらしい。声は低く、冷静だ。
「俺が前に出る」
「うん。無理は――」
「しないよ」
言葉が重なる前にそう返す。根拠のない強がりじゃない。今の自分なら、問題なく対処できる。そういう感覚があった。
気を巡らせる。紗季に教わった――藤堂流の“常に巡らせる”意識を土台にしながら、天衝流の感覚で流れを整える。全身に広がる気は、以前よりも太く安定している。
(……いい感じ。無理に力を出していない。いったん“何もしていない状態”にしてから、そこに圧を乗せている感じだ)
無為に近い感覚。押し出していない。かといって、溜め込んでもいない。流れは保たれ圧も制御できている。
闇の奥で、怪異が輪郭を持ち始める。歪んだ影のような形だが、動きは鈍い。警戒すべき相手ではあるが、――今までと違って脅威とは思えなかった。
(これなら――)
一歩、踏み出す。足裏から地面の感触が伝わり。体と気が噛み合っている。その感覚が、確かな手応えとして胸に残る。紗季が、背後で息を整える気配がした。視線を向けなくても分かる。彼女は俺を見ている。止める準備も、支える準備も、どちらもしている。
でも今は必要ない。大丈夫。そう思えた。
怪異がこちらに気づき、わずかに動く。その瞬間、胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。体中に巡らせた気が一周するのに、ほんの一拍だけ遅れる。
(……?)
違和感はすぐに消えた。気の流れは整っているし、制御も効いている。さっきのは、集中が一瞬途切れただけだろう。
「行ける?」
「ああ」
少しだけ近い紗季の声に、短く答える。迷いはない。
気を巡らせながら、少しずつ圧を溜め始める。全身を満たす流れと負荷をかける力、その両方を同時に意識することに戸惑いはなかった。
怪異がこちらに向けて形を変える。影の表面が波打ち、歪な腕のようなものを伸ばしてくる。動きは速くない。攻撃の起こりも単純だ。
一歩、横にずれる。気を流しながら体を動かす。無駄がない足運び。重心の移動も以前より速く、はるかに軽い。
怪異の攻撃をかわしながら、距離を詰める。
全身を巡る気の流れが、そのまま一点へと収束していく。藤堂流で教わった「巡らせる」感覚と、天衝流の「堰き止める」感覚は、今や自分の中で、不思議と噛み合っている。
(……やっぱり、いける)
圧はまだ解放しない。焦る必要はない。全身の流れを保ったまま、最適な位置まで引きつける。
「……」
背後で紗季の気配が動いた。心配そうな気配を感じる。援護に入るでもなく、完全に下がるでもない。いつでも割り込める距離を保っている。俺の気の状態を見ているのだろう。
怪異が再び動く。今度は地面を這うようにその腕を伸ばしてくる。小さい個体とはいえ危険であることに変わりはない。その圧力に周囲の空気が重くなる。
(来る)
相手の気の流れを読み、攻撃の予兆を捉える瞬間、全身に巡らせていた気が反射的に反応した。流れが強まり圧がわずかに跳ねる。
そのときだった。身体のどこかで何かが軋んだ。痛みではない。息が詰まるほどの圧迫でもない。ただ、柔らかく広がっていたはずの感覚が、一瞬だけ、硬くなるような。
(……今の)
だが、思考がそこに触れた瞬間、違和感は霧散していた。気も、圧も、制御下に戻る。
「翔太……!?」
紗季の声が、ほんのわずかに強くなる。
「大丈夫だ」
即座に返す。不安はない。さっきのは、怪異の干渉による一時的な揺れだろう。むしろ、以前ならあの程度の圧力で、もっと動揺していたはずだ。今は違う。持ち直せている。成長してる……そう思えた。
怪異が、こちらの反応を探るように動きを変える。警戒しているのが分かる。こちらの気の密度を感じ取っているのだろう。
「一気にいく」
紗季に向けて言う。確認ではなく宣言だ。
「……うん」
一拍の間があった。それが気にならなかったわけじゃない。けど、それは踏み込まない理由にはならない。
圧をさらに溜める。全身に巡らせた気が回路を押し広げる。柔らかくしなやかに――そう意識する。だが、流れは思ったよりも強かった。
気が満ちる――満ちすぎる感覚がある。回路が、耐えている。だが破綻はしていない。制御できている。
(問題ない)
そう判断した瞬間、怪異が仕掛けてきた。影の腕が地面から跳ね上がり、足元を掴もうとする。
跳ぶ。と同時に、圧を解放する準備に入る。空中で、全身の流れと一点の圧が完全に重なった。
その刹那――再び軋みが走った。今度ははっきりと、流れがどこかで遅れているのが分かる。圧が、想定よりも強く溜まっている。
(……っ)
だがもう遅い。ここで止めれば、流れは乱れる。乱れた状態で解放すれば、もっと危険だ。
(出すしかない)
判断は一瞬だった。圧を解放する。爆発的な力が怪異を貫いた。衝撃が空気を震わせ、影は悲鳴のような歪みを残して霧散する。
着地。膝がわずかに沈んだ。
「……っ」
息が、想定よりも荒れている。
胸の奥が熱い。だが、立っていられないほどじゃない。
「翔太!」
紗季が駆け寄ってくる気配がする。その足取りが一瞬止まった。それが妙に印象に残った。
「大丈夫だって」
振り返りそう言う。声は自分でも驚くほど、いつも通りだった。怪異の気配は完全に消えている。周囲の空気も元に戻りつつあった。
成功だ。そう思った。けれど――全身を巡っていた気が、ゆっくりと戻っていく過程で、違和感が残った。流れが、以前よりも“重い”し”引っかかる”。柔らかくしなる感覚のはずがどこかで……無理に伸ばした筋を、そのままにしているような――そんな感覚。
(疲れか……?)
理由を探す。
怪異との戦闘、圧の掛け過ぎ、気の密度、どれも説明としては十分だ。
紗季が、数歩離れた位置で立ち止まっている。こちらを見ているがすぐには近づいてこなかった。
「……平気?」
問いかけは静かだった。
「ああ」
短く答える。それで十分だと思った。
胸の奥にあったはずの充足が、まだ残っているのを感じる。
勝てた。扱えた。両立できている。
その評価を疑う理由は、今は見当たらなかった。




