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気が視えた俺と、守りたがりな彼女と、戻らない何か  作者: 白川


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12/20

1-13 静かに、伸びる影

朝の空気は、昨日よりも軽かった。

そう感じたのは、気のせいかもしれない。それでも玄関を出た瞬間、肩の力が抜けたのは確かだった。制服の袖口を整えながら深く息を吸う。胸の奥にざらついた感触は残っているけれど、それはもう、足を止めるほどの重さじゃなかった。


歩き出すと、すぐ隣に気配が重なる。紗季だ。半歩、ほんの少しだけ近い位置。

前を向いたまま、紗季が言う。


「……眠い?」

「そう?」

「目。昨日より、ちょっとだけ赤いよ」


紗季の指摘はそれだけだった。首を回して目を何度かぱちぱちとさせてみる。


「大丈夫。問題ない」


言葉にすると、不思議と実感が伴った。

視界はクリアだし足裏は地面をしっかり捉えている感覚。耳鳴りもしない。だけど全身に薄く気は張り巡らされている。

日常も、あっち側も、両方の気配がここにはある。そう思った瞬間、胸の奥がわずかに温かくなる。

紗季は前を向いたままで、ただ歩調を合わせている。


通学路の角を曲がると朝の光が住宅の壁に反射して、視界が一瞬だけ白む。

その中で紗季の足がほんの一拍遅れた。立ち止まったわけでも、よろけたわけでもない。

視界の端にわずかな“ずれ”として、気づくほどじゃない違和感が残った。


「どうかした?」

「ううん。なんでもない」


問いかけると、紗季はすぐに首を振る。声はいつも通りだった。息が少しだけ浅い気がしたけれど、それ以上は何も言えなかった。


学校に着くと人の波に紛れる。教室のざわめきが身体を現実に引き戻していく。席に座ると、日差しに暖められた椅子の感触。机の木目に窓から差し込む光が反射している。

ノートを開いた瞬間、胸の奥で何かが静かに収まった。


――ちゃんと、ここにいる。




授業中、視線を上げると、廊下の向こうが一瞬だけ歪んだ気がした。

誰かが立っている、と思った。けれど次の瞬間には何もいない。


――それでも。


胸の奥に、確かな輪郭が触れた。


(……来てる)


名前を呼ぶほどの確信もない。ただ、意識の端に重なった濃厚な気配。

視線を戻すと、ノートの行間がわずかに揺れて見えた。それで十分だった。


昼休み。屋上へ向かう階段を上りながら、一段足を止めると周囲に人はいないか確認した。


『無理はしていないようね』


内側から声がした。音ではない。その意味だけが静かに響く。


「うん」


声に出したかどうか自分でも分からないが、嘘ではなかった。


『続いている?』


問いは短い。確認というより並べただけの言葉に、一拍だけ間を置いた。

昨日選んだこと。どちらかを切り捨てるのではなく、両方を手放さないという選択。まだ形になったとは言えないけれど――


「……続いてる」


言葉は静かだったが、自分の中で決め、自分の言葉で口にした。そんな確信。足元の感覚はぶれていなかった。学校の階段の冷たさも、胸の奥に流れる気の重さも、どちらもそこにある。


『そう』


それだけ。評価でも、肯定でも、否定でもない。ただ、事実をそのまま置いた声音。

少しだけ間が空く。綾乃の意識が遠くを向く感覚がした。


『崩れるときは、音がしない』


忠告のようなセリフが余韻のように沈む。

そのまま階段を上り、屋上の扉を押し開けた。風が吹き抜ける昼の空は澄んでいて、影は足元に素直に落ちていた。

紗季は、フェンスのそばに立っていた。


「来た」


振り返った紗季の表情は柔らかいけれど、視線が一瞬だけ、翔太の足元に落ちた。

そのまま紗季の隣に並ぶ。


「今日は……普通だね」

「普通?」

「うん。普通に立ってる」


その言い方に少しだけ引っかかりを覚える。

翔太は一歩だけ位置をずらし、体をフェンスに預けた。


「それ、褒めてる?」

「……たぶん」


紗季も笑う。その笑みは昨日よりも控えめだった。

二人で並び、フェンス越しに街を見る。風が吹くたび紗季の髪が揺れる。それを横目で追いながら、翔太は何も言わない。


今は、ここにしっかりと立っていられる。

胸の奥で、何かが落ち着いていくのを感じた。

誰も気づかないほど、ゆっくりと、足元の影が少しだけ長く伸びていった。


屋上で過ごした昼休みは、いつもより短く感じられた。チャイムが鳴る直前まで紗季はフェンスにもたれたまま空を見ていたし、翔太もそれ以上、何かを言葉にしようとはしなかった。


教室に戻ると、午後の授業は淡々と進んでいく。板書の音、ノートをめくる音、誰かの欠伸。そのすべてが、以前よりもくっきりと耳に届いていた。


(……調子、いいな)


そう思ったのは、五時間目の終わり頃だった。長時間椅子に座っていても身体の芯が重くならない。集中が途切れそうになると、自然と呼吸が整い、胸の奥に流れる感覚が滑らかに戻ってくる。


昨日、紗季と向かい合っていたときの感覚に近い。気を張り巡らせているのに、過剰に主張しない。背骨の内側を通って、静かに循環している感覚。


それだけじゃない。そこに、一瞬だけ、別の感覚が混じる。

天衝流の溜めと解放。

意識しているわけじゃない。板書を書き写すために肩を動かした、その拍子に、脇から腹へ、何かが「一度止まり」次の瞬間にすっと抜ける。


(……今の、どっちだ?)


問いは浮かんだが、答えを探す必要はなかった。

どちらでもよかった。どちらもちゃんと使えている。そんな感覚だけが残る。



放課後、部活へ向かう生徒たちの流れを横目に、校舎裏へ回った。

昼も放課後も、あそこは不思議と人がいない。授業にも部活にも使われず、教師もあまり来ない――学校の中では、そういう場所だ。


紗季と示し合わせたわけじゃない。

昨日の続きをやるなら……また部屋に行くのは悪い気がした。教わったことはもう一人で確かめたい。そう考えたとき、人目の少ない稽古の場所として、自然と足が向いていた。


紗季は先に来ていて、軽く手を振った。


「早いね」

「そっちも」


短い会話。並んで立つと、昼の屋上よりも距離が近い。それでも息苦しさはなかった。


「……どう?」


紗季が聞いた。何についてとは言わない。

翔太は一度、地面に視線を落とす。小石の並び、土を踏みしめたときの感触。影の位置。


「うん。問題ない」


昼と同じ答え。けれど今度は紗季がすぐに頷いた。


「そっか」


それだけ。深掘りしないし、確かめすぎない。

昨日とは明らかに違う距離感だった。


校舎裏に置かれた薄汚れた大きな板の上。

今、稽古に使っている仮の足場だ。軽く身体をほぐしたあと、紗季と向かい合う。


構え。

最初の打ち込みは確実に。

昨日、紗季に教わった藤堂流の気の流れを意識しながら、ゆっくりと。


気は流れていて止まらない。詰まらない。


次の瞬間、翔太はほんの僅かに気を溜めた。天衝流の技。そのまま、踏み込むと同時に開放。

板を打つ足音が、ほんの少しだけ変わった。


「……今の」


紗季が目を細める。


「どう?」

「うーん……悪くない、けど……」


言葉を選ぶ間。肯定でも否定でもない。

そこまで言って、首を振った。


「いや。今はいいや」


続きを言わなかった。

翔太も何も聞かなかった。


稽古は続く。突き、蹴り、払い、重心の切り替え……

藤堂流の安定感の上に、天衝流の伸縮が重なる。本人の感覚では、噛み合っている。むしろ、今までよりも滑らかだ。

打ち込みを終え、水を飲みながら腰を下ろす。そのとき胸の奥に、わずかな引っかかりが生まれ、一瞬、気が戻るのに遅れた。


(……?)


ほんの一拍。次の瞬間には何事もなかったように。

気のせいだと。そう判断するには、十分すぎるほど短い違和感。


『今の、聞こえた?』


内側から声がした。


「……ちょっとだけ」


音というほどでもない。ただ、感覚の縁をそっと撫でられた程度の気付き。


『混ざってきているわ』

「いい感じ?」


問いは軽い。自分でも軽すぎると思った。

けれど、立ち止まる理由が見当たらなかった。今さら気にして何が変わる?そう考えた時には、胸の奥の引っかかりは意識の外へ押し出されていた。


『まだ』


それ以上、綾乃は言わなかった。


帰り道。

夕暮れの色が街に落ちていく。

紗季は少し前を歩いていたが、時折、振り返る。


「疲れてない?」


「平気」


「……そっか」


それ以上は、聞かれない。

翔太も、それ以上は言わない。


並んで歩きながら、影が重なる。伸びて、ずれて、また重なる。

翔太の中では、確かな手応えがあった。両立できている。

胸の奥に、静かな充足があった。

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