1-12 守りたがりな彼女の選択
目を覚ましたのは、規則的な呼吸音と、朝日がカーテンの隙間から差し込む光を感じた時だった。軽い筋肉痛は感じるが、総じて全身は軽く前夜までの重い疲労感は嘘のようだ。
(やっぱり、綾乃の世界での修行は現実の何倍も効くのか……)
起き上がると自室の空気がやけに冷たく感じる。体内の気が昨日までとは比べ物にならないほど、スムーズに、そして太く流れているのを感じた。
(回路のひびが埋まった……)
綾乃の言葉を思い出す。気が通ることで無理やり拡張された回路が修復されたのだ。
「誰かのためじゃなく、俺自身のために強くなる……」
綾乃はそう言った。確かに彼女の言葉は迷いを断ち切り、集中力を高めてくれた。だけど、俺は日常を完全に捨てるつもりはない。
(紗季との関係、クラスメイトとの日常、家族の笑顔。それを手放すのが『強さ』だとしたら、俺はそんな強さは要らない)
俺が目指すのは、異能と日常の『両立』だ。どちらも手放さない……手放したくない、という我儘で難しい道。そのためには、綾乃や紗季が持つ強さに縛られてはいけない。自分で立つ必要があるんだ。……俺は全てを諦めたくないんだ。
朝の登校中、俺はひたすら『展気』の訓練を続けた。
展気――体中に気を張り巡らせる技術。全身に気を満たし「器」そのものを大きく強くする。「瞬展」という、意識より早く動く極限技術のための前段階。
階段を登る時も、一段目を踏み出す直前、意識を全身の回路に集中する。
(全身に気を均等に流す。滞りなく、ムラなく。昨日の綾乃との訓練を意識しろ。脚に気を走らせる。全身へ、一瞬で!)
ズンッ。
一瞬で気を頭から足先まで満たそうとするが、どうしても胸郭や腹部で気が詰まる。一か所に気を集中させるのはできるが、一瞬で全身に均等に満たすのはまだ無理だった。
「うおっ、っと」
集中しすぎた反動で、体がよろめく。周囲の生徒たちが訝しげな視線を向ける。
(だめだ。どうしても速度が足りない。全身を一つの回路として扱えていない)
まるで、自分の影を踏もうとするようなものだ。どれだけ速く足を動かしても、影には追い付けない。人は光より早くは動けないのだ。
学校に到着し下駄箱の前で立ち止まる。もう一度試す。靴を脱ぐ動作。単純な日常行動だ。……常に無為の姿勢を取り構えている訳にはいかない。日常生活の中で気を扱えてこそ、異能との両立なのだ。
(靴を脱ぐ動作。その一瞬前に、展気を完了させる!)
靴に手をかけた瞬間、全身の気の流速を限界まで高める。指先まで気が到達し――靴を脱ぐ。その時、背後から、冷たくも柔らかな気配が近づいてきた。
「おはよう、翔太。また変なことしてる」
紗季だ。彼女は俺の気の乱れを即座に察知したようだ。
「おはよう、紗季」
俺は慌てて気の集中を解く。
紗季は普段通りだが、昨日の夜の対話が二人の間に確かな『壁』を築いていた。その壁は、彼女の優しさと俺の秘密の間に分厚く立ちはだかる。
「昨日のこと、根に持ってる?」
紗季は下駄箱にもたれかかり、寂しげに微笑んだ。
「別に。ただ、紗季の言う通り、俺は一人で無茶しすぎたかもな」
「そうでしょう?」
その言葉は優しく聞こえるが、彼女の目は笑っていない。
「ねぇ、今日は放課後、藤堂流の基本稽古を見学に来ない?」
「見学?」
「表の話じゃないわ。あなたの今の気の暴れを整えるには、藤堂流の『流れ』の考え方を少し知っておいた方がいいと思ってね」
紗季は「自分のテリトリー」に引き込むことで俺の安全を確保しようとしていた。それは彼女なりの愛情と独占欲の現れのようだった。
(綾乃の道は「攻撃」。紗季の道は「制御」。どちらも俺を求めるが、その目的は正反対だ)
「……いいのか、道場に俺が入って。師範に啖呵を切った手前行きづらいんだけど」
「おじいちゃんは関係ないわ。翔太のために、私が教えたいの……ただし」
紗季は目を細めた。
「昨日みたいな無理やり気を溜めるような真似は、私の前では使わないで」
それは綾乃の教え――天衝流を拒絶しろという静かな命令だった。
「善処するよ」
俺は昨日と同じ返事をした。
そうして授業中、俺の意識は全く別の場所にあった。もし紗季の言う通り、藤堂流の気の概念を知ることが出来、天衝流のやり方に応用できたらどうなるか。
(紗季は……俺の気の扱い方を藤堂流の『流儀』で整えようとしている。だけど俺には今のやり方が合っている。それは肌で感じているんだ、今更変えることは出来ない……。
でも、交わるはずのなかった二つがぶつかったら、思いがけない何かが起こるような気がして……正直ワクワクしてる)
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る頃、ノートに視線を落としながら頭の中では二つの言葉が反響していた。
――無茶をしないで。
――迷うな、前へ。
どちらも正しいし、どちらも今の俺には必要だ。
(……でも、同時に抱えるなんて無理なのか?)
興奮の後にはそんな不安が、胸の奥で燻って入り混じっていた。
放課後。校舎を出ると、空は夕焼けに染まり始めていた。紗季が隣に並ぶ。
「行こ」
声は柔らかいが、一瞬、言葉を選ぶような間があった。向かったのは藤堂家。懐かしい道だ。小学生の頃何度も通った……道場の門を横目に見ながら、紗季は迷わず母屋の方へ進む。
「……道場じゃないんだな」
「うん。おじいちゃんには内緒だし……今日は、私の部屋で、ね。」
振り返った紗季は、少しだけ困ったように笑った。その笑顔は、どこか“安心させよう”としているようにも見えた。
「入って」と襖が開かれる。
紗季の部屋を見ると、壁際にはきっちり畳まれた道着。低い机と本がぎっしり詰まった本棚。その本棚の一番上には、裏返しに伏せられた写真立てがあった。その隅には可愛らしい小物や、流行りの小説が差し込まれている。
部屋に入ると一瞬足が止まった。汗と洗剤と湿った畳の匂い。女の子の生活の匂いが混じっているようだった。
机の隅に置かれた小さなヘアピンと、椅子の背に無造作に掛けられたカーディガンが同じ匂いだと気づいた瞬間、胸の奥がざわついた。
(……ああ……当たり前だけど)
思わず息を吐いた。
紗季はここで暮らしている。稽古をして、学校に行って、疲れて帰ってきて……稽古が終わったあと制服のまま座り込んで、そのまま眠ってしまうような……。
紗季は――綾乃と同じで、ずっと“強い側”の人間だと思っていた。でも、強いだけじゃない。部屋に居るとそんな気がした。
「座って」
言われるまま正座する。紗季は向かいに座ると、一拍置いてから口を開いた。
「……昨日のこと、ちゃんと考えた」
「俺も」
短く答えると、紗季は少しだけ安心したように息を吐いた。張り詰めた糸が一瞬だけ緩む。
「翔太は、前に出る力が強すぎる。溜めて、押して、ぶつける……それは才能。でもね」
紗季は、そっと自分の胸に手を当てる。
「私は、あなたが壊れるのが怖い。昨日も、今日も、それだけ」
責める口調じゃない。
むしろ、震えを必死に抑えている声音だった。
「好きな人が、壊れそうな道を選んでたら……止めたくなるでしょ」
胸の奥がずしりと沈む。その言葉のあと、紗季は一瞬だけ視線を落とした。まるで誰か別の人を思い出したみたいに。
「でも、翔太が前に進みたい気持ちも分かる。昔からそうだった。悔しそうな顔して、でも諦めなくて……」
視線が合う。
そこには、かつて一緒に稽古していた頃の、真っ直ぐな想いがあった。
「だからね、止めるんじゃなくて、支えようって……!そう思ったの……」
「……」
「おじいちゃんの考えは違うかもしれないけど、私は、あなたの“押す”使い方を否定しないようにしようって。それで……藤堂流の気の扱い方があなたの支えるになると思ったの」
「……折衷案、か」
「うん」
少し照れたように笑う。
「……一人で抱え込まないで欲しいの」
その言葉に胸がじんわり温かくなる。
「……ありがとう」
紗季は微笑みながら頷くと、立ち上がり距離を詰めてきた。
「それじゃ早速教えるわね。翔太は理屈より体験した方がいいでしょ?」
「あ、ああ。そっちの方が合ってると思う」
そのまま膝前まで来るとしゃがんで目線を合わせてくる。
「目、閉じて。呼吸に合わせて……」
声が近い。
肩にそっと手が置かれた。
「気をゆっくり流して。止めないようにするのを意識して……押したくなっても、我慢して」
肩から紗季の気が流れ込んでくるのを感じる。その気を感じながら、言われた通り意識を全身に巡らせる。
詰まりはある。でも、昨日よりはっきりと分かる。か細い流れじゃない。
以前はアスファルトの隙間を流れ落ちるように、バラバラに不規則に、ゆっくりと身体を満たしていったが、今は、まだ細いが回路があり気が流れているのを感じる。
(気が……流れる。温かい。)
「今、前に出たよ」
「……ごめん」
「謝らないで」
紗季は微笑んだ。
「それが翔太だもんね」
その言葉が、胸に深く刺さった。
数時間は居たと思ったが、外に出るとまだ明るく夕暮れが街並みを照らしていた。
「家まで送る」という紗季の申し出を断れず、帰り道を一緒に歩く。冬の風はまだまだ寒いが心地よかった。
「今日はどうだった?」
「うん……悪くなかった」
正直な感想だ。
「俺のやり方とは違う。でも……ありだと思う」
「でしょ」
紗季は少しだけ誇らしげだった。
「翔太」と、紗季は一瞬だけ躊躇ってから、袖を掴んだ。指にはほんの少しだけ力がこもっていた。まるで離すのが怖いみたいに。
「ん?」
「強くなるのはいい。でも……無茶はしないで」
「約束する」
「……うん」
それは命令じゃなくて願いだった。
二人で少しだけ笑った。
***
夜。
布団に入ると、昼間の温度が嘘みたいに部屋が冷えた。天井を見上げると外灯の光がカーテン越しに揺れている。
目を閉じた、その直後。
『……なるほど』
頭の奥に、落ち着いた声が響いた。
「綾乃か」
『ええ』
『紗季を受け入れるとは思わなかったわ』
「悪いか」
『いいえ』
一拍置いてから、静かに続く。
『あなたらしい選択』
声に含まれた評価は意外と悪くなかった。俺は、昼間のことを思い返す。部屋の匂い。肩に置かれた手の温度。「無茶はしないで」と言われたときの、あの表情。
(俺は、どちらかを捨てない)
守られるだけでもない、独りよがりでもない。その中間を選ぶのは簡単じゃない。分かってる。迷いはなかった。
『……あの子、少し緊張していたでしょう』
綾乃がぽつりと言う。
「まあな。俺のこと心配しすぎなんだよ」
『そう』
肯定とも否定とも取れない相槌。
『前に進む話になると、空気が変わる』
「……そうか?」
言いながら考える、そう言われてみれば思い当たる節はある。でも、それを深く考える余裕はなかった。
『気にしなくていいわ。今日のところは、ね』
綾乃は、あっさりとそう言った。
その言い方が、少しだけ引っかかる。
「含みのある言い方だな」
『癖よ』
軽く流される。
『あなたは前に進む。紗季は、あなたを止めようとしない。それでいい』
「分かってる」
そう信じている。少なくとも、今日の俺は。
綾乃の声が、少し遠ざかる。
『今は、考えすぎないことね』
気配が薄れていく。
部屋に残ったのは、暖房の微かな音だけだった。
(俺は……間違ってない)
そう思えた。胸の奥に、小さく芯が通った気がする。
明日もきっと前に進める。その確信を抱いたまま、俺は目を閉じた。




