気分は良いんだ
1
「良い時期があったわ」
おばさんが言った。
とても太ったおばさんだ。
だから僕はいつもおばさんのことを心の中で便宜的に『太ったおばさん』と呼ぶ事にしている。
ただのおばさんではなく太ったおばさん。
そうする事で彼女の特別な位置付けが生まれる。
あまり素敵な位置付けだとは言えないが、太っているのだからしかたがない。
おばさんの太り方というのは奇妙で脂肪が不思議なつき方をしている。
なんていえばいいのだろう、肉付きのごく平凡な中年の女性に、巨大なパテでまんべんなくバターを塗ったよ うなそんな太り方をしている。
このように言葉で表現するとたちまちおばさんの太り方は現実味をなくしてしまうのだけれど、実際にみても らえばわかる。
それはとても不思議な太り方なのだ。
実際のところ、僕はこの太ったおばさんがあまり好きではない。
彼女と僕は血の繋がった親類で、皮肉にも太ったおばさんは僕のことが好きだ。
「本当に良い時期があった」
太ったおばさんがもう一度そう言った。
はじめよりもずっと小さな声だった。
だからそれは言うというよりもつぶやくといったほうが適切なのかもしれない。
それとも、つぶやくよりももっと小さな何か、ため息をふうと吐くついでに太ったおばさんはその言葉を一緒に 吐き出したのだ。
「でも、悪い時期もありましたよ」
僕は言った。
「そうね、良い時期があるから悪い時期があるんだわ」
そしてもう一つ付け加える。「これは一般論だけどね」
「そうですね」と僕は言った。
相槌でも打っておくほかないじゃないか。
午後の病室は心地のよい暖かさに溢れていた。
太ったおばさんの部屋は三階の窓際にあって、夕方になれば西日がひどい。
それでも、僕は悪くない部屋だと思った。
窓から見える大きな樫の樹がいい。
緑色の葉が風に身をあずけている様子はなんとなく仲のよい義理の親子を思わせる。
腹違いの兄弟だとか、ライオンと野生児だとか。
いづれにせよ彼らはとても中がいいのだ。
風が窓をすり抜けて僕と太ったおばさんの表面を撫でた。
窓がすこしだけ開いていた。
太ったおばさんのスカートが風をはらんですこしだけばたつき、やがて風が止むと再び大人しく太ったおばさ んの肌にぴったりと寄り添った。
そしてつぎに吹いた細やかなそよ風がスカートをおばさんの腿の上で軽やかに波立たせた。
おばさんはベッドに寝ていて、シーツをかぶってはいない。
上半身を起こして僕を見ているので、ベッドに腰掛けているといったほうがしっくり来るかもしれない。
「でも、本当に信じられませんね」
「なにが?」
「おばさんが転んだぐらいで入院しちゃうってことがですよ」
おばさんはあごもとの肉まで動かして笑った。
「私だって、そんないつまでも健康じゃないわ。それにこんなに太っているのよ。むしろ普通の人よりもずっと 不健康だと思う。もう少し年をとったら散々よ、きっと。ひどいことになるわ」
「そうでしょうか。
僕はね、おばさんのこと、小さいときからとても健康的な人だと思っていたんです。
だっておばさんはいつも元気だったし」
「元気、というよりも笑っていただけ。
わたしナオ君の前じゃついつい微笑が漏れちゃうのよ。
ちっちゃい時のナオ君はかわいかったからなおさらね」
確かにおばさんはいつも笑っている人だった。
体がビアダルのように太っていて、そしていつも無用に笑っているその姿は僕にとって鉄壁のけして揺るぐこ とのない残像を作り上げていたのだけれど。
「そうそう、あのころはよかったわ。
ナオ君の家にだってずっと近かったし、千恵ちゃんにもすぐに会えたし。
でも今はナオ君とは一緒に暮らしているわね。
そういう意味では幸福かしら」
「ええ、今の家だって素敵ですよ」
「ありがと。
でもね、つい昔のことを思い出しちゃうのは人間の癖よね。
おばちゃんの中にあるヒューマニズムっていうのかしら。
ほら歌にもあるじゃない『昔はよかったね』」
そんな歌は知らない。
「デューク・エリントンよ。
退院したら聞かせてあげる」
「はぁ」
「でも私がいない間に勝手にレコード棚をあけちゃだめよ。
ちゃんと覚えといて、うちに帰ったらかけてあげるから」
特に聞きたくもなかったけれど、僕ははいと返事をした。
のどが渇いたのでジュースを買いに廊下にでてファンタグレープを買っておばさんの病室に戻ると、おばさんは窓をにらんでいた。
夕暮れだった。
学校が終わってから病院をおとずれるので、僕たちの面会は必ずといっていいほどに夕暮れ時が含まれていた。
おばさんの入院している病院の周囲には背の高い建物がほとんどなく、夕日はその赤みを惜しげもなく世界に振りまいていた。
それは、窓をすり抜けて、それぞれの病室に侵入する。
太ったおばさんの病室とて例外ではなかった。
「真っ赤ね」
おばさんの、ぶよぶよとした素肌が朱色に染まっていた。
室内は、不自然なぐらい赤くなっていたが、ここではそれ普通であった。
僕はファンタのプルタブを空けた。
「きれいですね」
と僕はいった。
実際にはきれいだと思わなかった。
目が痛かった。
太ったおばさんが体勢を変えて、僕のほうを振り向き言った。
「ここから、病院に出入りする自動車の数を数えていたの」
「暇なときは僕も昔よくやりましたよ」
「そうね」
「それで小学生のとき、塾の授業中に、窓から見える車の数を数えていたらおこられた。
『大塚、外を見るのは楽しいか』って。
別に楽しくなんてありませんでしたけど」
「たくさんの車が出入りしているのね。
でもたいていの人はちょっとした用事だと思うけど。
ほんとに大変な人は悠々と自家用車で病院にやってきたりしないでしょ」
「おばさんは歩いてここまで来ましたけどね」
僕たちは笑った。
「さあ、もう夜になっちゃうわ。
夕陽が落ちだした夜が来るのなんてあっという間よ。
ほんとにあっという間なんだから。
あなたは帰りなさい、明日も学校があるんでしょう」
「わかりました。
でもこのジュースを飲み終わるまでの間ここにいますよ」
太ったおばさんは微笑んだ。
そして僕はグレープを飲み、中身をすべて失ったアルミ缶を持って病室のドアを開けた。
「さよなら。
来週また見舞いに来ます」
「ええ、今日はありがとう」
「来週はレポートの提出があるので少し遅れるかもしれませんけど」
「じゃあ夕陽が落ちてしまわないうちにね」
2
太ったおばさんが転んでからもう三週間が経っていた。
三週間前のその日、伯母さんはある種の必然性を伴って散歩先で転んだ。
足腰がすっかり弱くなってしまっていたらしい。
運がよかったのかどうなのかは知らないけれど、骨折もしなかったし、目立った外傷もなかった。
しかしおばさんは入院した。
大学から帰った僕が病院の通知を受けておばさんの病室に行くと、看護婦が言った。
「いろんなことが不安定になっています。
大事をとって入院していただきました」
いったい何が?
やはりその日も午後で、沈みかけの太陽が赤い色を病室いっぱいにしみこませていた。
入院費は僕が払った。
太ったおばさんには身寄りがいない。
太ったおばさんは結婚経験がない。
僕は大学へ通うためにおばさんの家に下宿していた。
一浪をしてやっと通った大学は、実家からあまりにも離れていたし、かといって見知らぬ下宿先を探すほど 金銭的な余裕はなかった。
そんな折、おばさんの家が大学に近い位置に存在していることが判明したのである。
しかし、このことは僕にとっては喜ばしいこととはいえなかった。
先に述べたように、僕はこのおばさんがあまり好きではないのだ。
そんなわけで、僕は表面上はおばさんに笑顔を振りまきながらも、内面憂鬱さの勝る大学生活を始めること となった。
太ったおばさんは、僕に優しくしてくれた。
昔からそうだけれど、この人は僕に少しやさしすぎるところがある。
太ったおばさんと僕の母親はとても仲がよかった。
二人はまるで本当の姉妹といってもいいぐらいの仲良しで、僕が小学校の低学年時代を卒業して、中学年 (いわゆる三年生から四年生の期間だ)になるころまでは頻繁にお互いの家 を行き来していたようだ。
その後おばさんは今住んでいる土地へ引越しをし、やがて僕の家を訪れることは少なくなっていった。
僕は成長するにつれ自然に記憶の片隅に存在する沼の中へと彼女の存在のほとんどを葬り去っていった。
しかしひとつだけ、僕にとって忘れがたい出来事があった。
それは僕がまだ六つか七つのころに起こった出来事で、たいしたことではないからどうしてこんなにも鮮明に 覚えているのか正直言ってわからないのだけれど、記憶というものはえてし てそういうものなのかもしれな い。
それはこんな出来事だ。
ある晴れた日の午後、どういうひょうしにか知らないけど、僕は太ったおばさんと二人きりになった。
僕は苦手なおばさんを避けて一人で遊んでいたのだと思う。
僕は庭で土をいじったり、蜜を求めてプランタの花に群れている蝶々を眺めたりしてすごしていた。
でも、ふとしたきっかけで庭に出てきたおばさんと、正面からぶつかってしまったのだ。
おばさんのおなかは柔らかかった。
それは太っているというよりも、肉付きのよい、健康的なおなかだった。
僕が言葉も泣く、叔母さんのおなかに顔を埋めたまま戸惑っていると、おばさんは旧に僕の腰に両手を持っ てきて、僕の体を持ち上げたのだ。
高い高い、だった。
おばさんの頬がゆがみ、彼女が微笑んでいることがわかった。
とても醜い微笑であった。
持ち上げられた高さからは、ちょうど庭に面したキッチンの窓がのぞけた。
僕は大人の背丈から見た、住み慣れた我が家の光景に違和感を感じた。
そしてそれ以上に恥ずかしかった。
7歳といえば、もう誰かに抱きかかえられて「高い高い」をしてもらう年齢ではないのだ。
僕はおばさんの手の中で暴れた。
するとおばさんはちらりと困ったような表情を目の中に見せたかと思うとまた微笑んで、素直に僕を地面へと 下ろしてくれた。
僕は逃げるように家屋の中に入り、キッチンの窓から庭を覗き込むと、太ったおばさんはそのまま庭で何か の作業を始めたようだった。
十数年も昔の出来事なので、いろんな部分は僕の頭の中で脚色されているかもしれない。
だけど、太ったおばさんが僕の腰の括れを両腕ではさんで僕の体を持ち上げた瞬間、そしてそのときの太っ たおばさんの笑い顔、それらはまるで何度繰り返し再生しても画質の劣化し ない、よくできたビデオテープの ようにはっきりと思い出すことができる。
なぜだろう、その瞬間はとても奇妙なのだ。
何が奇妙なのかはわからない。
だがしかし、それは奇妙なのだ。
この感覚は、答えの教えられない間違い探しのような感覚だった。
僕はおばさんが引っ越した後も時々、この瞬間を思い起こしては奇妙さの原因である「間違い」を探した。
しかし結局そこに答えは見当たらなかった。
太ったおばさんの醜い笑顔と健康的な休日の午後のきらめきのアンバランスが生み出した違和感だろう か。
それとも、おばさんの腹が想像よりもふくよかで柔らかいものだったという触感的事実が提議した違和感だ ろうか(僕は太ったおばさんの腹は出っ張っていてカチカチだろうと思ってい た)。
僕の想像は常に、美と腐敗の取り合わせが生み出す意外性に固執していた。
太ったおばさんという存在そのものが、僕にとってはある種の腐敗を思わせるからだ。
しかし太ったおばさんの実質的な優しさは、僕に美しさのようなものを感じさせた。
僕はおばさんの優しさがむしろ嫌いだったはずだけれど、想像の中においてはそのやさしさは美の象徴です らあった。
だが。
僕は時々思う。
あの瞬間に感じた奇妙さは、美と醜の対称だとかそんなものとは関係がないのだと。
なんとなくそれがわかるのだ。
だからといって奇妙さの正体が見えたわけではないけれども。
それは今までの僕には理解し得ない種類の物事であるような気がした。
体が、どこかの器官でそれを認知しているが、僕の脳はそれを形として知覚し得ないのである。
それを認知している器官が自分の体のどこに埋め込まれているのかも知らないのだ。
それはただあるのだ。
僕の、太ったおばさんに対する感情に関しても同じことが言えた。
僕は、なぜ彼女のことが苦手なのか知らなかった。
あるいは彼女の優しすぎるところが嫌いなのかもしれないし、あるいは彼女の醜い笑顔が嫌いなのかもしれ ない。
しかし、それらの仮説はすべて根本的な点で誤っているように感じられた。
3
「ねぇ?」
「うん?」
「今、どうかしら」
「なにがです?」
「今がネ、良い時期なのか悪い時期なのかなってこと」
「さぁ」
「私、一週間ずっと考えていたの。今がいい時期なのか、悪い時期なのかってこと。
ほら、いったでしょう、前にあなたがお見舞いに来てくれたとき。良い時期があったって。この世界というか人 生にはいい時期があって、悪い時期があって、それで気分も変わっていくん だって。正確にはそのままの言 葉じゃなかったかもしれないけど、そんな内容のこと。昨日ちょっとだけ話したでしょう。やっぱりいい時期な 気がするわ」
「じゃあそうなんでしょう」
「うん。
私はこんな事になって、はっきりいって不幸せな境遇っていうほうがぴったりだと思うけれども、それでもね、 気分は悪くないの。
すっごく不幸だという気がしないのよ。
これっぽっちも。
不思議ね、でもね、どこかで、これは最低だって思っていることも確かなの。
つまり、全体でいけば今の私はすごく不幸なのね。
でも、また『でも』って言うけど、今という一瞬で言えば私どうって事ないのよ。
だってこのベッドはとても気持ちが良いし、私は体のどこにも痛みを感じてはいない。
どうしてだろ、すっごく安らいでるの。
こんな事ってないわ。
体中の力が抜けていくのよ。
すごくなんていうか、凪いでる海みたいに心地良いのよ。
おかしいでしょ。
一方冷静に自分の事見れば、泣いちゃうぐらい悲しくなってくる。
だから、私の中に大きく二つの感情があるのね。
悲しくてかなしくてたまらない私と、疲れてしまって座り込んでいて座り込む事の気持ちよさに立てなくなって いる私」
そこまで言って口をきゅっと結んで、再びあけた。
「駄目ネ駄目ネ駄目ね」
太ったおばさんは泣いていた。
「気分が良いの。
どうしよう。
気分がいいのよ」そしてそれっきり、黙り込んでしまった。
彼女は両手を顔に持っていって、手のひらでその肉付きのよい顔を包み込んだ。
その様はまるで泣いて入るように見えた。だけど泣いているわけではなかった。
時折、風がしゅうっと音を立ててふいた。
僕は口笛を吹いた。
吹いてから気がついたのだけれど、イナフ・ズナフの「ハズ・ジーザス・クロースド・ヒズ・アイズ」だった。
僕は赤くなった。
病室で吹くにはあまりにも暗示的な曲だったからだ。
だけど一方で、今の僕たちにはぴったりの曲であるようにも思われた。
ごく自然に出てきたのがこの曲だったのだ。
その点では僕の感性が不安な未来を予見していたとも言えなくはない。
我々は眼を開けて来るべき裁きを受けるべきなのだ。
「いい曲だわ」おばさんが手のひらで顔を覆ったまま言った。
「でも、すこしくらい曲です」
そう答えながらも僕は胸をはった。
おばさんは顔から手を離した。
「そうね、いい曲っていうのはたいていが暗いわね。」
そういってから付け加えて
「あと、いくらいい曲でもここで口笛を吹いては駄目よ」
そのとおりだった。
その曲が何であれ、病室で口笛を吹くという行為そのものが好ましい行為ではあるまい。
結局僕は赤くなった。
今は赤くなって己を恥ずべき時なのだ。
「なんだか、歌が歌いたくなっちゃった」
太ったおばさんが言った。
「カラオケというものがありますよ」
「私、行ったことがないのよ。
今度連れて行ってくれる?」
「ええ」
「じゃあそのついでに買い物もしましょう」
「ええ」
「先ずデパートによって、お食事をして、それからカラオケ」
デパートとカラオケというのはなんだか合わない様な気がしたけれどあえて口にはしなかった。
たぶんデパートという高級な響きとカラオケというチープな響きが磁石のN極とS極のように対立しているんだ と思う。
だけど高級なカラオケや安っぽいデパートがあっても悪くはないし、その逆だってありうる。
それらは相反しながらも互いに引き合ってもいるのだ。
そして二つをひとまとめにする限り我々は高級さとチープさを同時に手に入れる事が出来るのだ。
「なんだかデートみたいですね」
僕は言ってから後悔した。
太ったおばさんは嬉しそうに
「デートですって」
笑った。
赤茶けた夕暮れの病室にあってその笑い声は異質なものの一つであった。
病室はいくつかのそこにあるべきではないものを内包する性質がある。
それはたとえば元気極まりない人間であり、あるいは何気ないTV番組であり、あるいは僕の吹いた口笛で あり、あるいは楽しげな笑い声であるのだ。
だけど、太ったおばさんの存在自体はしだいに病室に同化しつつあった。
たとえ異質なる笑い声が彼女から発せられたものだったとしてもだ。
初めておばさんが入院したとき、僕の目には太ったおばさんの姿が病室という空間から浮き出て写った。
それぐらい僕にとって太ったおばさんという存在は病室とは程遠く無縁であったのだ。
しかし病室はしだいにおばさんを摂り込みつつある様だった。
静かな淡い雨がそっと音も立てずに地面へと吸い込まれてゆくように太ったおばさんという存在もいまや半 分ぐらいは午後4時の病室に吸い込まれてしまっていた。
そう、もう4時なのだ。
夕日の赤がなおいっそう強くなっていた。
トマトを潰したかのような赤が僕とおばさんの部屋に忍び込み影にならない部分を朱色に染めていた。
まるでトマト料理の具になったような気分がした。
僕は『夕陽に赤い帆』を口笛で吹きかけてやめた。
これ以上不審な行為をするわけにはいかない。
「ねぇ」
「え?」
「私たち、恋人同士になれるかしら?」
恋人同士。
「おばちゃんと、ナオ君と」
恋人同士?
「ムリよね。
こんなおばちゃんとだもん。
太ってるし、病気だし」
「・・・・」
「冗談よ、冗談」
「うん」
しばらく、僕たちは沈黙というベールの中にお互いの身をひそめた。
その間に部屋はもっと赤くなった。
こんなに赤い夕暮れは初めてだというぐらいに赤かった。
この病室の窓の位置が関係するのかもしれない。
僕は、太ったおばさんが恋人である事について考えてみた。
僕が太ったおばさんの腕をとって商店街を歩くさまを想像してみた。
それはちぐはぐな映像であるように感じられた。
だけど、想像の中の僕たちが屋台のアイスクリームを買って食べると、とても幸せであるようにも感じられ た。
僕と太ったおばさんは恋人同士になれたかもしれない。
いろんなことが少しずつ違っていたら。
「ナオ君、好きよ」
太ったおばさんがつぶやいた。
つぶやいたそばから消えてなくなってしまうような種類のつぶやきだった。
僕は太ったおばさんの顎を引き寄せてキスをした。
ディープキスだった。
僕が舌をからませると、太ったおばさんもそれに答えた。
それでもっと深いキスになった。
僕たちの舌が立てる音が静かな病室に響いた。
これもまた病室には異質な音の一つだった。
口笛といい、笑い声といい、僕たちは病室にとって異質な音を作り出すのが好きなのだ。
30秒ほど舌を吸いあうと、僕たちは自然に唇を離した。
太ったおばさんは僕に寄りかかろうとした。
僕は太ったおばさんを引き離し、携帯電話だけを握り締めて病室を出た。
走って階段を下りてロービーにたどり着くと、息が切れ切れになっていた。
僕はあまり病院の空気を吸い込みたくはなかった。
なぜだかわからないけれど、そこには小さな死の分子が空中に散らばっているような機がするのだ。
おばさんは、おそらく、もうその分子を数多く吸い込んでしまっている。
たとえ、今の病状がよくなっても無駄なような気がした。
死はすでに彼女にとって縁遠いものではなくなってしまっているのだ。
死は仮定や可能性のひとつとして彼女の体の中にこびりついてしまった。
気分が良い?
時期が良い?
そんなことは関係ないと思う。
ここには表面的・即時的な心象とは次元の異なる何かが存在していて、いったんそれが体の内部に吸い込 まれてしまえば、もはやどうすることもできないのだ。
そしてそれは、おばさんの体をくるんでいる脂肪にぷつぷつとあいた『分子レベルの隙間』に滑り込み、その一部として含まれて しまっている。
病院を出ると、もっと大きな夕陽が僕の頭上にあった。
病室から見えるよりもずっと濃い朱色のインクが、視界のすべてを染め上げていた。
この光景は、なぜか僕に太ったおばさんのバターのような脂肪が、溶けて流れ出している映像を思わせた。
3階の病室から、トマトのような夕焼けの赤に混じったおばさんのバターのような脂肪が、世界中に流れ出て いる。
そして油を惹かれた道をすべるように夕焼けはもっと世界中を赤く染めるのだ。
やがて世界中は、うっすらと広げられた太ったおばさんの脂肪分に包まれるだろう。
ある不安な分子を含んでしまった脂肪分に。
僕は怖かった。
僕もそこに含まれているのではないか。
数年前に書いた作品です。
眠らせておくのももったいないかな、と思い、投稿します。
これを書いたときはまだぎりぎり10代だったと思います。
懐かしい。
この作品を書いたすこし後ぐらいに、PCゲーム会社に就職してちょっとだけエッチなゲームのシナリオ書いたけど、どうも方向性の違いがあって、やめました。
いい思い出です。
小説の感想いただけたらうれしいです。