リアルトロッコ問題
「さて、皆さんトロッコ問題を知っていますか」
教授は普段の授業のように穏やかな口調だった。
先ほどまでの興奮した雰囲気はいっさい感じられない。
トロッコ問題ぐらいは僕も聞いたことがある。
初めて聞いたときはトロッコ問題に解答を出せなかった気がする。
なんて残酷な問いだろう。なんでこんなことを考えさせるんだ。
気持ち悪い。そうやって憤りすら感じていた気がする。
「念のため説明しておきましょうか。
まず、あなたはトロッコの操縦者です。
そしてこれから線路が2つに分かれる。
このまま進んでいった先にある1つ目の線路には5人の人がいる。
このままではひき殺してしまいます。
あなたは、急遽線路を切り替えようとする。
しかし、切り替えた先には1人の人がいる。
さて、あなたは線路を切り替えますかという問題です」
「それでは、実践に入りましょうか!!」
教授の声は穏やかなトーンから一転し、もはや狂気しか感じられない。
不吉なものを感じ取ってか、みんなの息を飲む音が聞こえたような気がする。
この教室はそれほどに静寂で重苦しい雰囲気に包まれている。
ただ一人、狂った教授という例外を除いて。
ふと、この状況で脳が覚醒したのか僕は教授の意図に気づいてしまった。
いや、多分なんとなくみんなも気づいているんだろう。
トロッコ問題の実践という言葉の意味を。
「皆さん、だいたい察した様子ですね!! 優秀な生徒たちで安心しました。
その通りです、今から線路の先の一人と操縦者を選ばせていただきます。
そして、選ばれし操縦者には一人の命とクラス全員の命どちらかを選んでいただきます。
選ばれなかった方に待つのは当然、死です。
残念ながら、トロッコは用意できないので私が殺すとしましょう。」
案の定だった。
「前置きはもういいでしょう。さて、まずは線路上の一人から決めましょうか。できれば誰か立候補していただけませんか?」
「「......」」
誰も答えることができない。当たり前だ。
ここで、立候補するのはあまりにもリスクが高い。
操縦者と示し合わせて二人だけ助かるということもできるが、そんなことを相談できる時間なんてなかった。
それに、よほど相手のことを信頼していないと命を預けるなんてできないだろう。
(まぁ、できてもあの教授がそんな興覚めなことを許すとも思えないしな......)
「もう1分近くも沈黙していますね。10人ぐらい殺しましょうか?
5秒の沈黙につき一人殺す。忘れたわけではありませんね?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!? 仕方ないだろ!? こんなの誰が立候補できるってんだ!?」
生徒の一人が抗議の声を上げる。
普段なら威圧感がありそうな生徒だったが、今は見る影もない。
ただこの状況で教授に意見できるだけ、肝は据わっているのだろう。
「そうですねぇ、ではあと1分だけ時間をあげます。もし決まらなければ仕方がないので私が勝手に選ぶとしましょう。」
「「......」」
やはりそれでも沈黙は続く。誰だって自ら死のうとは思わない。
教授に選ばれたら運が悪かったと思うことにする。
きっと、本能的にそちらの方が身の危険が少ないとわかっているから。
(あと10秒で誰か選ばれるのか......)
(頼むから陽彩と僕だけはやめてくれ......)
この時ばかりは無神論者の僕もひたすら神に祈り続けた。しかし、その祈りは予想外の形で裏切られる。
「私がなります。」
(な、なんで......? どういうことだ?)
「ほう......いいでしょう。 名前はたしか、神崎さんでしたか?」
「はい」
「ちなみに立候補の理由を聞いてもいいでしょうか?」
陽彩は一切の迷いなく、答えた。
「私は彼を、明人を信じてるから。」
「それに......は私だけでいい」
陽彩は教授にだけ聞こえるように何か言ったように見えた。
「なるほど、それなら乗ってあげましょう」
「操縦者は景明人くん! あなたは彼女とこの教室の全員、どちらを選びますか?」
「本当は操縦者も立候補制にするつもりだったんですがねぇ」
「ただ、こちらの方が面白そうなので立候補したかった皆さんには謝らせてください。」
「ちょ、ちょっと待てよ!? そんなのずりぃだろ!!」
先ほど教授に意見していた生徒が声を上げる。
一度意見を聞き入れてもらえたからか、調子に乗って話しているように見える。
そして、その勢いに便乗するかのように他の生徒も抗議の声を上げ始めた。
「そ、そうだ!! そんなの神崎さんと景の奴だけ生き残るに決まってんじゃねぇか!!」
「ひ、卑怯よ!! 最初から示し合わせてたのね!?」
非難轟轟、命惜しさに喚き散らす生徒。
あの殺人鬼が決めたことなのに、こっちが仕組んだとか言い出すやつまでいる。
僕はそれが我慢ならなかった。
「ふ、ふざけないでくれ!! 僕と陽彩だけ助かるだと!? そんな簡単に決められるわないだろ!!」
「その通りですよ、皆さん。彼はあなたたちみたいに浅い人間ではないでしょう。」
なんでお前にそんなところで肯定されなければならないんだと思ったが、今は黙った。
現状を解決するべく脳を動かした方がいいと思ったからだ。
「きっと、この命題に一番苦しむ人です。だからこそ私は選んだのです。これは授業ですからね、そういう人こそふさわしい。」
(くそっ......!! どうしろってんだ......)
「そうですねぇ、せっかくですから沢山時間をあげたいのですが、授業時間に余裕もないですからね。」
「10分......10分であなたの大切な方を選びなさい。」
10分。命の価値を決めるにはあまりに短い時間。
いや、そもそも人が人の命の価値を推し量るなど許されるはずもない。
どうすればいい。選べない。選びたくない。
傍から見れば、僕は理不尽な選択を迫られている悲劇の主人公なのかもしれない。
でも、僕からしたらそんなことは関係ない。
自分の選択で陽彩か教室のみんな、どっちかを殺さなきゃいけないんだ。
ああ、どうしてこうなったんだろうか。哲学の授業なんて取らなきゃよかった。
別に必修科目でもないし。なんとなく哲学チックなことが好きでそれに陽彩も付き合わせた。
それがそんなに悪いことかよ。死ぬのが怖い、自分の生に意味がないのが怖い。
哲学を通して自分が生きるヒントが見つかればいいと思っただけなのに。
なによりも死を恐れている僕がどうして人を殺せるだろうか。
わからない。どうしていいのかわからない。わからない。
こうやってただただ時間を浪費していくだけ。そしてどちらも選択できず後悔する。
それは嫌だな。ああ、誰も死んでほしくないな。僕も死にたくない。
至極当然の願いがこんなに魅力的に見えるなんて思わなかった。
(決められない......決められるわけないだろ!!)
(何か......何か全員助かる方法はないのか......? いや、無理だ。あの教授を出し抜いて無力化するなんてできっこない......)
(人は理不尽な2択に直面したとき、存在しない3択目を探そうとする。
本当に大事な2択を決めるための時間を費やして結局後悔する。
まぁ、でもそれが英雄の素質というやつだ。そのためにお前は生まれたといってもいい。)
(え......? お前!! この大事な時に出てくんな!!)
(勝手に出てきて勝手に消えるって言っただろ)
(うるさい!! それどころじゃないんだよ!!)
(わかってる、わかってるから一旦落ち着け)
(ふざけんな、これが落ち着ける状況に見えるか!?)
(うるっせぇな、じゃあ衝動のままどっちか選んじまえばいいじゃねぇか......そして一生後悔するんだな)
(くっ......!!)
(わかった......それで? 本当になんで出てきた、なんか意味があるんだろ?)
(よし、いいか時間もねぇからよく聞け)
(成功すりゃ全員救ってハッピーエンドだ)
(は? そ、そんな方法あんのか!? あるなら早く教えろ!!)
(わかった、わかったから一旦黙れ)
(お、おう......)
(まず第一にお前、実行する覚悟はあんのか?)
(え...?)
(考えてみろ? 今の2択なら最低でもお前含めて二人は助かる。
それを放棄して0か100かの賭けにでるんだ。お前にその覚悟はあるのか?)
(確かにそうだ......でも、それでも全員救える道があるならそっちを目指したい。
そもそもあの教授の気分次第じゃ全員死ぬかもしれないし、どっちにしろリスクはある。
それなら僕はより良い結果を求める)
(それで? 作戦は?)
(ったく......あんだけ悩んでたくせにここの決断は早いのな。まぁ、そりゃあそうか)
(うっし、説明するぞ。まず、お前が陽彩を刺し殺す状況を作れ)
(は...? な、なに言ってんだ?)
(いちいちうるせぇ、いいから黙って聞け)
(次、刺すタイミングで俺とお前は体を入れ替える。
そして俺が陽彩の腹を刺すと見せかけて自分の手のひらを刺す。
この時、俺と陽彩と教授の位置関係はなるだけ一直線がいい。
教授からは刺してるところが死角で滴る血だけ見えるのが理想だ。)
(そして最後、ここが一番重要。そのあと陽彩がぶっ倒れて教授に死んだと思わせる。
事前に作戦を伝える手段はなんもねぇ。あとは、陽彩が意図をくみ取ってくれるかどうかだ。
正直、賭けの要素が強い。どうだ、これでもやるか?)
(やる、やるけどその前に質問だ。まず1つ目、刺すタイミングで俺らが入れ替わる意味はあるのか?)
(まぁ、お前が演技をしながら自分の掌をぶっさせるならそれでもいいんだけどな。
刺した後も苦痛を我慢する必要あるし無理だろ?)
(その理屈ならお前も条件同じじゃねぇのか?)
(いや、俺が体を使うときは妙に痛覚が鈍い。というか感覚全部が割と鈍いんだよな。最初は動かすのに苦労したぜ。)
(ちょっ、お前、いつ俺の体動かしたんだよ!? んな時なかっただろうが!)
(まぁ、お前が寝てるときとかいつでもやりようはある。起きたらなんか体が痛い、ちゃんと寝たのに寝不足なんて日もあっただろ?)
(あ、まぁ確かに......心当たりしかねぇ......)
(つーわけだ、ほかに聞くことは? もうあと1分ぐらいしかねぇぞ)
(まぁ、細かいことはいいや。これが一番の問題だ。僕が陽彩を刺す状況をどうやって作るか。普通にこんな状況作れねぇだろ!)
(いいや、お前ならやれるはずだ。)
(丸投げなのか!?)
(しょうがねぇだろ! 俺にはなんも思いつかん! ハッピーエンドの選択肢を提示しただけでも褒めてほしいぐらいだ!)
(それともなにか? そうやって無理無理言ってやめとくか? どちらかを犠牲にするか?)
(わかった......努力はしてみる。あの教授の性格ならこのリアルトロッコ問題をより面白くしようとするだろ......)
(はは、まじで賭けじゃねぇか......人間なんて一番思い通りにならねぇのにな)
「さて、10分たってしまいました。答えは出ましたか?」
僕は覚悟を決めてはっきりと告げた。
「ああ、僕は陽彩を殺してみんなを救う。」