【コミカライズ】変人と噂される辺境伯の身代わり花嫁となりましたが、実は優しい旦那様のつくるあたたかい食事のおかげで幸せです。
物語の後半、★★★~★★★内は、辺境伯マティアス視点です。
★
それは、夕食の時間に起きた。
「わたくしの代わりにお姉様が辺境伯と結婚すればいいのよ! そうよ、名案だわ。だって、お姉様なんかに結婚の申し込みをしたいと考える御方なんていないでしょう?」
妹のイザベラがそこまではっきりと言ってきたことに、わたしは眩暈を起こしそうだった。
たしかにイザベラはわたしなんかと違って社交的で、明るくて、頭の回転も速い。
わたしとイザベラが同じなのは見た目だけ。赤みがかった金髪は緩やかなウェーブを描き、二重の瞳は淡いピンク色。
背丈や顔かたちは似ているものの、いつでも自信に溢れているイザベラと違って、わたしは下がり眉で、笑うのが下手だ。
そんな妹は、物心ついたときから王太子殿下の妃の座を狙っている。
だからといって、夜会でイザベラを見初めたという辺境伯の求婚を、わたしへ押し付けてくるとは思いもしなかった。
辺境伯マティアス様は変わり者という噂で、先日の夜会も、数年ぶりに姿を見せたらしい。
妹は社交辞令としてマティアス様と会話を交わしたそうなのだが、どうやらそれがマティアス様のお心に刺さったらしい。
突然、我が伯爵家へ求婚の手紙を送ってきたのが、今日のお昼すぎの話だ。
「……え?」
「ふむ。そうだな、それがいい。イザベラは流石だな。ヘンリエッタの将来まで考えてやるだなんて」
お父様が、立派な髭を撫でながら何度も頷いた。
「そ、そんなことをしたら、マティアス様の不興を買いませんでしょうか……?」
「問題ない。イザベラには既に内々で決めた婚約者がいると説明し、その代わりに姉のヘンリエッタを嫁がせると提案するのだ」
睨むような目つきで見られてしまえば、縮こまることしかもうできない。
「彼は今年で28歳になったのではないか? そもそも、これまで数々の縁談が破談になった男なのだ。10歳近く若い女性が嫁げば卿は喜び、我が家は辺境伯との繋がりができて、双方メリットがある。すばらしい話だ!」
信じられないことにお父様もイザベラも本気だった。
あれよあれよという間に、わたしは辺境伯のもとへ嫁ぐこととなってしまったのだった……。
★
王都のはるか北に位置し、山々に囲まれた辺境領。
温暖な気候で過ごしやすい伯爵領から数日かけて向かったそこには、まさしく辺境と呼ぶべき光景が広がっていた。
馬車から降りると少し空気が冷えていて、くしゃみが出てしまう。
イザベラの言ったことは正しい。19歳になってもわたしへ結婚の申し込みはひとつもなかった。
人と話すことが苦手という点は、社交界において致命的な欠点。夜会へ参加しても誰とも交流を深めることができず、ここ最近は参加すら見送っていたくらいだ。
そんなわたしが変わり者と噂される御方の妻となれるのか、不安でいっぱいだ。
伯爵家の御者に挨拶をして、馬車を見送る。
伯爵家の者が誰もついてこなかったのは当然だ。皆、こんな遠くまでわたしのために来ようとは思わないのだ。
嫁入り道具として持たされた大きな鞄を両手で持ち、なんとか玄関まで歩いた。
こん、こん。
ライオンの形を模したドアノックの輪を叩いて報せるも、何も返ってこない。
「……帰りたい……」
気持ちが口から漏れてしまった。今さら帰ってもわたしの居場所はないというのに。
というか、もしマティアス様から気に入らないと離縁を突き付けられた場合、わたしはどうすればいいのか。今から修道院を調べておいた方がいいだろうか。考えれば考えるほど不安すぎて眩暈がしてきた。
そのとき。
「遠路はるばるご苦労だった!」
「!?」
不意に大きな声をかけられて、勢いよく背筋が伸びる。
恐る恐る振り返ると、そこには作業着姿の精悍な男性が笑顔で立っていた。手には大きな農作業道具らしきものを持っている。
「疲れているだろう? 夕食の時間までは休んでいるといい」
「あっ、あの……?」
「これはすまない。私が辺境伯マティアスだ。君は、ヘンリエッタ嬢だね?」
何度も頷いてわたしは肯定する。
……それにしても想像していた辺境伯のイメージとはずいぶんかけ離れている御方だ。
陽に灼けた肌。頬には泥がついている。
つばの広い帽子の下から伸びているのは艶のある黒髪で、後ろでひとつに束ねているようだ。
瞳の色は、王都では珍しい若草色。きらきらと輝いていて、……眩しい。それなのに、目が離せない。
「故郷から離れて心細い思いをさせるかもしれないが、私の元へ来てくれた以上は大事にするから、安心してほしい」
大きな歩幅でマティアス様が近づいてくる。
がっしりとした体つきで、男性慣れしていない身としては少々怖いものがある。
マティアス様はすっと手を差し出してきた。どうやら握手を求めているようだ。
「よ、よろしくお願いします……」
なんとか手を差し出して握手に応じると、彼は白い歯を見せてにかっと笑った。
「君の部屋も用意してある。メイドに案内させよう」
「ルルと申します。これからヘンリエッタさまの身の回りのお世話をさせていただきます。ご不便なことがございましたら、遠慮せずお申し付けくださいませ」
いつの間にか目の前にもうひとり、ふくよかな女性が立っていた。
年齢は、わたしの母に近いだろうか。メイドと紹介された女性は、マティアス様と同じ作業着姿だった。
「どうぞ中へお入りください。荷物はお持ちしますね」
「は、はい」
屋敷内は伯爵家の館をひと回り大きくしたような作りだった。ようやく見慣れた景色に近いものがあって、少しだけほっとする。
二階に上がり、廊下を歩いた先でルルさんが立ち止まった。
「こちらは旦那様のお部屋となっております。その隣が、ヘンリエッタ様のお部屋でございます」
扉を開けてもらい中に入ると、実家の部屋よりもやはりひと回り大きい空間に、チェストやテーブルや椅子、ベッドなどが置かれていた。
「すてき……」
思わず声が零れてしまった。
どれもわたしの好きな、ペールホワイト色だ。妹にあてがわれて、わたしは決して選ぶことのできなかった色でもある。
「喜んでいただけて光栄ですわ。残念なことに旦那様は女性の好みをまったく存じ上げない御方なので、差し出がましいとは思いましたがメイド一同で家具類は揃えさせていただきました」
「す、すごくうれしいです。ありがとうございます」
「では、旦那様もおっしゃられていましたが、夕食までゆっくりとお休みくださいませ。夕食はヘンリエッタ様の歓迎会ということで、旦那様がすごく張り切っていますのよ」
わたしは首を傾げた。するとルルさんは楽しそうにくすくすと笑った。
「旦那様の趣味は料理でございますの。今も、食卓に出すための野菜を収穫しているところです」
「……領主様が直々に、ですか?」
「領主様直々に、です。旦那様は魚釣りもしますし、家畜もさばきます。搾乳も上手なんですよ!」
★
テーブルの上にはずらりとご馳走。
鶏の丸焼き。ミートパイにニシンのパイ。ほかほかと立つ湯気。
薄く切られたパンには野菜が挟まっているし、色とりどりのフルーツには芸術的な飾り切りが施されている。
席へと案内されたわたしは、思わず呟いてしまう。
趣味が料理と説明されたけれど、想像以上の光景だ。こんな料理、伯爵家でも目にしたことがない。
「まさか、これをすべて……?」
「私は何でも自分でやる主義なんだ。どうだ? 飾り切りも初めてにしては巧くいったと思うのだが」
貴族然とした装いに着替えられたマティアス様はしゅっとしてお美しい。精悍な顔つきで、きりっとした形の眉が特徴的だ。
初対面のときとは別人のようだけど、話し方が同じだから認識できた。
さらに驚くことに、テーブルには使用人全員分の食事が並んでいた。
「我が家では身分に関係なく夕食を全員で取ることにしているんだ」
その言葉通り、次々に辺境伯で働く人々が集まってくる。
ルルさんがわたしの隣に座ってくれたのでちょっとだけ安心した。
全員揃ったところでマティアス様は立ち上がった。わたしも慌てて立ち上がる。
「皆の者、今日もよく働いてくれた。紹介しよう――ヘンリエッタだ。私の妻となる」
「おめでとうございます!」
「ようこそ!」
「なんてお美しい!」
「旦那様は果報者ですね!!」
次々に声をかけてもらい、なんだか気恥ずかしくなってくる。
「よろしくお願いします……」
「さぁ、食事にしよう。神の恵みに感謝を。乾杯!」
切り分けられた鶏の丸焼きは、外はかりっと芳ばしく、中はふんわりとして甘みがあった。
パイの具材はこれでもかというくらいにたっぷり詰まっていて食べ応えがある。ミートパイのひき肉は大きくてごろごろしていて、ニシンのパイは初めて食べたけど、生臭くなくてくせになりそうだ。
野菜を挟んだパンは、しゃきしゃきとした葉野菜とふわふわのパンの食感の差がふしぎだけど、ぺろりと食べてしまった。
全員から勧められるままに食べて、食べて、食べた。
お腹はいっぱいになったけれど、ちっとも苦しくはなかった。
「……こんなに食べたのは生まれて初めてです」
「それはよかった。明日の朝もご馳走を用意しよう。早起きは得意か?」
マティアス様の問いかけに、わたしは頷いた。
★
早朝、陽も昇らぬ時間帯。
マティアス様に連れて行かれたのは、館の裏の鶏舎だった。
鶏が動いているのを見るのは初めてだ。首をしきりに動かしている。騒がしくて、せわしない。
そして、ちょっとだけ怖い。
くくく、とマティアス様が楽しそうに笑う。
「怯えなくてもいい。座っている鶏の下にゆっくりと手を差し入れて、持ち上げる。そうすれば産みたての卵が隠れているので、反対の手で取る。これだけのことだ」
マティアス様は簡単にやってみせるものの、鶏のつぶらな瞳に見つめられると動けなくなってしまう。
ただ、何もできずにいても、怒られることはなかった。
「ヘンリエッタ嬢、手を出してごらん」
「こうですか?」
するとマティアス様はわたしの手のひらの上に、卵を載せてくれた。
「……温かいです」
「そうだろう。おいおい慣れていけばいい。さぁ、朝食はこの卵を使おうか」
厨房はとても広くて、何十人でも余裕に入れそうだ。見たことのない大きな機械もある。
手を洗い、マティアス様がエプロンを着ける。エプロンはわたしの分も用意されていた。
「鉄のフライパンを温めて、目玉焼きを焼こう」
朝食は、夕食と違って各自で作って食べる決まりになっているらしい。
辺境伯のルールは、ふしぎなものばかりだ。
「先日燻したばかりのベーコンもあるから一緒に焼こうか。脂の旨味で、目玉焼きがさらに美味くなるぞ」
大きなベーコンは艶々としている。
慣れた手つきでマティアス様がベーコンを食べやすい大きさに切り出し、熱したフライパンへ乗せた。
じゅ~。
ベーコンの焼ける音とにおいが昇ってくる。片手で卵を割り、フライパンの空きスペースへ中身を落とす。
「これはやってみるか」
「は、はい」
「最初だし両手でやってごらん。卵を平らなところでぶつけてひびを入れるんだ。そのひびに親指を入れて、勢いよく左右に開いて一気に中身を落とす――そうだ! 上手にできたな。おそるおそるやると、殻の欠片が混じってしまうので、勢いが肝心なんだ」
じゅわ~。
「できました……」
卵が割れた。……このわたしにも? 信じられない。
何をしてもだめだと、うまくできないと、言われ続けてきたのに。
しかも、今、褒められた……?
「パンは昨日の残りを食べてしまおうか。焼いてバターでも塗ろう」
「……もしかしてバターもマティアス様が作られたんでしょうか」
「その通り。正確には、皆で、だが」
マティアス様が椅子を二脚出してくれて、厨房が広い理由が分かった。
厨房でも食事ができるようになっているのだ、この館は。
「神の恵みに感謝を」
「感謝を。いただきます」
ぱく。
「……美味しい」
今まで食べてきたベーコンや卵が偽物なんじゃないかと思えるほどだった。
ベーコンは臭みがいっさいなくて、脂もしつこくなくて、なんだか甘い。
口のなかで弾ける黄身は濃厚で噛むことができそうなくらいだ。
ひたすら咀嚼していると、マティアス様が微笑んだ。
「ここでの生活はやっていけそうか?」
「はい。ですが……」
決して消えない不安がある。
「マティアス様は、妹のイザベラへ求婚されたのですよね? わたしにはイザベラのような快活さはありません。マティアス様こそ、わたしでいいのでしょうか……」
いくら同じ顔とはいえ、とまでは言えない。
「君たち姉妹は、焼き菓子を作ったことがあるか?」
「……え?」
急に話が変わり、わたしは首を傾げる。
「イザベラが作っているのを見たことはありません。わたしは、人と会って話すことよりも、お菓子作りが好きです」
「そうか。それなら問題ない」
ふわり、マティアス様が微笑む。
「改めて。ヘンリエッタ、私と結婚してくれないか」
★
結婚式は、辺境伯らしからぬ質素なものだった。
教会で、マティアス様と永遠の愛を誓っただけ。
ファーストキスは、神様の御前で。
とにかくたくさんの目にさらされると委縮してしまうので、小ぢんまりとした方がわたしにとってはよかった。
実家の誰も来なかったけれど、寂しくはなかった。
マティアス様はいろんなことを教えてくれた。
鶏の卵の拾い方だけでなく、乳牛の乳しぼりや、魚の釣り方。
山での罠の仕掛け方と、歩き方。
蜜蜂の巣箱の扱い方。
晴れた日には畑で作業をしたし、嵐の日には一緒に畑へ覆いをかけた。
散歩するときは必ず手を繋いでくれた。初対面ではあんなにこわかった大きな手のひらも、今ではわたしを大事にしてくれると分かっている。
そして、必ず朝晩の食事を共にした。
マティアス様は料理上手で物知りだ。
焼きたての白パンはまだ水分が馴染んでいないから、冷めたところを狙ってつまみ食いするのが最高だということ。酸味の強い黒パンはうすーくスライスしてチーズと食べるのがいちばん美味しいということ。
実際に食べさせてくれる、その時間が幸せに思えた。
「木の実がなる頃になったら、ジャムの作り方を教えよう」
「ジャム! すごく楽しみです」
たくさん食べたけれど、朝から晩までたくさん動くので、思ったほど体重は増えなかった。
それでもルルさんは嬉しそうに言った。
「ここに来たときより、顔色が明るくなりましたね!」
使用人の皆も、わたしにいろんなことを教えてくれた。
辺境領に来られて、ほんとうに、……よかった。
★
ある日のこと。
川のほとりを歩いていると、マティアス様は、わたしにこう言った。
「私のためにクッキーを焼いてくれないか?」
聞くところによると、今度、国境警備の視察へ行くのだという。数日間かかるので、そのときの非常食としたいらしい。
「ヘンリエッタに会えなくても、クッキーを見たら思い出せる。残り少なくなれば、早く帰ろうという気になる」
「わ、分かりました」
辺境領に来た翌日の会話を思い出した。
マティアス様は、イザベラじゃなくてわたしでいいと言ってくれた。そのとき、焼き菓子の話をしていた気がする。
何か意味があるのだろうか。
バターと卵、砂糖に小麦粉。全部、辺境領産の食材だ。
誰かのために作ることなんて初めてだ。
作ったとしても振舞う友人はいなかったし、イザベラや両親は興味を示さなかったから。
「バターはやわらかくしてから、砂糖と混ぜて……」
「卵は一気に入れるともろもろになってくるから、ちょっとずつ入れて……」
誰かのために作ることが楽しいなんて、知らなかった。
「焼けた……!」
甘く芳ばしい香りが厨房いっぱいに広がる。
久しぶりで緊張したもののなんとかクッキーは形になって、マティアス様へ渡すことができた。
缶にたっぷりと詰められたクッキー。
マティアス様は今までに見たことないくらい、くしゃっと破顔した。
「それでは行ってくる。留守を頼む」
「はい。行ってらっしゃいませ」
そして、重装備でマティアス様は旅立っていった。
辺境領に来て初めて、マティアス様が傍にいない時間を過ごす。
なんだか食事が味気なく感じた。
鶏の卵も拾えるようになったし、魚釣り用の虫だってこわくなくなったのというのに。
使用人の皆も、よくしてくれるというのに。
今は、マティアス様がいないということが、おそろしい。
わたしのなかで、こんなにも大きな存在になっていたのだと、改めて想う。
★
数日後。
昼過ぎから雨が降り始めて、一気に土砂降りになった。
遠くから雷の落ちる音も聞こえてくる。
空を割るような光に、目を瞑る。
「今日は早く休みましょうか」
ルルさんが提案してくれる。
雨が激しく窓を叩く。雷も、やむ気配がない。
こんなこと、前にもあったような気がする。そのときはマティアス様がいてくれた。
「そうだ。畑が……!」
わたしは外へ出ようと作業着を手に取った。
するとルルさんが駆け寄ってくる。
「どうされたんですか。こんな雨の中、外へ出るのは危ないですよ!」
「だけど、畑に覆いをかけていません。作物がだめになってしまいます」
「作物よりヘンリエッタ様の方が大事です。外へ出てはいけません」
「わたしは……」
畑は、マティアス様が大事にしているもののひとつだ。
だからぐちゃぐちゃにする訳にはいかない。
マティアス様の大切なものを、わたしも大切にしたい。
――そうすれば、イザベラじゃなくてわたしでもいいと、わたし自身が思えるような気がした。
「行ってきます!」
「お待ちください、ヘンリエッタ様!」
ルルさんの制止を振り払って暴風雨のなかへ飛び出した。
どばどばと降る雨。まるで叫んでいるかのようでそれ以外の音をかき消す。
あっという間に作業着はびしょ濡れ。風が強くて視界が悪い。
ぬかるんで重たい地面を蹴りながらなんとか畑へ向かうと、地面から伸びた葉はなぎ倒されていた。
雷の光も音もすさまじくて、どこかへ落ちる度に肩が震える。
「……うっ……」
怯えてなんかいられない。歯を食いしばりながら進む。
近くの小屋から防水加工を施した布を両手で抱えて運んで、時間をかけながらも畑の覆いの上に被せることができた。
「できた……!」
少し前にマティアス様と一緒に作業をして、覚えていてよかった。
こんなわたしでも役に立てることがあった。
初めて、嬉しくて涙が出てきた。すぐ雨に混じってしまったけれど。
「くしゅんっ」
それにしても、雨で濡れて全身が重たい。
収まるまで休んでから帰ろうと決めて、わたしはもう一度小屋へ入った。
マティアス様は変人でも偏屈でもない。すごく真面目で、すてきな方だ。
変人と噂されていたのは、ただの噂。皆、マティアス様のことを知ろうとしないから、好き勝手言えるのだ。
彼に相応しい人間となるにはどうすればいいのだろう。
あぁ。
暗いことばかり考えてしまうのは雨のせいだろうか。
「――ヘンリエッタ!」
すると、あまりにもマティアス様のことを考えていたからなのか、幻が小屋に現れた。
「なんて無茶を……」
マティアス様は何故だか泣きそうになっている。わたしに近づいてくると、ぎゅっと抱きしめてきた。
わたしを傷つけないぎりぎりの力が込められていて、ようやく、幻じゃないと気づく。
「マティアス様……? お戻りになられたのですね……?」
「帰る途中に畑へ向かう人影を見つけて、追いかけてきた。まさかヘンリエッタとは思わなかったが……」
「……わたしはお役に立てたでしょうか」
「あぁ、大助かりだ。礼を言う。しかし、あまり無茶なことはしないでくれ。君になにかあったら」
――よかった、マティアス様の役に立てた。
そう思った瞬間、マティアス様の声が遠のいていった……。
★★★
『辺境伯たるもの、さっさと嫁のひとりもらってこなくてどうするのだ』
しぶしぶ夜会へ行ったのは、大叔父である国王から、そろそろ結婚しろという圧力が強まっていたからだ。
これまでも結婚の話がなかった訳ではない。しかしその度に、農作業や畜産なんてごめんだ、と婚約を解消されてきた。それならば一生独り身でいいと思っていた。
壁際でぼんやり立っていたとき、にこやかに話しかけてきた令嬢は伯爵家の者だと名乗った。
『わたくし、瓜二つの姉がおりますの。姉のヘンリエッタは物静かというより暗くて、……』
彼女は姉を引き合いに己の話を延々としていた。
どうして貴族というものは、己を引き立てようとするあまりに他者を貶めるのか。
肉親であっても平然と下げる、その神経が理解できない。
姉のヘンリエッタ。
静かで、口数は少ない。夜会は苦手で数年姿を見せていない。華やかな世界とは縁遠い、地味な女性。
初めから姉の方に興味があったというのに、何をどう間違って、妹へ求婚したことになっていたのか。
★★★
「……ここは」
目覚めると、見慣れた天井が視界に入った。
「起きたか」
「マティアス様。これは一体」
説明によると、わたしは小屋のなかで気を失ってしまったらしい。
そのまま館へ連れてこられたときには発熱していて、2日間寝込んでいたという。
「まだ調子が悪いのだろう。ゆっくり休みなさい」
上半身を起こすと、マティアス様が頭を撫でてくれる。
「ミルク粥を作った。無理に完食しようとしなくていいから、ひと口だけでも食べなさい」
差し出されたのは、ほかほかと湯気ののぼるミルク粥。
匙ですくって、口に運んだ。
……あたたかい。
マティアス様と、この館と同じ。あたたかくて、幸せな味が広がる。
ぽろり、涙が頬を伝った。
「どうした!?」
分かりやすいくらいに、マティアス様は慌てている。
「私は女心が分からないとよく怒られるのだ。ただ、ヘンリエッタ。君のことは心から愛しているし、生涯、大事にしたい。それは神に誓った通り嘘偽りのない本心だ。改善すべき点があれば、指摘してほしい」
マティアス様が、言葉を区切る。
わたしを見つめる。若草色の、曇りなき瞳で。
「ヘンリエッタが、いいのだ」
――わたしでいい、じゃなくて、わたしがいい、と。
さらに大粒の涙が手の甲に落ちる。
「君の苦しみや痛みはすべて引き受けよう。その代わり、嬉しいことや楽しいことは分かち合って膨らませていこう。そうして、共に生きよう」
マティアス様が、わたしの涙にキスをする。
「……わたしも、共にありたいです」
「ようやく言ってくれたか」
すると満足そうに微笑み、マティアス様はわたしを抱きしめた。
「愛してる、ヘンリエッタ」
……わたしは恐る恐るマティアス様の背中に両腕を伸ばした。
その温もりに、何かが緩やかに解けていくようだった。
「わたしも、マティアス様を愛しています」
――そして、あなたのように、温かさを分け合えるような人間になりたいと思います。
この場所で、ずっと。
そう、心のなかで誓うのだった。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
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