1-3、火事場でみる刹那の夢
そうして、冽花は舞い戻った。
カッと目を見開いて見上げると、そこに古い皮袋を手にした老鬼の姿があった。
時間としてはそう長くは経っていない様子であった。
口を開こうとして溜まった血にむせ返った。横手に血を吐きだしながら、開かれた胸を波打たせて毒づいた。
「勝手に……女の体ァ、まさぐるんじゃね……よ」
「起きたのか。そのまま寝ていればよかったものを」
「ぬかせ。そいつは渡さない。……“あたし達”は諦めない」
震える腕に力をこめ起きあがる。どろりと額の傷が血を吐いて、口のなかの傷もこんこんと血を溢れさせたものの、構わずについた手を握りしめた。
皮袋を懐にしまいながら、老鬼もまた飛び退って再び身にもやを纏い始めた。
それを見て、思い出した。
「それ」
「ん?」
「使いすぎると燃え尽きるらしいぜ」
「なに?」
意図を判じかねる言葉には応えずに、冽花は立ち上がり、震える膝に力をこめた。
深く息を吸って吐きだす。妹妹の教えにしたがい、目をつぶって自分の中を流れる力に意識を集中しはじめた。
当然、老鬼は首をかしげている。
「……来ないならこちらから行くぞ」
「その必要はないよ。今行く。今……行く」
「!」
冽花の握りしめた拳、両足にうっすら黒もやがまとわりつきだすのを見て、老鬼が息をのむのを“聞き取った”。
鈍ったはずの耳が聞こえてきた。血腥いはずなのに鼻が周りの空を嗅ぎ分けだした。
開いた目が、老鬼の服の皺の一本一本まで――否、面の目出し穴の目が眇められるまで。つぶさに捉えられて、冽花は風になって奔った。
がづん、と鈍い音が生じた。冽花と老鬼は互いに蹴りと手刀を受け止めあい、肉薄していた。遅れて、甲高い音をたてて鏢が石畳を打つ。
手元の光が、冽花の足に纏われた黒とぶつかって消えるのを見て、うめくように老鬼が問い質した。
「貴様、その力どこで……」
「可愛い隣人が、女の顔と腹ァ狙う賎貨をぶちのめすために教えてくれたの……さっ!」
意気揚々と答え、冽花は蟲人の膂力で押し切る。
堪らず後ろにさがる老鬼に、軽やかな跳躍で追いすがって突き、突き、からの流れるような蹴撃を見舞った。
力を感覚してからというもの、肩の痛みも薄れて気にならなくなっていた。唯一、血のみが視界をふさぐが、かぶりを振って散らし、獰猛な笑みをうかべる。
一転して防戦一方となった老鬼は、あかあかと輝かせる足を高く振り上げ踏みつける。
またあの蛇であった。白く輝く光の蛇が放たれ、冽花の目前で動きを止めた。目と鼻の先で柱が生まれる。
突貫し続ける冽花は拳を握りしめて、勢いもやで包むそれを打ちつけた。
確かな重みと質量をかんじ、冽花はその場で踏んばる。一進一退、紙一重。
だが柱の奥で風が唸るのを聞いて、躊躇せずその場で跪いた。頭上を鏢が貫いていく。
そのまま地を蹴って跳躍。しなやかな猫の身体能力を授けられた体は、“ちょっぴり底上げされた”力でもって、容易く柱を飛びこえて弧をえがいた。
くるりと一回転、高々と振り上げた足を体ごと老鬼めがけて落とす。老鬼は避けられぬとみて、自身の腕を交差させてそこに光を集中していた。
冽花の黒と老鬼の白がぶつかり合う。
「ぅああああああああ!」
「おおおおおおおおお!」
互いの色が互いを食い合い、灰色と化し宙に溶けてゆく。一進一退、紙一重。
だが、その溶け合う性と重力を味方にした冽花に、わずかながら分があった。
冽花の足が老鬼の腕にじょじょに近づいていき――触れて、鈍い音をたててへし折った。冽花の踵はなおも進んで、かろうじて首を避けた老鬼の肩口に突き刺さった。
「っぐ、ぉォ……!」
「まだまだこんなモンじゃないぜ! ……ァん?」
確かな手応えを感じ取った冽花が着地するなり吼える、と――ふと目の前にあの皮袋が浮かんでいるのが見えた。
先の応酬で老鬼の懐から零れでもしたに違いない。そう考え、手に取ろうとして。その実、それが自らの力で浮かんでいると知るまでにさほどはかからなかった。
皮袋が落ちる。中に入れられていたモノ、白と黒の勾玉が、いまや淡く光り輝きながら宙を回転しだしていた。
「は? ……はァァァ!? なにこれ!?」
「ッ」
好機とみて飛び退る老鬼と、目の前の異変とを交互に見る。
勾玉は回りながら何事か話しているようである。残念ながら冽花には欠片も理解できぬ内容だったが、それはこんなことを告げていた。
《アクセスキー:『陰気』、『陽気』。両者ともに照合完了。ただいまより凍結空間へのアクセスを開始します》
「アクセス? トーケツクーカンってなに? ――って、あんた、逃げるんじゃないよ!ここまでさんざん邪魔しておいて!」
さり気なく後足をさげる老鬼に気づき、冽花が吼える。首を振って、なおも老鬼はじりじりと後退を続ける。
「非常事態だ。ここは退く」
「別胡鬧了!」
言い合うさなかにも勾玉の回転が終わり、白い勾玉が上に、黒い勾玉が下に浮かぶ形をとって、両者のあいだに隙間がひらかれゆく。
縦長に開かれた隙間の向こう側には、人の手で掘られたらしい石窟が広がっていた。
ぼ、ぼ、と灯す手もないのに、青白い明かりが灯っていく。
またあの声が響いた。
《アクセス完了。入場者の提示をお願い致します》
真ん前にいた冽花は、おもわず途方にくれて声を返す。
「お、お願いいたします、ってあんた……」
その言葉に応えるように声の主は続けてきた。
《入場者の提示をお願い致します。アクセス可能時間、残り十秒、九秒、八秒……》
「は!? なに数えだしてんの!! えっと……どうすりゃいいのさ、この場合!」
《入場者の提示をお願い致します。アクセス可能時間、残り五秒、四秒、三秒、二……》
「入場者の提示ぃ!? 提示……えぇっと、冒冽花?」
何が何やら分からぬまでも、試しに自分の名を唱えると、無機質かつ涼やかな声が数をかぞえるのを(カウント)やめた。
かわりに、かような宣言が続けられる。
《入場者、冒冽花。承認しました。転送を開始します》
「テンソーって? ……うわっ!?」
出し抜けに勾玉たちから赤い光の輪が照射される。
おもわず顔をかばいつつ下がるも、二歩目で後足の感覚が鈍り、冽花は振り向いた。
そして絶叫した。
「うっ……うわあああああ!?」
足が。自身の足が端から光の粒と化し、消えていく。それだけではない。消失は上へと這い上がり続けて、みる間に足首が消えてふくらはぎが消える。
たまらず冽花は均衡を崩す。が、後ろによろめいたところで、見えない壁が背中を支えた。
気づけば、おのれの周囲を光の輪が幾重も取り巻いていた。
手をもちあげれば、指も中ほどまで失せている。尻尾も先端がなくなり、後ろに引いた耳の感覚もほどなく薄れてきた。
だが、冽花は諦めない。見えない壁を後ろ手で叩いて、拳で前面の壁を殴りつける。が、手応えはない。舌を打って――ここでふと気づけば、老鬼が目を見開き固まっていた。
その呆けたさまがどうにも癪に障って、冽花は叫んだ。
「ぼっとしてるんじゃないよ、老鬼! 見てないでなんとかしなさい! あんたも狙ってるんでしょうが、“賤竜”を!」
雷を浴びせられたかのごとく老鬼の身が震えた。瞳が焦点を合わせて、おずおずと一歩、もう一歩と近づいてくる。も、遅かった。
伸ばした手が、冽花を囲う光の輪に触れようとした時だ。冽花の分解が、いよいよ最終段階を迎えたのである。
痛みや感覚がないのがまた恐ろしかった。
手がもうない。足もない。落下する。いや、落下するまえに腹が消えていく。叫ぶ喉が、顔が消えていく!!
「他妈的! 他妈的ッ!! なんで!? なんで、こんなところで――ッ!!」
尾をひく悲痛な絶叫をのこし、冽花が消失する。同時に光の輪も失せる。
老鬼は口を浅く開け放し、震える息を吐いた。伸ばした手をぎゅっと握りこむ。拳をも震わせた、次の瞬間だった。彼は目撃した。
目の前のひらかれた空間に、さきと同じ赤い輪の重なりが生じるのを。
中でみるみる光の粒子が収束し、寸分たがわぬ冽花が現れる。気を失っているのだろう。輪が失せるとどうじに、どさりとその場に倒れ伏していく。
老鬼はつづけて見た。
冽花を呑みこんだことによって息を吹き返したかのごとく、石壁に淡い光が灯ったのを。何某かの文字が刻まれており、意味が判じられぬところがまた怖気を誘った。
みるみるうちに勾玉同士が近づいて空間が閉じていく。完全に閉じてしまえば、硬い音をあげ二つは石畳に転がり落ちた。
炎光に照らされた邸宅群に静寂が舞い戻る。在るのは炎が勝利に酔い柏手を打つ音と、敗北した家屋が崩れゆく轟音ばかりであった。
重たい体を引きずって、折れた腕で苦労して老鬼は勾玉を拾いあげる。そうして、その場で空を見上げる。
脳裏をよぎるのは、先の少女の顛末と、少女があげた魂消る叫び声であった。
『ぼっとしてるんじゃないよ、老鬼! 見てないでなんとかしなさい! あんたも狙ってるんでしょうが、“賤竜”を!』
「……これは参った。どうして、荷が重い……」
溜息まじりに首筋をなでさすり、舌を打って「面倒な」とごちる。
その姿は幽鬼のなりをしながら、どこかくたびれており、人間臭さ極まりなかった。