1-2、火事場でみる刹那の夢
ふわふわと柔らかい花びらが雪のように降り積もる。
ふっくらした花で数珠繋ぎに膨れた枝がより集まり、薄紅色のけぶるような風景を作り上げている。満開の杏の花園である。
そして、今しもその一枝からまた一枚、細雪のようなひとひらが零れ落ちた。
ひらめき、ゆっくりと滞空するその動きにつられて――ひょこりと伸ばされる仔猫の前足があった。金茶と黒の縞模様でひどく輪郭がまろい。
風に乗って舞う花びらは予測のつかない動きをするため、ゆうに空振りしてしまう。
それでも諦めずに、自分としては鋭い右足、左足を繰りだし。ひらひらり。業をにやし、よくよく狙いをつけて――後足で立ち上がり、挟むように押さえこむ! ひらり。
みゅっ――くしゅん!
均衡をくずし、もんどりうって転げてしまう。おまけにその鼻先にちょうど花びらが着地したものだから、小鼻をむずつかせ、花びらを吹き飛ばした。
そこで押し殺す笑いの音があがった。喉に息をつめこんで、それでも押さえきれぬ分が震える吐息で鼻から漏れでている音である。
見上げると、誤魔化すような咳払いをもつづいた。
褲に袍(長衣)、短衣(短い上着)。ずいぶんと古めかしいなりで、額から“黒い角”を生やす男が、裾をさばきながらゆっくりと膝を折ってくるのが見えた。
伸ばされた手が、壊れ物でも扱うようにそっと彼女の額に触れ、撫ぜる。
「……惜しかった、な」
控えめに微笑みつつ告げる男へと、彼女はすぐさま標的を変えた。手をはっしと抱えこんでしまう。
「おい」と慌てて腕ひく彼へ、放さない離れないぞとばかりに後足まで搦めれば、諦めたように手を預けてきた。
「…………温かいな、お前は。っ、こら、噛むな。……舐めるな」
ゴロゴロふくふくと膨れる腹に手を埋めているためか、男の表情は柔らかい。都度つどに肩を震わせながら、手をついてその場に座るぐらいには絆されたようだ。
弾みで彼女にかかりかける太い三つ編みを後ろへ流し――そこで固まる。後ろからくすくすと漏れ聞こえてくる笑声に、見る間に仏頂面となったのであった。
肩ごしに振り返るなり、唸るように笑いの主を呼ばう。
「王衛」
「っ、ごめんごめん。覗き見するつもりはなかったんだけどね、つい」
ぱっと木の後ろから顔をのぞかせる青年の姿があった。
こちらも額に“白い角”が生えており、年恰好は男より若い。切れ長目の端整な男とは対照的に、くっきりした目鼻のどこか幼げで愛嬌のある顔立ちをしていた。
もっとも、もれなく今はにやついていたのだが。
「…………仲良しじゃん?」
「閉嘴。遅刻だぞ」
歩み寄って来るなり、これみよがしに見下ろす彼へと、ぴしゃりと男は言ってのける。途端に唇をとがらせて後頭部に手を組む青年だ。
「しょーがないじゃーん。親父殿に呼ばれたんだからさ」
「王弼殿に? ……いつものアレか」
「そう。まだ諦めてないの。『我が家は代々文官の家系。それを、跡取りたるお前が勉学を怠るとは何事か!』ってね。うるっさくて途中で逃げてきちゃった」
おもむろに眉をぎゅっと寄せては、肩をいからせて神経質に人差し指を振るう。王弼とやらの真似事の後に、ぺろりと舌をだす彼へと、男の顔が綻びをみせた。
男と同じ型の衣服のため、手を動かすごとに青年の袂がそよいでいた。
仔猫にとっては具合のよい洞窟である。ひらめく袖もあいまり、目をつけるのは早い。
だしぬけに転がるや頭から突っこんでいったため、一度青年は言葉を切った。笑って、その場で組む足のあいだに膨れた袂ごと落としこんだ。
「武挙にも受かったっつーのに。今更オレに髷結って礼冠被ってさー。朝から晩まで書簡とにらめっこしろ、とかあり得ないよねー」
「なー、妹妹」なんて、もごつく袂の彼女へとぼやいている。
「まあ、気持ちも分からんでもないがな。王弼殿の気持ちも分からぬでもなかろう?」
「……まあねー。女三人、男一人の一粒種だ。期待されてるのは分かるよ? でもさー、向き不向きってあると思うんだよね。この頭、兵法ならいくらでも入るけど。詩歌とか格言とか、覚える字より欠伸のが多いぐらいで。哥哥と鍛錬してるほうが楽しいしさ。なんつーの? しっくりくるんだよな」
しばしの沈黙があった。が、ほどなく青年が動いたらしい。ちょっとばかし袂が揺れる。それに応じて、「めぃー」と声をあげると、袂ごしに撫でられるのが分かった。
「そんなことより。ねえ、あのこと、考えてくれた?」
「む。そうだなあ……」
「なに? なんか気になることでもできた?」
「いや。ただ、実現の難しさをな、考えていた。ここ最近……戦はおろか野盗すらなりを潜めているだろう。父上らの代よりこの方、この国は太平に成りつつあるがゆえにな」
思案気な声をだす男へと、青年は「なんだ」と告げる。
次の瞬間、大きく両手を広げたのだろう。袂が大きく跳ねる。闊達な情熱が聞こえた。
「つつある、だろう? 完全には成っちゃいないじゃん。なあ、哥哥、やろうよ。オレと誓おう? ともに戦場で、でっかい功しをあげて、歴史に名をのこす名義兄弟になるんだ。蒼緑義兄弟とか碧青義兄弟みたいに!」
袂ごと転げた彼女は、ようやく浮上を開始する。出たがる動きをする瘤に、袖口がひろげられ出口ができあがった。
再び見上げた青年は、顔を輝かせて男――義兄を見つめ続けていた。
そんな器用な義弟の行動に、義兄はおもわずと苦笑をまじえながら続けていた。
「……では試みに聞くが、その誓いの名は?」
「! それはもう決めてある。碧青が桃園だから、オレたちはここ、杏園だ」
「杏園の誓いか。昔から慣れ親しんだ場だ。響きもよいな。……悪くない」
「!! よっしゃああ!」
両拳を突き上げる義弟。彼女がびっくりして体を跳ねあげると、そんな様子に気づき、ひと際あざやかに笑って、義弟は小さい身を抱えあげた。
「そうだ。妹妹も誓いに加えてやろうぜ、哥哥」
「妹妹も?」
「うん。オレたちの妹分じゃん。仲間はずれにしちゃ、かわいそうだ。そうだな……オレたちが誓いを果たせるように、証人になってくれよ、妹妹。だから、長生きしろよ? オレと哥哥のカッコいーい姿を、ぞんぶんに目に焼きつけるんだ!」
ぱちりと彼女は瞬きかえした。けれど、ほどなく間延び声をあげる。
「……猫に告げるには難しくないか?」
「いいや! そんなことない。通じてるってオレは信じてるからな! 頼んだぞ、妹妹」
めぇい。
青年の言葉通り、確かにこの時、彼女は告げたのだ。
“承知しました、哥哥”と。
つぶらな目をくりくり動かし義弟を見つめ、隣で静かに案ずるよう眺めてくる義兄をも見返しては。大好きな人達へと、たしかに微笑み返すかのごとく、甘く高らかに鳴いたのである。
「おっ、いーいお返事」と義弟は締まりなく笑い喜んで、義兄も鼻から息をもらしつつ淡く口元を綻ばせた。
幸せなひと時であった。そう、“見るからに”幸せな一幕だったのだ。
――ここで乖離が生じる。
視界にざらつく砂嵐が生じて、ふと冽花は瞬いて、自分が自分の体を持ってその場に佇んでいるのに気付いた。
見れば、杏の花園は、灰色のもやがかる空間にぽっかりと浮かぶ箱庭のような形をしていた。舞台を客席から眺めるのに似て、彼女は一歩ひいた場からそれを眺めている。
二人と一匹はいまだに仲睦まじく戯れている。が、冽花はその終わりが徐々(じょじょ)に近づいていることを知っていた。
音もなく降りつづいていた花びらが、ふいと宙で静止する。それが皮切りだった。
ぱきぱきと霜が降りるかの音をあげて、花びらはくすんだ薄灰色に変わりゆく。しかも変わった傍から粒子と化し、輪郭を解かしてゆく。
変化は周りの花木にも伝わり、ぼろぼろと崩れゆく園と化すのに幾ばくもかからない。
最後はあの義兄弟も動きをとめて、色褪せては景色に溶けていった。
ただ一匹、仔猫だけをのこして。仔猫が俯くのを確かに捉え――冽花は唇を曲げながら、その光景から目をつぶって両耳をおおい蹲った。
来たる衝撃にそなえるために。
それはすぐに訪れた。食いしばる歯がじりじりと音をたてた。
冽花の瞼の裏に瞬きが生じ――ふいと見知らぬ情景が浮かびあがってきた。
「……ぅ、く……っ」
暗夜に木々の狭間からみる葬列。暗転、明転。
「……ぅ……」
贅を凝らした牀の中から見る風景。ゆるりと首を動かし見やると、閉めきられた窓辺に杏の花枝が活けられた壺があった。
暗転、明転。重々しく立派な石造りの廊下で、足元へと額をすりつけ背をまるめて傅く二人の人物の姿がある。目の前から順に、上等そうなこしらえの筒袖の長衣、濃緑の冑に鎧具足の背中である。
目の前の者から順に顔をあげて、次にもちあがる顔には黄色い符が貼られていた。蛇がのたくったような朱墨の字の朱が目に焼きつくようだ。
「うう……ッ」
暗転、明転。暗がりの中、嗚咽をもらしすすり泣く女の泣き声が聞こえる。何かを繰り返し詫びている。
暗転、明転。朗々とひびく物悲しげな老人の声音。ざらつく雑音が邪魔して、ほぼ聞き取ることができない。暗転、明転。青年の狂ったような哂い声が反響する。暗転明転、暗転――。
耳目を閉じているにも関わらず、のべつまくなし垂れ流される画像、動画、音声。
視覚と聴覚を奪われ、めまぐるしく移り変わる視点から膨大な情報が注ぎこまれてくる。
固く歯を食いしばっても、冽花の意識は、川面の笹船がごとく振り回され続ける。
両手にきつく力をこめて、固く歯を噛み締めて耐えるより他はなかった。そうしてやり過ごす以外に、この事象を乗り越える術などなかったからであった。
どれほどの時が流れたかしれない。少なくとも、冽花の体感でずいぶんと過ぎた後のことであった。
気付けば、少しずつ雑音が収まってきていた。目の前のちらつきも静まり、徐々にうっすらと明るくなってきているように思えた。
深々と息を吐きだした。ようやく終わりが――“終着”にたどり着いたのだと、知れたためであった。
被せた掌ごしに小さく、すすり泣きが聞こえ始めていた。ゆっくりと瞼を上げる。
何もなくなった灰色のもやがかる空間の中心。
そこに蹲る一人の少女を見つけて、ゆっくりと立ち上がっていった。
「妹妹」
呼びかけると、小さい肩が怯えるようにびくりと跳ねあがる。
齢十にも満たぬだろう幼い少女である。小さな肩を震わせて、顔をおおう手の隙間から涙を絞りだしていた。頭の猫耳は伏せられ、尾は体に巻きついている。
おずおずと指がひらいて、泣き腫らした金褐色がのぞいた。
そっくり同じ色の瞳を笑わせてやると、逆に堰を切ったように彼女の目から涙があふれだした。
近くにしゃがんでやるもつかの間に、その身が飛びついてくる。縋りつくように首に回される腕と震える体へ、その背を擦ってやりながら冽花は応じるのだった。
『冽花……っ、冽花っ』
「うん」
『ご……っめん……ね、冽花っ。っぃ、いたかったでしょう。くるしかった、でしょ』
「…………うん」
『わ、た、し……っ、みてるだけ……っしか……できなくって、ごめんなさい……!』
「……いいんだよ、妹妹。だって、あんたは」
『ぅっ。ぅぅぅ……うぅー……っ』
「あんたはもう死んでる。魂の残り香が来世のあたしにくっ付いているだけだ。こうしてたまに話すことはできるけど、外の世界に直接介入することはできない。そうだろ?」
『…………ぅ、ん。わたし……なんにも、できない』
「だから、あたしが、あんたに代わって。あんたの心残りを晴らすために動いてんだろ? ……生まれてこの方付き合ってるってのに、今さら水臭いこと言うんじゃないよ」
ぐりぐりと頭をかき混ぜてやると、ようやく少女――妹妹は顔を上げてきた。盛大に鼻をすすって、泣き腫らした赤ら顔である。冽花は苦笑せざるを得ない。
「相変わらず可愛い顔が台無しだね。ああ、擦るなって。もっと腫れるじゃないか」
手拭などと上等なものはないため、袖で軽く目元を押さえてやると、彼女は再び冽花に体を預けてきた。
『……しんじゃうかとおもった。冽花も』
「……死にかけではあるけどな。毒をくらってるらしいし」
現状を思い出して、うんざりと冽花は半眼になる。
現実で自身の体を漁っているであろう老鬼と、少しずつ消耗しているだろう体を思い、溜息がもれる。妹妹が思案気にうつむいた。
『…………もし』
「ん?」
『ひとつだけほーほうがあるっていったら。冽花、やる? ……あの帅哥とバイバイするほーほう』
「……あるのか。そんな方法が」
おもわず片膝ついた膝を進めると、その顔をじっと見た上で妹妹は顔をそむけてきた。
『やっぱりいわない』
「なんで」
『だって冽花……しんじゃいそうだから』
自分の尻尾を弄りはじめた妹妹に、頭をかかえて冽花は答えあぐねる。
「何を根拠に言ってんのか知らないけどさ。どの道このままじゃ死ぬんだから、試さない手はないじゃないの」
『それでも。おしえたら、冽花しんじゃう』
「だからさ、なんで」
『冽花、やさしいから。うごいちゃう、から』
すん、と鼻を鳴らして尻尾を弄りつづける妹妹に、しばらく冽花は考えこんでいた。が、元来彼女もそう頭がいいわけではない。たたでさえにも言葉数すくない子どもの意図を理解することなど、早々できはしなかった。
結果、白旗を上げた。
「分かった分かった。じゃあ、“優しくしない、動いちゃわない”。これでどうだ?」
子どもの言葉をおうむ返しに応えるの巻であった。両手をあげてみせると、ようやく妹妹の目がこちらを向き直した。
「やくそくできる?」
「や、やくそくできる」
「…………やぶってもいいから、ちょっとはおもいだしてね。わたしとのやくそく」
あんまりにも真剣に念を押すものだから、冽花も神妙な面持ちになり頷き返した。
「おう。……それで、その方法ってのは、どうすればいいんだ?」
「こうするの。てをだして」
小さい掌が両方さし出されたため、それに被せる形で冽花も両手を出す。
夢の世界とは思えぬほどに暖かい妹妹の手としばらく触れ合った後に、ふとその手が徐々に冷たくなりだしたことに気がついた。
どころか、ぎょっと冽花は目を見開かせていた。
「め、妹妹っ、煙が……!」
『だいじょーぶ』
触れ合わせた手の隙間から、もうもうと“黒い煙”が溢れだしたのだ。
小さい妹妹の手が燃えているのだと思ったが、存外平気そうだ。自分も熱くない。どころか冷たい――幾分冷静さを取り戻し、あらためて煙を観察した。
すると幾ばくもせぬうちに、それは煙ではなく“黒いもや”であることが分かった。
あの老鬼が使っているものと似ていることにも。
「これ……!」
『“まっくろくてつめたいちから”。帅哥がつかってたのとは、はんたい。帅哥のは“しろくてあったかいちから”』
目を瞬かせてもやに見入った。仔猫の妹妹がこんなことをできるのにも驚いたが、それをこの場で見せてくるということは。
「……色々、聞きたいこともあるけども。これを、あたしに見せるってことは」
『冽花にもできる。ちょっぴりだけだけど』
「! じゃあ……!」
淡く芽生えた期待を肯定されて、一気に打倒・老鬼の期待が噴出しだす冽花に、ぴしゃりと妹妹は言い放った。
『ほんとにちょっぴりしかつかえない。ちょっとだけ、おおきくはねられたり、ちょっとだけ、はやくはしれるよーになるだけ。でも、帅哥のちからととけあうから、ちょっとはらくになれるはず』
「なるほどな」
『……あんまりつかわないでね。ひとのからだでつかいすぎると、もえつきちゃうから』
二の句にぎょっとした。
「燃え尽きる?」
『うん。ぜんぶ、ぜーんぶもえて、まっくろいちからにかえっちゃうから』
かえっちゃう、の意味が分からなかったが、とかく自分の生命が左右されることは分かった。
「肝に銘じておく」
神妙に深くふかぁーく頷く冽花に、妹妹も頷き返した。すっかり冷えた手で冽花の掌をそっと掬って、彼女を見上げてきた。
『冽花のなかにもあるよ、くろくてつめたいちから。さがしてみて』
そんなことを言うものだから、生まれて初めての冽花の“自分の力探し”が始まった。これがなかなか難航し、さらに目覚めが遅れる理由となったのであった。