1-1、火事場でみる刹那の夢
石床に放りだされつつ、冽花は“死んだ”と思った。
今度こそ死ぬと。ここまで絶体絶命もあり得ないだろう。
通路いっぱいをふさぐ、赤い管で構成された化け物蛇に追いすがられ。その全身から、雨あられと管の射出を受けたのである。
無理だ、避けられるはずがない。蜂の巣になる自信ならある。
でも、自分を放り投げた相手は……?
「っ、ジェ――……」
“賤竜”と呼ぼうとしたところで、乾いた破裂音があがる。
冽花は弾かれたように顔を上げた。
先だって目覚めたばかりの僵尸の安否を確かめようとしたのだ。
せめて一瞬、ひと目だけでもいい。へたり込んだままながら、全精力を目と耳にそそぐ。
瞳孔が肥大し、猫耳が細かくひらめいた。
全身血まみれ、土まみれの女――人身、猫耳猫尾の冽花は、息を飲んだ。
目の前に濃緑の鎧具足の背があり。
凛とした低い男の声が、耳を震わせたからだ。
『怪我はないか? 大事なければ応答せよ、契約者よ』
「……っぁ」
小さく声をあげる。
手元の黒い棍をひいて、男は肩ごしに振り返った。龍を模した冑ごしに彼女を見やり、再び前を向く。
『言ったはずだ。お前を守りきってみせると。必ずここは抜かせない。ゆえ――』
棍をひと振るいして、化け物蛇と対峙する。
『頼んだぞ。契約者、冒冽花よ』
「……っ、うん!」
冽花は躊躇いなく頷いていた。安堵感が自然と首を縦に振らせていた。
傷ついた身に檄を入れて立ち上がる。目の前の開かぬ扉にむけ挑みかかっていく。
二人は出会ったばかりである。が、急速に二人の運命の輪は回り始めていた。
※※※
後に冽花は思い返す。
あの夜のあの出来事は、まさに因果応報だったのだろうと。
苦いにがい苦汁を嘗めた。噛み締めるような喜びもあった。
あれは瑞恵十五年の春。すこぶる“熱い”夜だったのを、覚えている。
燃えさかる邸の窓をぶち破り、冽花は一人、外へと転げだした。
そして、おもわず立ちすくんだ。
辺り一面が火の海だったからだ。八方より火の手があがり、森閑とした石造りの邸宅群が赤銅色に染めぬかれている。
まったく気付かない……否、気付けなかった。
取り巻く環境によって、体毛で感じる風はおろか、目も耳も鼻もきかない。
獣の性もつ“蟲人”の特性を完全に殺されたがゆえなのだろう。
茫然とした後に、おもわず顔をしかめて呟いていた。
「……ここまでやるかよ」
だが、そんな悪態が背後からの檄に消し飛ばされる。
「何をやってる! 行けッ! 行けぇぇ! 冽花ッ!!」
「必ず守り抜いてくれ、頼んだぞ!」
それは謎の襲撃者らを食い止める、仲間たちの必死の懇願だった。
冽花は我に返るとともにおもわず振りむきかけるも、ぐっと堪えて走りだす。
「ッ……分かった! 死ぬなよ、お前たちも!! 約束の場で会おう!!」
肩ごしに声を投げるなり、目の前に伸びる甬道(壁に挟まれた道)を抜けていく。
だが、行く手には火の手が立ち塞がっていた。
舌打ちをして、壁に飛びつくなり屋根へと飛び乗る。顔をあぶる熱い風に目を眇めた。
「ひでぇ……こっちはもう無理か」
通路という意味でも、別の意味でもだ。
国でも有数の大家だというのに、この大火事でも悲鳴ひとつあがりはしない。
「あいつら、好き放題しやがって」
おもわずと先の襲撃者らを思い起こし、歯噛みする。
幽鬼を模した不気味ななりをして、恐ろしく腕がたつ奴らだった。
蟲人を六名動員したところでこの様だ。環境と連携と個々人の技量によって、圧倒的な力でねじ伏せられてしまった。
とくに、と冽花はなおも思いを馳せてしまう。
(とくに、あの『老鬼』とか呼ばれてたヤツ……)
その姿を思い浮かべると、ぶるりと身震いが生じた。無意識に腰帯にはさむ短剣の柄を探り――ハッと我にかえり、両手で頬をたたく。
危ないあぶない。物思いにふけるのは後回しだ。
今はこの、仲間たちに託されたモノを、ここから持ち去るのが先だ、と。
自分の胸元を見下ろし、ぎゅっと握りしめた上で再び駆けだす。
が、なおも碁盤の目状の邸内を走り続けるも、やはり障害物が多かった。
地図は頭に叩きこんでいたものの、もはや予備知識はあって無きがごとしだった。
迂回が重なるつど、焦りは増す一方だ。
「嗎的、ここもかよ……!」
目の前でがらがらと崩れゆく家が、巨大な燃えさしと化す。
再び甬道に降りて別の道を探そうとした、その時だった。
「……ッ!」
ふいにゾワリと尾の毛が逆立つ感覚をおぼえ、冽花は飛び退いていた。
「……っな!? ――っあ!!」
目の前に白い光をもつ柱が起ち上がる。それまで冽花がいた位置そのものずばりを貫く異物の発生に、おもわず気圧され立ちすくんだ。
それが致命となった。次の瞬間、冽花は肩を貫く痛みにふらついていた。
柱がすぐさま光の粒となって霧散しゆく――それと入れ替わる形で、何某かが飛来したのである。
巻いていた白布がみる間に赤く染めあげられていく。震える手で押さえこむと、そこに深く鏢(鏃状の暗器)が突き刺さっていた。
あの男の武器だ。
認識するとどうじに、尾が二倍に膨れ上がった。
ついで確かな靴音を知覚し、耳を跳ねさせる。
すり足気味の独特な歩調が路の奥から響き――陰から滲み出るように男は姿を現した。
黒い長衣の裾をひるがえし、顔には髑髏を模す半面をかぶる。
「老鬼……っ」
痛みに喘ぎながら歯を剥くと、途端に彼は足を止めて呟いた。
「そうか。猫だものな、お前は」
「なに……?」
「尾だ。それほどまでに俺が恐ろしいか」
ハッとして自身を見下ろすと、いつの間にか尾が足のあいだへ丸まっていた。
猫にとって、尾のその状態は恐怖の表われである。
人身、猫耳に猫尾。彫りの深い丸顔に、金茶と黒の縞毛の短髪。
房毛のある三角耳は、尾と同様に、白と黒の縞模様に覆われている――猫蟲人の彼女は、痛い所を突かれてなおなお歯を剥きだしにした。
歯の間からフゥッと音をたてて鋭く息を押しだす。否応なくその瞳は輝きだした。
「だったらなんだ。見逃すとでも言うつもりか?」
「まさか。それでは先に阻み、逝った仲間らが浮かばれまい」
一瞬、なにを言われたのか分からなかった。だがそれが、残してきた仲間たちの境遇を告げているのだと悟った時、一瞬にして頭に血が昇るのが分かった。
「ッ、お前……っお前ぇぇぇぇッ!!」
「ああ。じきにお前も同じ道を辿るだろう」
そう応えた老鬼に、反射的に肩の鏢をむしり取るや投じる。蟲人の膂力に支えられた勢いがあったものの、容易く避けられ歩が踏みだされた。
その足に白く光るもやが纏わりつく。先ほど生じた柱と同質の光を放っていた。
途端に冽花の警戒度は跳ねあげられ、おもわず誰何の声をあげていた。
「お前……っ、なんだ! なんなんだ、お前は!?」
「さあな。俺も時々自分が分からなくなる」
足から全身へともやを伝播させた男は、爆発的な勢いでもって突貫してきた。
冽花の動体視力は視た。
男の足元に小さい柱が幾つか起ち上がっていることを。足元から突き出し、推進させているにちがいない。
男は腕を振るって隠し持っていた鏢を投じてくる。
冽花は体を低くし避け、腰帯より抜く短剣を咥えた。鞘から抜きざまに腰だめに握り、体ごと男へぶつけに向かう。
男は退かない。逆に体をひねって前傾させて、肩を突きだしてきた。
彼我の体格差が仇となった。冽花の剣は男の腹を布一枚裂くにとどまり、かわって鋭い体当たりを肩中心に受けるはめになる。加速分ふくめてこれには堪らない。
「ッあ、ぅ!! ――っぶ、ぐゥ!」
女の体は軽々と宙を舞い、一転二転したところへ追いすがられる。足が振り上げられて、腹が破れるかと思うほどの衝撃をくらい、うめく。血まじりの吐瀉物をはく。
が、もう反転しざまに片手をついた。這いつくばるように起きあがるや、下段回し蹴りを打つ。足場の崩れる男をまえに追撃はせずに飛び退った。
はあはあ、と自分の吐く息がうるさい。重たい痛みが腹部で拍動している。
冽花は顔をしかめつつ口元をぬぐった。まだ、まだ。
再びの交戦は無言でおこなわれた。
転がったおりに拾っていた石を、袖口から出し投じる。顔を狙った愚直な投石。だが、本命は接近だ。ぐ、と足に力を込めて冽花は疾る。なかば跳ねるように軽やかに、数歩で男へと至り、首筋を刈る回し蹴りに移行した。
対して、やはり男は動かない。石を手で払いのけつつ、右足を煌々(こうこう)と光らせだしていた。
直感的に危険を察知する冽花の前で、鋭い一歩が踏みこまれる。
水溜まりを踏みつけるがごとく、弾けて光の粒子に変わるもや。地面に染みこみ、広がって――次の瞬間、滑るように奔りだす光の蛇と化した。
蛇行しながら、明らかに冽花の足元をねらい這いずりだす。
捉われてはいけないと判じて、追いつかれる寸前で飛び退る。それは端的な結果を残し――ある意味で、最悪の状態をも引き起こした。
詰めていれば強かに打ち上げられただろう柱が生じる。だが、経験上、目隠しがわりの障害にもなり得ることは知っていた。
来るのは再び鏢か? それとも男自身だろうか。
冽花は舌打ちして構える。あの力があるかぎり、打って出ることは困難だ。
なんとか一気に距離を詰める方法があれば――真っ向から攻め手を考えること自体、悪手であるのには気付かなかった。
柱が霧散する。その向こう側に男が――――いない?
「え……?」
だんだんッと鈍い異音が、立て続けに目の前と斜め前より生じた。
知れたのはそれだけだ。気付けば男は目前にまで迫っていた。
意味が分からなかった。
唯一、冽花の脳裏に思い浮かんだのは、猫の軽やかな三角跳びだ。柔らかな身体をしならせて、壁伝いに向きを変える。
まさか側面の壁を足場に。獣さながらの動きをするなぞと、誰が想像できるだろうか。
横っ面にひどい衝撃がはしるまで、理解を拒んだ。
冽花は毬のように弾んだ。血とともに歯の欠片をぶちまけて、幾度も転げた末に止まる。震える指を頬へとあてがわせた。
「もう諦めろ。諦めて例のものを渡せ」
「っ……だ、れが……っ」
「どの道長くは生きられぬ身だ。毒が回っているからな」
「…………ど、く?」
「ああ。最初の鏢に塗ってあった。血が止まらなくなる毒だ」
言われて、まざまざと口のなかに溜まる血の味を自覚した。冽花はおもわずえづいた。喉の奥が苦く、口のなかも生臭くて、目尻に涙がうかんできた。
なんだ、それ。それじゃあ、自分は。最初からこの男の掌の上で……。
体が震え続けるのは毒のせいかそれ以外なのか、もう分からなかった。
興奮が冷え、今更ながらに痛みを思い出したのが、またひたすらに酷であった。
肩が燃えるように熱く、痛い。腹が重苦しく痛む。殴られた頬もじんじんと拍動しては、生温い血を吐きだしつづけていた。気持ち悪い、痛い、くるしい。
…………諦める――?
ふっと掠めた考えとどうじに、ふいと脳裏に去来する光景があった。
それは、彼女の原初から共に在り続けた記憶の欠片であった。
満開の杏の花園で、跳ねまわる仔猫と戯れる二人の人影があり。交わされた約束があり、涙まじりに響く頑是ない幼子の声があった。
『おねがい、冽花』――。
「――――……い……ゃだ」
「なに?」
「あぎ……らめな、いッ……あた、しは……」
約束を。願いを果たすために、ここにいるんだ。
震える拳を握りしめて告げる。
最後までは言えぬ言の葉。だが、決意の固さは感じたのだろう。次に響く言葉は端的であり、ひどく無情であった。
「そうか。なら楽にしてやろう」
がつん、と。彼女の頭へ無雑作に振り下ろされる足。
石畳に打ちつけられ、目のおくで火花が散った。額が割れて一気に力を失くす冽花を、男は見下ろす。退いた足を腹の下にいれてひっくり返し、淡々と検分を始める。
そんな彼の傍で、冽花はほんのつかの間の安息に落ちたのだった。