夜行さん
「もうし、そこのお方」
不意に呼び止められて、旅人は声のした方へと首を巡らせた。
もう日は山に落ち、周囲は薄暗い。夕暮れの名残りが辛うじて木々や草花を照らして、旅人の行く山に続く道にも様々な形の陰影を落としている。その路傍に、小柄な老婆が岩に腰を降ろしていた。
「今からこの道を行くのかえ?」
ひどくしゃがれた声だった。見窄らしい燕脂色の着物の袖から伸びた枯れ木のような手には一本の杖が握られている。荒れ放題の髪の隙間から覗く瞳は、随分と濁っていて、旅人は己の足が竦むのを感じた。旅人が黙っていると、老婆はもう一度同じ質問を繰り返した。旅人がそうだ、と答えると老婆は独白のようにこう云った。
「夜はこの道を通らん方がええ。あの世に引き摺り込まれてしまうぞ」
旅人は老婆に、この山は獣でもいるのかと尋ねた。
「この山には鬼が出るのじゃ」
それが旅人の問いに対する老婆の答えだった。老婆はこうも云った。
「わしらはあれを首切りお馬と呼んでおる。あれはあの世からの使いじゃ。その姿を見た者は皆、三日三晩病に蝕まれ息絶えてしもうた。わしが住んでおった集落でも、言いつけを守らぬ阿呆が幾人か連れて行かれたわ」
老婆の糸のように細い声は、旅人を不安にさせた。しかし旅人は首を縦に振らなかった。行くと云って聞かない旅人に、老婆は憐れみにも似た目を向けた。
「そう死に急ぐでない。近くにわしがおった集落がある。一晩そこで夜を明かして行けば良い」
その提案は無茶な道程に疲弊していた旅人にとって望外の僥倖であったが、それでも旅人には急がなければならない事情があった。
旅人が故郷に残して来た母が危篤だという知らせが、先日飛脚から届いたのである。幼い頃より己を慈しみ、育ててくれた母の死に際に立ち会いたいという想いが、旅人を突き動かしていたのだ。
それを聞いた老婆は、諦めたように息を吐き、呟くように云った。
「ならば行くがよい。この山は二刻半もあれば越えられるじゃろ。じゃが、もし万が一あれに出会すことがあれば——」
※
すっかり日の暮れた山道を、旅人は灯りも持たず半ば手探りで進んでいた。幸いにも道の近くには縄が張られていて、迷うことはない。だが、先ほどから何度も木の根に躓き、手は擦り切れて、旅で傷んだ服は更に泥だらけになった。毛穴から溢れてくる汗やら脂やらを拭っていた手拭いは、元の色が分からないほどひどく黄ばんでいる。朝から歩き通しだった身体は限界を訴え、僅かに震えていた。
更に山道を進んでいくと、ぽっかりと広けた場所に出た。旅人はここでひと休みしようと思い、近くの木の根元に座り込んだ。血の巡りが悪い脚を揉み解すと、懐から水筒を取り出して勢いよく口をつける。身体中に水が染み渡り、旅人はようやくひと心地ついた。同時に抗い難い眠気が襲い、風が頬に当たるのを感じながら旅人は意識を手放した。
旅人が目を覚ましたのは、それからさほど経たずしてのことだった。己が中途半端な時刻に目が覚めたことを訝しく思った旅人は、一つの異変に気が付いた。音がしないのだ。
森には様々な生き物が住んでいる。冬でもない限り、夜でも虫の声や物音がするものだ。それに虫の音がせずとも、葉が風に揺れて少なからず音がするものである。しかしそれが一切ない。
旅人は急に孤独に苛まれた。世界が死に絶えてしまったかのように静かな森の中で、旅人はじっと息を殺した。まるで気温が幾分下がったようであった。暫くすると、旅人の耳に微かに音が聞こえてきた。ともすれば消え入りそうであったそれは、次第に明瞭になり、何の音であるか判別できるまでとなった。それは鈴の音であった。一つではなく、いくつもの鈴が重なり合ってしゃんしゃんしゃんと囀っている。何かが近づいて来ていると旅人が悟った時には、その音はもう随分大きくなっていた。
旅人は震える脚で道の端までより、道に背を向けて手拭いで頭を覆った。近くにあった木の幹にかじりつき、一刻も早くそれが去ることを神仏に願った。
鈴の音が近づくにつれ、馬の蹄の音も聞こえてきた。旅人は不意にそれの姿を見たくて堪らなくなった。見ないでいようとしても、まるで大きな手か何かに掴まれて頭を捻じ曲げられるような気さえした。旅人はとうとう我慢できなくなり、後ろを振り向こうとした。
その時、脳裏に老婆の声が蘇った。
『もし万が一あれに出会すことがあれば決して見るでない。あれは首の斬られた武士とその馬の亡霊じゃ。馬には首に白の、いや、血で赤く染まった紐で連なった鈴がある。鈴の音が聞こえた時はすぐに後ろを向いて何かを被るのじゃ。そして何があっても振り返るでないぞ。何があってもじゃ。よいな』
そう云いながら老婆は手にした杖で馬の首とその回りを紐で括り付けられた鈴の絵を地面に描いていた。
旅人はどうにか堪えて、その言葉の通り振り返るまいとますます樹幹にかじりついた。鈴の音は旅人の身体すれすれを過ぎて行った。その音が徐々に遠ざかって行くのを、旅人は永遠にも等しい心持ちで聞いた。鈴の音がすっかり聞こえなくなってから、旅人はようやく振り返った。そこには何事もなかったかのようにただただ道が伸びているだけである。安堵から思わず腰の抜けかけた旅人であるが、少しの間もここに留まっていたくはないと思い、一度も振り返ることのないまま大慌てでこの山を下って行った。
※
暫くが経ち、旅人は再びこの山の麓へ訪れていた。あの老婆と出会ったところである。日は高く登り、じりじりと旅人の肌を焼いている。
あの後無事故郷まで辿り付いた旅人は、どうにか母に再会し、ことなきを得たのである。程なくして母は身罷ったが、旅人は老婆への恩義を返さんと訪ったのだ。
しかし、件の場所に老婆は居なかった。残念に思った旅人はせめて心付けだけでもと思い、老婆が座っていた岩へ品を置こうとすると、視界に見知ったものが映り込んだ。老婆の杖である。杖は二つに折れて岩の横に無造作に転がっていた。岩の影を覗き込むと、そこには数年は放置されていたのであろう人の白骨と、ひどくくたびれた燕脂色の着物があるのみであった。