神様との約束 ~ first love
「あの、今日、エレンは……?」
「後から来るって。礼儀作法のレッスンを始めたらしくて。彼女の父親が、花嫁修業だとか言ってさせてるみたいだよ」
あれから月日は過ぎて、季節は秋を迎えようとしていた。少し冷たいけれど、爽やかな風が心地よい。アンジュとフィリップは、いつもの海辺に来ていた。
「花嫁修業って、私達、まだ十五なのに?」
アンジュは驚いた。ついこの間、フィリップへの恋心を自覚したばかりの彼女にとって、『花嫁修業』なんて別世界の話、物語に出てくるお姫様やお嬢様がする事だと思っていた。
「そうだよ。僕だって、父さんから跡継ぎのことで色々言われてるし」
「そうなんだ……」
ほうっ……と、小さな感嘆のため息をもらす。
あの夏の日の翌日から、エレンは、次第に、彼女を避けるようになっていた。避けるといっても、フィリップと一緒にいると、必然的にアンジュとも会うことになるため、一応、顔を合わせていたが、ほとんど無視をしていた。
例えば、まるで彼女がそこにいないかのように話したり、目を合わせようともしなかったのだ。だから、この数ヶ月の間、アンジュにとって辛い日々だった。
フィリップも、そんな幼なじみの変化に薄々気づいていたが、その原因は、彼にはわからなかったので、どうすることもできなかったのである。
しかし、アンジュには思い当たる事があった。あの日、彼が自分を心配して、エレンを置いて、後を追って来てくれたことを怒っているのだと思った。
――多分、彼女も、フィリップが好きなんだわ……
自分も同じ気持ちになったせいか、今では彼女の気持ち……どうしようもない苛立ちが、よく解る。
だからか、せっかく二人きりになれたのに心から喜べずにいた。緊張もあったが、なんとなく罪悪感があって、いつものように彼と話せない。
――フィリップのことは好き。けど、エレンと友達になりたかった……
そんなことを考えていると「大丈夫?」と元気のない彼女を心配し、フィリップが声をかけた。
――やっぱり、優しい人だなぁ……
嬉しさと恥ずかしさで、アンジュは彼の方を向けなかったが、気を悪くさせるといけないと考え、何とか小さな笑みを作る。こういうことも、だいぶ慣れてきた。
「ありがとう。何でもないの。心配かけてごめんなさい」
こう言った瞬間、エレンの『甘えないで』という言葉が、また脳裏に過った。
またやってしまった……と、その度に自己嫌悪になる。どうして自分はこうなんだろう。すぐ落ち込んで、周りに心配かけてばかり……
「何かあった?」
ますます暗い表情になった彼女を見て、フィリップは尋ねた。
「えっ…… どうして……」
「君、結構わかりやすいよ」
驚く彼女にそう言い、ははっ、とフィリップは可笑しそうに笑う。
「大丈夫、よ……」
――ここで話したら、また困らせてしまう……
アンジュは必死だった。それに話したら、エレンの悪口になりそうで嫌だったのだ。
「無理には聞かないけどさ。何でも相談してよ。友達なんだから」
そう屈託なく言う、彼の穏やかな笑顔と、『友達』という言葉に、嬉しい反面、少し胸が痛くなったが、心の扉が揺さぶられ、開かれる気がした。
――話した方がいいのだろうか。上手く言えるか分からないし、怖いけど……
「あ、あのね……」
「うん。何?」
躊躇いがちにゆっくりと、アンジュは口を開いた。
「……こんなに、甘えていいのかな?」
「え?」
フィリップが、珍しく怪訝そうに聞き返す。
「私、助けてもらって迷惑かけてばかりで、二人に頼り過ぎてると思って……」
「謝れば許される、とか思ってないつもりだったけど、気づかないうちに、そういうことしてたのかなって……」
彼は暫く黙って聞いていたが、やがて、ゆっくり口を開いた。
「……いいんじゃないかな」
「え……?」
「助けてもらっていいんじゃないかな。だって、人って完璧じゃないんだし、もし、世界が一人で何でもできる人ばかりだったら、誰かと関わる必要ないよ。それって寂しいと思わない?」
フィリップの優しい言葉が、一つ一つ、心に刻まれていく。
「……神様はどうして、人間をみんな同じように創らなかったんだろうね。生み出すだけだったら、わざわざ髪や肌の色、性格の違いを出さなくたっていい。きっと、僕らが助け合うようにするために、似た人間ばかりにしなかったんじゃないかな」
彼の口調には、自身に言い聞かせるような力強いニュアンスがあった。
「それに、迷惑だと思う人ばかりじゃないよ。むしろ僕は、嬉しい。必要とされてるんだって思うし『生きてる』って感じるから。助けてもらってるってことに、きちんと感謝して律しておけば、甘えにはならないと思う」
生まれて初めて耳にする、至極温かくて優しい、真っ直ぐな言葉の連続に、何か一つの美しい旋律を聞いているような感覚に、アンジュはなった。
別人のように、最近、自分の涙腺が緩くなっている。目頭が熱くなっていくのが判り、慌てて隠そうとしたが、そんな彼女の手を、フィリップは自分の手で止めた。
「泣くことだって人間しかできないことだよ? らしくいたらいい」
そう言って、優しく微笑む彼を見て、アンジュの心のストッパーが外れた。自然に眼から熱い水滴が零れる。人前で泣くのは初めてだった。
溢れる涙と掴まれた手首が、そこだけ熱かった。彼の言葉の一つ一つが、乾いた心に優しく沁みこんで、少しずつ潤っていくのが判る。
――この人が好き。この人の声も、言葉も、笑顔も……好き。大好き……
フィリップが、自分のことをどう思っているのかは分からない。エレンの言うとおり、彼は誰にでも優しいのかもしれない。自分だけが特別じゃない。
でも、今、彼がくれた貴く綺麗な言葉、笑顔は、自分だけのものだ。その一つ一つを、アンジュは、大切に心の宝箱の中に閉まった。
「……ありがとう」
ふわっ、と泣き顔で微笑む。すると、フィリップは、そっ、と手を離して、照れくさそうに言った。
「……君は、歌手になるの?」
「え……?」
唐突な彼の言葉に少し困惑し、アンジュは不思議そうな表情を浮かべた。
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