産声 ~ sunset glow
いつも彼女はフィリップにくっついていて、アンジュにはあまり話しかけて来なかった。嫌われてるのだろうか……と、実は不安だったのだ。
でも、今は、こうして助けてくれている。そのことがアンジュには嬉しかった。優しい人なのかもしれない。これがきっかけで、仲良くなりたい……
「あの、迷惑かけてごめんね…… ありがとう」
淡い希望を抱きながら、お礼と謝罪の言葉を述べる。
「そういうの、やめて」
そんな彼女に反し、冷ややかな声色で、エレンははっきり言った。
「え……?」
一瞬、何を言われたのかわからなかったアンジュは、数秒後、突き放された雰囲気を感じた。
「こういうことは今日が初めてだけど……貴女ってぼんやりしてて…… 色々わかってないわね」
驚くアンジュに、追い討ちをかけるように続ける。
「フィリップはね、誰にでもあんな風に優しいの。貴女が孤児だからじゃないし、特別だからでもない。沢山の友達の一人にしか過ぎないの。解る? 困らせないで」
「エレン……」
「私も同じ。貴女が特別だからじゃない。だから、甘えて来ないで欲しいの。イライラするのよ。……悪いけど、今日はもう帰って。フィリップには、適当に言っておくから」
そう言い捨てると、アンジュにバスタオルを投げ渡し、エレンは海辺の方に走って行ってしまった。
残されたアンジュは、彼女に言われた言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。『困る』『イライラする』――初めて言われる言葉ではなかった。が、仲良くなりたいと思っていた人に言われた事が、今までで一番堪えている。
――やっぱり、私が居ると迷惑だったんだ…… 甘え過ぎてた……
我に返り、バスタオルで急いで体を拭き、服を惰性的に着た。孤児院までの道を、のろのろ歩きながら考えるうち、『そうかもしれない』と思った。彼女の言う通り、フィリップの優しさに甘えてた。嬉しさ余って、今日はエレンにも……
けど、迷惑かけて平気な訳じゃなかった。優しさを特別だからだとも、当たり前とも思っていない。『ごめん』も、心を込めて言ったつもりだった。それでも伝わらなかったのなら、やはり、自分が悪かったのだろうか……
院に着いて、夕食の支度を始めようとした時、ズキン、とした痛みを両膝に感じた。擦りむいたようで血が滲み出ている。おそらく、転んだ時にできた傷だろう。考え込んでいたからか、今まで気づかないでいた。
――手当、て……
薬箱を取りに行こうとした、その時、炊事場の窓の方から、コツッ、という変な物音がした。振り向くと、何かが投げつけられたような音が、カツッ、コツッ、と再び鳴っている。
――何……?
不審に思って窓を開けると、そこには息を切らした、ウェットスーツ姿のフィリップが立っていた。
「ど……どうしたの⁉ サーフィンは⁉ エレンは?」
アンジュは驚愕した。幻でも見ているのだろうか。どうして、彼がここに……? すっかり狼狽えている彼女の気持ちを察したかのように、フィリップは口を開く。
「エレンから、君は気分が悪くなって帰ったって聞いて……心配になったから。それに……ほら、怪我してたし」
「あ……」
この人は、今日のサーフィンを中止してまで、わざわざ来てくれたのだ。
――今日は良い波が来る日だから、最高のサーフィンができるって、楽しみにしてたのに…… しかも、こんな所までわざわざ来てくれて……
沈んでいた心が、温かい光で満たされたが、さっきのエレンの言葉を思い出し、慌てて口を開く。これ以上、手を煩わせてはいけない。
「……ありがとう。でも、大丈夫。大したことないよ」
「何言ってるんだよ。結構、血出てたじゃないか。ほら、薬箱持って来た」
そう言いながら木製の薬箱を持ち上げる彼に、ちゃんと見ていてくれていた事に気づいた。じわり、と目頭が熱くなるのを感じる。そんな自分の状態に戸惑い、アンジュは必死に誤魔化した。
「あ、ありがとう。でも、本当に大丈夫だから。いつも傷の手当ては、自分でやってるし」
「自分でやってもいいけど、やってもらった方が楽だろ? ほら、早く‼」
この言葉に心を強く揺さぶられたアンジュは、気づいた時には炊事場の裏口のドアを開けていた。
「うわ。やっぱり…… けっこう酷いじゃないか。座って」
フィリップは、彼女の膝を見て驚き、手慣れた手つきで膝に薬をつけ、包帯を巻いていく。その間、彼の指が自分の足に触れる度、アンジュは、今まで感じたことのない気持ちでいっぱいになっていた。
嬉しいような、恥ずかしいような、逃げ出したいような、でも、やっぱり嬉しい……そんな気持ち。胸の奥が、ぎゅっ、と詰まる。
「終わり。もう大丈夫」
そう言って、フィリップが、にかっ、と笑った瞬間、彼女の中で、大きな音を立てて何かが産まれた。頭が真っ白になって、みるみるうちに顔が熱くなっていくのが判る。
『今日は、夕陽が綺麗で、良かったわ』とアンジュは思った。
――きっと、今の私の顔、真っ赤……
今までずっと、彼に対して感じていた気持ちとは、また違う、新しい気持ち。甘くて、切なくて、恥ずかしくて、いたたまれなくて、苦しい……そんな想い。
――すき……好き……大好き……
つい昨日まで知らなかった、初めての新しい感情。アンジュは自身の変化に驚くと共に、その変化に感謝したい気持ちが溢れていた。胸奥がくすぐったいような、少し苦しいような、不思議な高揚感。
――これが、恋なの……?
お伽噺や本の世界でしか知らなかった感情。それが、現実に、自分の心の中に生まれた。
一方、フィリップも、その真意はわからなかったが、とても柔らかな表情をしている。言葉を発することもなく、ただ静かに見つめていた。
宵に落ちる寸前の夏陽が、黄金色の薄明を差し込み、優しく二人を包んでいた。今までとは違う何かが、声を上げて産まれた瞬間を、祝福するように。
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