産声 ~ emotion
突然の出会いから、早一ヶ月が経った。アンジュは毎日のように、フィリップ、エレンと一緒に過ごしていた。会えるのは休憩の僅かな時間の間だけだったが、今までずっと一人で過ごしてきた彼女にとっては、何よりも新鮮で、少し怖くて、貴重な時間だった。
二人のサーフィンを見たり、アンジュの歌を披露したり、お弁当を持って海辺で一緒に食べながら、少しずつ、色んな話をする。
今までに分かったこと――フィリップはアンジュと同い年。フランスでワイナリーを営む家の一人息子で、今は父親の仕事の都合で、こちらに来ているらしい。エレンはフィリップの幼なじみで、彼と同い年。彼女の父は実業家で、母親が数年前に病死したため、親友である彼の両親に、娘を預けているとのことだった。
「エレンとは、兄妹みたいに育ったんだ」
フィリップは、そう言って嬉しそうに笑っていた。
聞くもの全てが、アンジュにとって珍しく、新鮮なものばかりだ。フランスという、北の海の彼方にある、見知らぬ国の文化や歴史、周辺の地理、生活の話…… 聞いても聞いても、全然飽きない。
「いつか、僕らの国に遊びにおいでよ」
故郷の話をする度に、控えめながらも憂いた瞳を輝かせ、頬を紅潮させている彼女に、フィリップは笑って言った。
誰かと楽しく過ごす、会話をする、食事をする。それだけで、目の前の世界がまるで違って見えてくる。日に日に覚える未知の衝撃に、自分は活きているのだと、アンジュは初めて知ったような気がした。
とある快晴の日。今日も、二人と会う約束をしていた。
「明日は、すごくいい波が来るから、二人に最高のサーフィンを見せてあげるよ」
そう言って、フィリップがアンジュとエレンを誘ってくれたのだ。二人に会えると思うと、いつもの仕事にもやる気が出る。台所の小さな窓からも強い陽射しが差し込み、ギラギラ、と室内を照りつけていた。絶好のサーフィン日和だ。
小さく鼻歌を歌いながら、浮き立つ思いで昼食の支度をしていると、院長が声をかけてきた。
「……お前、今日も、出かけるの?」
振り向くと、明らかに不機嫌そうに眉を潜めた院長が、じとり、とアンジュを睨んでいた。
「いけませんか……?」
静かにだが、珍しく不服そうに返答する。唯一の自由時間まで拘束されては堪らないと思った。そんなアンジュに追い討ちをかけるように、叔母でもある院長は続ける。
「御近所でちょっとした噂になっててね。ウチの子が、最近、良家のご子息、ご令嬢と親しくしてるって」
――やっぱり……
アンジュは俯き、ぐっ、と唇を結んだ。小さな田舎町だ。噂が広まるのは早い。
――でも、悪い事はしてないのに……
モヤモヤした気持ちの悪い渦を、胸の奥に感じたが、口には出さなかった。下手に反論して、外出を禁止されるのは嫌だと思ったのだ。
「まあ、仕事を怠けないならいいけどね。くれぐれも、迷惑だけはかけないでちょうだい。厄介事は御免だからね」
黙ったままのアンジュに苛立ったのか、彼女はとどめの一言を――刺す。
「情けでここに置いてやってるのを、忘れないで」
ふん、と一瞥し、院長は台所を出て行った。
――ひどい
アンジュの心に、小さな爆ぜりが生まれた。未だに、たまに来る引き取り話すら断って、都合良く使ってるのに。でも、何も言い返せない。彼女の言ったこと自体は当たっていると思うからだ。
そんな自分がまた惨めで悲しく思ったが、柱時計の秒針の音に気づき、我に返る。
「急がないと」
そう呟き、勢いよく、鍋のスープをかき混ぜた。
昼過ぎになり、待ちに待った休憩時間がきた。待ちかねたように、アンジュは駆け足で海辺に向かった。さっきまでの暗い念を振り切るかのように、いつもの道、緑鮮やかな葡萄畑を、野ウサギのように駆け抜けて行く。
――早く、早く。二人が、フィリップが、待ってくれてる……
――いつからだろう。こんなに会いたくなってしまったのは…… どうして、会いたくて仕方ないんだろう……
――一分でも、一秒でも長く、一緒にいたい……話がしたい…… 困っていたら、助けてあげたい……
彼女にとって、初めて感じる類いの感情だった。誰かのことを特別に、大切に感じる、満たされたような、熱い高揚感。
この気持ちは、一体、何だろう…… これが、友達に対する感情なのだろうか。普段、あまり動かさない表情筋が、ぎこちなく緩む。
――そうか。これが、友情なのね。何て気持ちの良いものなんだろう……
海辺が見えてきた。既に二人は来ていて、フィリップは、自分に向かって手を振っている。そんな彼に手を振り返して、アンジュは、拙い笑顔で駆け出して行った。
「もう、何やってるのよ……」
砂浜に尻餅をついているアンジュを見下ろしながら、エレンが呆れたように言う。
「あっちに水場があるから、砂を落とした方がいいよ。エレン、手伝ってあげてくれないか?」
「いいわ。まかせて」
フィリップに、愛想良く返事した後、彼に聞かれないように、エレンは、面倒臭そうに小さくため息をつき、アンジュを岩陰にある水道まで連れて行った。
二人を見つけて、急いで駆け出そうとした瞬間、砂に足を取られて転んでしまったのだ。慌てて二人は駆け寄ったが、アンジュは頭から砂を被り、砂のモンスターのようになっていたので、思わず大笑いした。ひとしきり笑った後、先程の流れになったのである。
恥ずかしさと自己嫌悪で、その間、アンジュはずっと、何も言えずにいた。
――どうして、私ってこうなんだろう。昔からそう。何でも上手くやれなくて、鈍臭い……
自分が嫌になっていた。大好きな二人の前で、恥をかいて、迷惑をかけて……
――怒ってるだろうな
さっきから無言で、アンジュの服を脱がし、体や髪に水をかけて、砂を落とす作業をしてくれている彼女を、そっと見た。
「何?」
形の良いアーチ状の眉を少し歪め、エレンが怪訝そうに聞く。
「ううん。何でもない……」
考えてみたら、エレンと二人きりで話すのは初めてかもしれない……とアンジュは思った。
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