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戦火のアンジェリーク  作者: 伏水瑚和
Ⅲ.Wales ~ the UK
58/61

★心乞う最上は ~ One the Only

【※R15程度の性表現があるのでご注意下さい】


 一夜明け、淡い夏の日射しが室内に入り込む頃、朧気な意識の中、先にアンジュが(まぶた)を開いた。すぐ傍に温かい胸板がある。程好く肉付いた固い腕が、彼女の身体を包むように回されていた。

 気怠い体を少し動かし、上向く。乱れたブルネットの髪、同じ色の扇状に伏せられた長い睫毛、すっと通った鼻筋が、深い寝息と共にあった。今更ながら、心が甘くときめく。


 ――私、すきな(ひと)、と……初めて……


 昨夜、自分が彼にねだった事を思い出し、途端に羞恥でいたたまれなくなった。やたら熱いのは、気温のせいじゃない。腕枕にしてくれていた方の手の、節くれた長い指を、そっ、と合わせ握る。下腹部には、しあわせな痛みの余韻が疼いていた。


 ――うれしい……の、に……


 心の空洞は埋まっていない……そんな自分が悲しく、改めて嫌になる。だが、僅かな光を感じた瞬間は、しっかりと覚えていた。


 又一ヶ月が経ち、北の英国もようやく夏らしさを迎えた。暑くなると人は開放的になるというが、アンジュは異なる理由で、精神的に突飛出るようになっていた。

 あの初めての夜以来、人の温もりが無性に恋しくて仕方なくなったのだ。その相手が、好きな男(ジェラルド)だから尚更だった。求めてもらえるなら、いっそのこと性的な欲が理由でも良い……とまで思い詰めていく。

 必要とされるなら、こんな自分の身体でも良いなら、まるごと差し出して構わない…… そんな偏った衝動が募ると、彼にせがみ、もっと触れてほしいと求めた。

 引かれて嫌われる恐怖よりも、そんな恥ずかしい言動や情けない心を、無条件に受け止めてくれる一時(ひととき)が、欲しかったのかもしれない……


 ()()()。ほんの微かな『音』が喉から出た事を、アンジュから筆談で知ったジェラルドは、良い方に向かったならという一縷(いちる)の希望と、彼女へのシンプルな情欲から、可能な限り応えていた。

 しかし、あの行為にどんどん溺れていく彼女と自分が、少し怖くもあった。避妊はしているが、依存的になっているのが判る。そんなやるせない思いを紛らわしたく、ジェラルドも晩酌の回数が増えていた。


 ―――…………


 ……初めて感じた『好き』って、どんなだっただろう、と自嘲的にアンジュは振り返る。昔は、相手が自分を好きでなくても、ただ、傍にいて、話せるだけで安心出来た……

 だが今は、自分を受け入れ、求められる喜びを知ってしまった。『甘えて良い』という赦しを、生まれて初めてもらったような……気がする。


 ――私は、ただ、()されたくて、それだけの為に生きてたの……?



 ある夜。晩酌を終えたジェラルドと、カウチでの日課の筆談中、最近の彼女を心配した彼に、少し迷った後、アンジュはそんな思いを吐露した。


『私は、()が、嫌いです』

「……な、に言……」

『弱くて、何も無い……できない』

「……⁉」


 絶句する彼に、自嘲気味に続けてアンジュは書いていく。


『歌も……役に立って、認めてもらいたかったから……頑張ってただけ』

『誰も、救えなかった』


 次々に綴られる、後ろ向きで悲観的な言葉……悲痛な面持ちで、彼女からペンとメモ帳を取り上げ、ジェラルドはそのままきつく抱き寄せた。


「……俺は、救われた、と言っても……か?」


 アンジュの(よい)の瞳孔が開く。初耳で、知らなかった彼の心の奥。


「初めて会った夜……一小節(ワンフレーズ)の歌が良かったと言ったのは……嘘じゃない」


 あまり世辞を言わない彼の賞賛は説得力はある。が、彼女には半信半疑だった。


「『ポピーの涙』……俺は聴いた。が……あの歌を歌いたい、と傷ついても願う君を見ていた時から…… この世も、そんなに悪くないのかもしれないと、初めて……思った……」


 アンジュの心の空洞に、柔らかな綿(わた)が詰められていく。


「それでも()()……()()()が褒め、認めないと……君は、救われないのか……⁉」

「辛いなら、歌わなくていい。歌いたいなら歌えばいい。君が、選べばいい……生きていてさえくれたら……君が、君でいてくれたら…… 何故、そんなに……卑下、する……」


 激していく反面、掠れていく彼の真摯な想いが、アンジュの心に入り込み、切に滲みた。目頭が痛くなり、一筋の(しずく)が流れる。関を切り、次から次に、熱い水が零れる……


 ジェラルドが、どうしてこんなに自分を大事にしてくれるのか、アンジュにはずっとわからなかった。だけど、今は信じたい……信じてみたいと、強く願う。

 きつく抱かれた腕の中で、嗚咽(おえつ)すら出来ないまま、肩を震わせ、アンジュは静かに泣いた。こんなに心が動いたのは、いつぶりだろう。

 今なら、出せるかもしれない。かつて無い喜びの勢いで、今、一番口にしたい言葉……彼の名を、呼びたい。


「……っ、は………」

「シスリー?」


 大好きな人の悲しげな翡翠の瞳を、しっかりと見つめ、アンジュは口を開け、ぱくぱく、と必死に動かす。首を抑え、喉奥から、音を出そうとした。今、一番、口にしたい言葉を。


「……じ……ジェ……」

「……‼」


 掠れた音と共に、歓喜と希望が射した。しかし、彼女の濡れた唇からこぼれるのは、短い呼吸音と深く苦しそうな吐息だけだ。苛立つように、小刻みに首を振り、胸を叩き始める。


「…………っ‼」


 涙を流しながら、必死に自分を喜ばせ、安心させようとしているアンジュが、次第に痛ましく、辛くなる。堪らなくなり、ジェラルドは再び抱き寄せた。


「いい。もう、いい…… 無理、するな」


 焦りたくない。今より悪くなる位なら、このままでいい……


「……さっきの言葉も……忘れてくれ」


 動揺し、戸惑ったアンジュは、怪訝そうに小首を傾げる。ようやく呼吸が整った口元を、ゆっくりと動かす。


『なぜ、です、か……?』

「……酔っ払いの戯言(たわごと)だ」


 ジェラルドは酒に弱くはない。晩酌で呑んだのも、節約の為に水割りのウイスキーをグラスに一杯だけ。呂律(ろれつ)も回っていない。が、酔った時のように頬が赤らんでいる。

 そんな彼を見ているうち、切なくもいとおしさで苦しくなったアンジュは、泣き顔のまま、少し微笑を浮かべた。

 久方ぶりの彼女の微笑み……ジェラルドは驚き、突然の贈り物をもらったような気分になった。少しずつでいい、元のアンジェリークに戻ってくれたら……


「……眠ろう」



 傷ついて、傷つけて、苛立ちで腹ただしくなる時もある。なのに離れたいと思えないのは、こんな風に、互いからしか吹かない風が、心を不意に温めるからだ。

 それを手放し、離れた後の自分がどうなってしまうのか……彼らには想像できない。する事自体に怯えている。

 『傍にいたい』『触れていたい』という、不規則だが頻繁に訪れる、ちぐはぐな小波(さざなみ)。それだけを頼りに、先行きも逃げ場も見えない海面に揺蕩(たゆた)う。そこで、二人で食べて、眠って、息をする。それらが、()を生き抜く、唯一の(すべ)だった。


 ……たとえ、そこが焼け焦げた荒地に、やがて変わるとしても。


【閲覧ありがとうございました。いいねや一言でも良いので、ご感想を頂けると嬉しいです】

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