★心乞う最上は ~ One the Only
【※R15程度の性表現があるのでご注意下さい】
一夜明け、淡い夏の日射しが室内に入り込む頃、朧気な意識の中、先にアンジュが瞼を開いた。すぐ傍に温かい胸板がある。程好く肉付いた固い腕が、彼女の身体を包むように回されていた。
気怠い体を少し動かし、上向く。乱れたブルネットの髪、同じ色の扇状に伏せられた長い睫毛、すっと通った鼻筋が、深い寝息と共にあった。今更ながら、心が甘くときめく。
――私、すきな男、と……初めて……
昨夜、自分が彼にねだった事を思い出し、途端に羞恥でいたたまれなくなった。やたら熱いのは、気温のせいじゃない。腕枕にしてくれていた方の手の、節くれた長い指を、そっ、と合わせ握る。下腹部には、しあわせな痛みの余韻が疼いていた。
――うれしい……の、に……
心の空洞は埋まっていない……そんな自分が悲しく、改めて嫌になる。だが、僅かな光を感じた瞬間は、しっかりと覚えていた。
又一ヶ月が経ち、北の英国もようやく夏らしさを迎えた。暑くなると人は開放的になるというが、アンジュは異なる理由で、精神的に突飛出るようになっていた。
あの初めての夜以来、人の温もりが無性に恋しくて仕方なくなったのだ。その相手が、好きな男だから尚更だった。求めてもらえるなら、いっそのこと性的な欲が理由でも良い……とまで思い詰めていく。
必要とされるなら、こんな自分の身体でも良いなら、まるごと差し出して構わない…… そんな偏った衝動が募ると、彼にせがみ、もっと触れてほしいと求めた。
引かれて嫌われる恐怖よりも、そんな恥ずかしい言動や情けない心を、無条件に受け止めてくれる一時が、欲しかったのかもしれない……
あの時。ほんの微かな『音』が喉から出た事を、アンジュから筆談で知ったジェラルドは、良い方に向かったならという一縷の希望と、彼女へのシンプルな情欲から、可能な限り応えていた。
しかし、あの行為にどんどん溺れていく彼女と自分が、少し怖くもあった。避妊はしているが、依存的になっているのが判る。そんなやるせない思いを紛らわしたく、ジェラルドも晩酌の回数が増えていた。
―――…………
……初めて感じた『好き』って、どんなだっただろう、と自嘲的にアンジュは振り返る。昔は、相手が自分を好きでなくても、ただ、傍にいて、話せるだけで安心出来た……
だが今は、自分を受け入れ、求められる喜びを知ってしまった。『甘えて良い』という赦しを、生まれて初めてもらったような……気がする。
――私は、ただ、愛されたくて、それだけの為に生きてたの……?
ある夜。晩酌を終えたジェラルドと、カウチでの日課の筆談中、最近の彼女を心配した彼に、少し迷った後、アンジュはそんな思いを吐露した。
『私は、私が、嫌いです』
「……な、に言……」
『弱くて、何も無い……できない』
「……⁉」
絶句する彼に、自嘲気味に続けてアンジュは書いていく。
『歌も……役に立って、認めてもらいたかったから……頑張ってただけ』
『誰も、救えなかった』
次々に綴られる、後ろ向きで悲観的な言葉……悲痛な面持ちで、彼女からペンとメモ帳を取り上げ、ジェラルドはそのままきつく抱き寄せた。
「……俺は、救われた、と言っても……か?」
アンジュの宵の瞳孔が開く。初耳で、知らなかった彼の心の奥。
「初めて会った夜……一小節の歌が良かったと言ったのは……嘘じゃない」
あまり世辞を言わない彼の賞賛は説得力はある。が、彼女には半信半疑だった。
「『ポピーの涙』……俺は聴いた。が……あの歌を歌いたい、と傷ついても願う君を見ていた時から…… この世も、そんなに悪くないのかもしれないと、初めて……思った……」
アンジュの心の空洞に、柔らかな綿が詰められていく。
「それでも誰か……そいつが褒め、認めないと……君は、救われないのか……⁉」
「辛いなら、歌わなくていい。歌いたいなら歌えばいい。君が、選べばいい……生きていてさえくれたら……君が、君でいてくれたら…… 何故、そんなに……卑下、する……」
激していく反面、掠れていく彼の真摯な想いが、アンジュの心に入り込み、切に滲みた。目頭が痛くなり、一筋の滴が流れる。関を切り、次から次に、熱い水が零れる……
ジェラルドが、どうしてこんなに自分を大事にしてくれるのか、アンジュにはずっとわからなかった。だけど、今は信じたい……信じてみたいと、強く願う。
きつく抱かれた腕の中で、嗚咽すら出来ないまま、肩を震わせ、アンジュは静かに泣いた。こんなに心が動いたのは、いつぶりだろう。
今なら、出せるかもしれない。かつて無い喜びの勢いで、今、一番口にしたい言葉……彼の名を、呼びたい。
「……っ、は………」
「シスリー?」
大好きな人の悲しげな翡翠の瞳を、しっかりと見つめ、アンジュは口を開け、ぱくぱく、と必死に動かす。首を抑え、喉奥から、音を出そうとした。今、一番、口にしたい言葉を。
「……じ……ジェ……」
「……‼」
掠れた音と共に、歓喜と希望が射した。しかし、彼女の濡れた唇からこぼれるのは、短い呼吸音と深く苦しそうな吐息だけだ。苛立つように、小刻みに首を振り、胸を叩き始める。
「…………っ‼」
涙を流しながら、必死に自分を喜ばせ、安心させようとしているアンジュが、次第に痛ましく、辛くなる。堪らなくなり、ジェラルドは再び抱き寄せた。
「いい。もう、いい…… 無理、するな」
焦りたくない。今より悪くなる位なら、このままでいい……
「……さっきの言葉も……忘れてくれ」
動揺し、戸惑ったアンジュは、怪訝そうに小首を傾げる。ようやく呼吸が整った口元を、ゆっくりと動かす。
『なぜ、です、か……?』
「……酔っ払いの戯言だ」
ジェラルドは酒に弱くはない。晩酌で呑んだのも、節約の為に水割りのウイスキーをグラスに一杯だけ。呂律も回っていない。が、酔った時のように頬が赤らんでいる。
そんな彼を見ているうち、切なくもいとおしさで苦しくなったアンジュは、泣き顔のまま、少し微笑を浮かべた。
久方ぶりの彼女の微笑み……ジェラルドは驚き、突然の贈り物をもらったような気分になった。少しずつでいい、元のアンジェリークに戻ってくれたら……
「……眠ろう」
傷ついて、傷つけて、苛立ちで腹ただしくなる時もある。なのに離れたいと思えないのは、こんな風に、互いからしか吹かない風が、心を不意に温めるからだ。
それを手放し、離れた後の自分がどうなってしまうのか……彼らには想像できない。する事自体に怯えている。
『傍にいたい』『触れていたい』という、不規則だが頻繁に訪れる、ちぐはぐな小波。それだけを頼りに、先行きも逃げ場も見えない海面に揺蕩う。そこで、二人で食べて、眠って、息をする。それらが、今を生き抜く、唯一の術だった。
……たとえ、そこが焼け焦げた荒地に、やがて変わるとしても。
【閲覧ありがとうございました。いいねや一言でも良いので、ご感想を頂けると嬉しいです】




