声を失くした天使 ~ curse
その夜。食欲の無い二人は、夕食もそこそこにして、早めに床につく事にした。向かい合っている目を腫らした彼女をジェラルドは案じ、一晩中、傍に抱き寄せて眠るつもりだった。しかし、セミダブルベッドのマットレスに座り込んだアンジュは、ゆっくり首を左右に動かし、断った。
予想外の反応に、拒絶されたようで内心ショックを受けたが、もっと堪えたのは、身につけることにしたメモ帳に目の前で彼女が書いた、一行の言葉だった。
『私は、あなたに優しくしてもらえる資格、ないです』
目にした瞬間、何を言っているのだろう、とジェラルドは唖然とした。自分と関わった事も原因の一つではないのか。他の男の訃報がきっかけで、こんな事態になったことを気に病んでいるのか……
ただの親友で、それ以上の関係でなかったなら、そこまで後ろめたく思う必要はないはず……と怪訝に思った。だが、アンジェリークという少女の、これまでの生き様を支えた存在なのは認めざるを得ない。彼女自身も、それを自覚しているのだろう。
それに対する、やり場の無い苦い嫉妬、どうしようもない無力感に駆られ、振り回されるのは、男としても格好悪い…… そんな複雑な感情を見透かされたようで、ばつが悪くなる。
「……俺といるのは、もう、嫌なのか?」
声色のトーンが若干下がり、悲しげな雰囲気に変わった彼に、アンジュは慌てた。引っ越しを終え、一緒に暮らし始めて、まだ数日だ。籍を入れるどころか、それらしい生活もまともに出来ていない。いつか彼が言った、あれ以上、身体を重ねてもいない。
何もかも、ようやくこれから……そんな矢先の事態だったのだ。申し訳なくて、居たたまれなくて、この場で消えてしまいたい位だった。しかし、傷つけてしまっては本末転倒と、ふるふる、とアンジュは勢いよく首を振る。
そんな彼女を複雑そうに見つめ、ジェラルドは、メモ帳を握った細い腕を取る。
「何を気にしているのか知らないが…… 俺がそうしたいから……するだけだ」
無意識に瞳孔が開いたアンジュの胸奥が、ぎゅっ、と締め付けられた。宵闇の海の瞳に、淡い光が射したが、甘い痛みに、心が泣き声を上げる。
――どうして、この人は、こんな私に、こんなに優しくしてくれるの……?
「……とりあえず、今日は何も考えないで、休もう。疲れただろ」
こくり、と頷き、アンジュは躊躇いがちに、彼に少しずつ寄り添った。ゆっくりと腕を回し、そっ、と壊れ物を扱うように、ジェラルドは彼女を抱き寄せる。そのまま全てから護るように、毛布を被った。
そんな彼に、アンジュは何度も心の中で詫び続け、泣いた。
――…………
『歌えない自分は、どうやって生きていけばいいのだろう』と、声が出なくなってから、アンジュはずっと思っていた。そんな自分に何の価値があるというのか。それしか、なかったのに。今は歌うどころか、話す事すら、出来ない。
昔から、いつも、大切な人の負担にしかなれない。何故、自分はこんなに弱いのだろう。強くなりたい。なりたかった……
生きていく為に、そんな思いは抑え込んで、ずっと封じてきたのかもしれない。頭も、心も、自身を卑下し、蔑む感情で、今は溢れかえっていた。そのまま、そんな負の概念に呪い殺されるのではないか、それならそれでよいかもしれない……と思う位に……
一週間程、アンジュは自身の変化や様子を見ていた。食欲不振や疲れやすさはあるが、家の中で軽い家事をしたり、買い物に出かける程の体力はあった。しかし、就寝後に悪夢にうなされ、次第に不眠気味になってしまった。そんな日は、触れられるという事に、ジェラルドからすら怯える様子を見せる。
そんな反応に、彼は内心ショックを受けたが、ますます心配で堪らなくなった。なるべく彼女を一人にしたくなかったが、昼過ぎからも仕事場に赴き、カフェ営業の業務も請け負う事にした。本来なら、アンジュも何か仕事を探して、家計を助ける予定だったのだ。
そんな状況を耳にし、心配したグレアムは夫人に、週一で二人のアパートに訪問し、サポートしてくれるよう頼んだ。
こんな風に色んな人に迷惑をかけて困らせているという状況が、アンジュは本当に辛く、自責する毎日だった。何もできない、何も知らない、何も持たない、無力でこんなにちっぽけな存在だから、こうなったのだと……
どうしようもない喪失感と渇望するような焦燥感が、時折、アンジュを襲う。身体の内側から、何かが崩れ、消えていくような、そのまま無に帰してゆく感覚。
自身を痛めつけ、粗末に扱い、そのまま闇に投げ出して消えてしまいたい…… そんな衝動に誘惑され、支配される時もあった。悪魔が耳元で囁いたか、何かの黒魔術にでもかかったか……
今まで知らなかった、そんな刺々しい自分の心が、とても、怖かった。
次第に、孤児院の院長やロベルト、そして、フィリップに似た風貌の人間を、町中で見かける度に、眩暈と激しい息苦しさが、アンジュを襲うようになった。
それらが頻繁に起こる事を恐れ、外出の回数が減り、部屋に閉じ籠りがちになった彼女が、ジェラルドは心配で堪らなく、もどかしい無力感に打ちのめされていた。
こんなに苦しんでいる、何よりも大切な、好いた女に自分は何も出来ないのか。彼女にとって、自分は何なのか。自尊心をへし折られてばかりだ。
「……俺にできる事は、何も無いのか?」
ついに、彼女本人すらわからないであろう問いをぶつけ、困らせてしまい、彼も自己嫌悪に陥った。
――自分のせい。自分が苦しめた。自分は無力だ。何も出来ない……
そんな二人の様子が心配になったグレアム夫人は、自身の長年の経験から一つだけ、アンジュに諭した。
「そんなに自分を責めてはいけません。今は彼に頼って、甘えていいんですよ」
――違う。違うんです。もう十分過ぎる位、私は彼に頼りきりで、傷つけてばかりなんです……
これ以上自分の為に何かを求めるなんて、恐れ多い。もう、生きているだけで罪なのでは……とさえ、自身を呪う位だった。その度に『生きる』とは何だろう……と悩み、耽る。
食べて、呼吸をして、大切な人と暮らしている。今時世、それだけで十分に幸せで、尊い事だ。だが、何故、生きているのだろう。その大切な人に寄りかかっているだけの、ただのお荷物ではないのか……
自身を占めている強烈な孤独感、自己否定感が、一瞬で消し飛ぶ位の何かがほしい。決して揺るがない確かなもの、満たされるものが欲しい。
いや、遥か昔から、生まれてからずっと、欲しかったような気もする……
部屋の外の世界は、相変わらず暗く殺伐としたニュースで溢れている。中の世界も、また異なる哀しい状況だ。
――覚悟はしていたが、まさか、こんな荊の道になるとはな……
自嘲気味に、心の中でジェラルドは苦笑した。
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