声を失くした天使 ~ darkness
大人に成り立ての一人の少女が生きてきた時間は、人間の一生から見たら、ほんの僅かだろう。が、今までに自身が見聞きしてきた現実から、人間の戦争というものの真理を、アンジュなりに漠然と察していた。
人間が集まる所には、多かれ少なかれ、複数のカテゴリーや階層、理不尽に支配する者と服従する者が生まれる。倫理や制度も名ばかりで無意味……そんな世界で逆らう術も無いまま生きていくには、自分の意思すら抑え、滅し、流れ行くしか出来なかった。
一部の層が莫大な利益を得るために、全体が操られ、壊され、利用されていく。大半の層が得るのは、残骸、遺恨、悲哀、嫌悪、怨恨、絶望……そして、空虚。勝敗は無関係にそれらを与えられ、有無を言わさず享受させられる。
敗者側は、更に卑劣で屈辱的な仕打ち、暗に従属、支配下された暮らしを、子々孫々と背負わされる。……そんな残酷で馬鹿げたシステムが存在して良いのだろうか。
愚かだと理解していながらも、狂った何かから自身や大切なものを守る為、戦う理由に掲げた『崇高な大義』を成し遂げる為に、自らも狂わなければならない、苛烈な現世。
魔に憑かれた時は、更に『邪』な魔を以てしか、制する方法は無いのか。誰かを明るく元気にしても、更に強圧な闇が膨れ上がって、芽生えた希望の光を、呆気なく呑み込んでしまう……
――フィリップも、そうだったの……?
そんな風に考えた瞬間、身体中でずっと抱え続けていた、どうしようもない無力感と空虚な塊が、アンジュの芯からすこん、と全身を突き抜け……底に落ちた。
――……こんな、生き物らしく生きることすら赦されない世界に…… 破滅に自ら突き進むのが、当たり前の時代に……歌を……希望を、うたって……何、になる、というの……?
――どうにもなら、ない。何も、でき、ない……のに、なにも……『無い』、のに……‼
「……⁉」
重くフリーズした脳内を抉られるような激痛が、鋭く走り、カッ、と瞳孔が開いた。激しい吐き気と、息苦しさが胸を襲う。涙と冷や汗が吹き出し、自身の異変と危機を感じたアンジュは、助けを呼ぶ悲鳴を上げようと喉を押さえ、必死に声帯を開いた。
「……っ⁉ ――‼」
つけっぱなしだったラジオから流れる音声だけが流れる無機質な空間が、その場を物語っていた。唾液が零れるアンジュの唇からは、荒々しくも苦し気な呼吸音だけが、絶え絶えに……響いていた。
「シスリー⁉」
深夜。仕事から帰ってきたジェラルドは、部屋に入るなり目に入った、テーブル近くに座り込み、喉を押さえたまま茫然自失状態になっているアンジュの姿に驚愕し、大声を上げた。
意識が朦朧としている彼女に何度も声をかけたが、返事はない。ぴく、と頭が動き、虚ろな眼は開き、呼吸も微かだがしている。しかし、一切、口を動かそうとしない様子に血の気が引いた。
緊急事態を察したジェラルドは、まずグレアム宅に無礼を承知で電話をかけ、詫びと状況を述べた。彼から夜間外来をしている診療所を聞き、電話をかけ、タクシーを呼び、脱力状態のアンジュを抱えながら乗り込む。怪我はないようだが、原因が全くわからない状況に、恐ろしさと共に、強烈な眩暈を感じた。
診察が終わり、耳鼻咽喉科、内科共に『特に異常なし』という結果が出た。医師は、専門外であるから断定は出来ないが、何かしらの脳の障害か、強い精神的ショックを受けた事による、心因性による『失語症』かもしれない、と述べた。
心当たりは無いか、と聞かれたジェラルドは、身が詰まされる思いだった。……ありすぎたからだ。ロンドンでの数々の苦行、兄の卑劣な所業、自分と二人だけで慣れない土地で奮闘する日々。そして、以前に聞いた親友というフランス人の男が、陸軍に志願したという事。そして、彼も今日知った、そのフランスが完全降伏したというニュースに加え、仏軍は壊滅状態という訃報……
ラジオでそれを聞いた直後、彼女に異変が起こったのだろう、と予測するには容易かった。夢を叶えるという大切な約束をした、という男の安否の危機。それを知り、自身の大切な一部を失った、いとおしい女……
ジェラルドの胸奥のあちこちが、じりじり、とちりつくように焼けた。
身内に緊急事態が起こった為、今日の仕事は休ませて欲しいと、ジャズバーの店主に詫びの連絡を入れたジェラルドは、まだ心此処に在らず、といった状態のアンジュを連れ、一先ず自宅のアパートに戻った。
ダイニングテーブルの椅子に座らせ、温かいミルクティーと菓子を用意し、とりあえず落ち着こう、とマグカップを差し出す。乳白色に漂う湯気、憔悴しつつも穏やかな彼を交互に見た後、こくん、とアンジュは無表情に頷き、ゆっくりとカップを口にする。
そんな様子を『無理もない』と、ジェラルドは思った。訃報の内容もだろうが、こんな事態になると彼女自身、思ってもいなかっただろう。自分も未だに信じ難く、現状を受け入れられていない。
あんなに一生懸命頑張っていた彼女が、自分に嬉しそうにしていた彼女が、よりによって声を出せなくなった……歌えなくなったのだ。
紅茶を飲み終えたアンジュは、ことん、とカップを置くなり、俯いて微かに肩を震わせた。完全に光を失い、宵闇の海と化した瞳を、恋しい人に向ける。頬には一筋の滴が流れ、唇が上下に揺れていた。
「シスリー……?」
困惑の色が浮かぶジェラルドの顔をじっ、と見つめ、吐き出すように口を動かす。
『ジ・ェ・イ・ド・さ・ん』
「………‼」
『ご・め・ん・な・さ・い……‼』
おぼつかな動きで絞り出すように、そんな切な言葉が、呼吸音と共に濡れた唇から零れる。たまらなくなり、ジェラルドは抱きしめた。ぐっ、と目を閉じ、痛んでいた胸奥を、一気に焦がし尽くす。
――謝らないでくれ…… わかってる……
歌う事が、彼女の全てだった。歌えたから、生きていた。自分と出会う前から今まで、そうして辛い事や悲しい事を、一人で乗り越えてきたのであろう…… そんな天使に惹かれた自分。
どんなに妬ましくとも、羨ましくとも、そんな彼女の『生きる術』を形作っていた存在を、否定するなど――できない。
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