崩壊 ~ nothingness
心の一番真ん中の部分が、ぽっかりと空洞化している。誰かの経験を見聞きしても、どこかしっくりとこない。自身とはかけ離れていて、無縁過ぎて……心が動かないのだ。
「今は、すごく……怖いです。貴方や彼がいなくなる事が、怖くて、怖くて堪らない…… けど、そんな人ができたことが、どこか嬉しくもあって…… 私……おかしい……」
「シスリー」
涙声になった彼女を、自身が名付けた名でジェラルドは呼び、そっ……と抱き寄せた。彼女が言いたいことは、よく解る。解りすぎて彼も哀しく、また……嬉しいのだ。
月日が過ぎた、一九四〇年五月。アンジュも新しい環境に慣れ始め、金が貯まってきた事もあり、来月に入ったら、彼女も働き口を探し、グレアム宅近くのアパートに引っ越そうかと、ジェラルドと相談し始めていた。
そんなある日、アンジュはグレアムから、ある場所を勧められた。カーディフから更に北東に位置するこの町は、イングランド周辺に栄える、湖水地方に近い風貌があった。彼によると、町から少し離れた場所に、そんな風合いの小さな湖畔があるらしい。
夫人から『友人が出征していてひどく気落ちしている』と聞いたグレアムは、彼女の気晴らしになる方法がないか考えてくれたのだ。
慣れないこの町で、唯一、心の拠り所であるジェラルドとは生活がすれ違い気味で、共に過ごせる時間もない状況が長く続いている。彼の演奏は、客からの評判も良いらしく、新しい仕事内容や演目を必死に覚える為、昼夜問わず慌ただしい日々を送っていた。
それでも顔を合わせたり床につく時は、どんなに疲れていても、必ずハグやキスを丁寧にしてくれる。そんな彼を案じ、またジェラルドのピアノが好きで誇らしくもあったので、とても弱音は吐けなかった。
「あんたが花や自然が好きな田舎育ちだって、ジェイドから聞いてね。大した場所じゃないが、静かでいい所さ。俺も、夏に釣りに行く場所だ」
初夏になったら、ラベンダーなどの花も咲く、美しい光景が見られるという。そんな彼らの温かい心遣いがありがたく、早速、一人でその場所に行った。
教えられたその湖畔は、白樺の高い樹木に囲まれ、人気は無く、静寂に満ちていた。辺りは薄曇りでどこか寂しげだが、枝から若葉色の新芽が芽吹き始めている。
見上げた木々の隙間からこぼれてくる、柔らかな陽光が、アンジュを淡く照らしていた。深呼吸すると、涼やかで新鮮な空気と共に、草木の良い香りが胸いっぱいに沁みていく。初めて来たのに、何故かひどく懐かしく、安心できる場所……
――今のジェイドさんに包まれてるみたい……
――ここでなら、また歌えるかもしれないわね。子供の頃みたいに……
久しぶりに心が軽くなった気がした。今夜、彼が帰って来たら話してみようか…… 笑ってくれるだろうか。
――いつか、一緒に来たい
ささやかだが、新しく生まれた希望。だけど、今は束の間の夢……シャボンのようなお伽噺に感じる…… そんなシニカルな心境になっていた。
そんな彼女の予感が当たったのか、数日後に届いた新聞は、『我が国の同盟国、フランス陸軍、ドイツ陸軍と戦闘開始!!』という、彼女が最も見たくなかった、最悪のフレーズで埋まっていた。
目にした瞬間、堪らない衝動が襲いかかり、アンジュは、反射的に駆け出した。無意識にあの場所に向かって、全力で走る。湖の側に着くなり力が抜け、膝をつき、崩れ落ちた。
いざという時は、どろどろした様々な感情がもっと吹き出すと思っていた。が、何も出てこない。今の現状を受け入れられない。信じたくない、何かの間違いであって欲しいという、自己防衛的な逃避だろうか。
フィリップが配属された部隊はどこか、どの前線に配置されたのは知らない。だが、志願したという以上、少なくとも安全な場所ではないだろう……
「……ラ、ラ……ララ……」
ようやく、唇から掠れ声で自然にこぼれたのは、あのメロディだった。ロンドンで初めて作った、反戦と鎮魂の想いを込めた、朱く可憐な花の歌。歌詞は出なかった。戦場で散り逝く情景なんてリアル過ぎて、今は歌いたくない。
しかし、自身を慰める術がそれしか無いアンジュは、すがるように思い出の楽曲を暫く口ずさんでいた。
春を迎えたばかりの草原には、黄水仙などの花が、ちらほら咲き始めている。眼前に広がる清涼な湖には、解け残った薄氷が、きらきら、と反射して瞬き、儚くも美しい。大きく割れ目の入った、頼りなげなガラスのような地盤だ。もっと温かくなれば、いずれ溶けて無くなるだろう。
そんな道でも、先に見えない暗闇でも、ジェラルドと二人なら歩いて行ける。いざという時は……その時も一緒だと考えていた。が、片方だけ失うなんて可能性は、考えていなかった。
……いや、考えたくなかったのだ。想定しないで前に進む事だけが、危うくも、確かな唯一の拠り所だったから。
六月に入り、アンジュとジェラルドは、グレアム夫妻にこれまでの礼を深々と述べ、ようやく、彼らの自宅近くにある二人住まいのアパートに引っ越した。不安も数多くあるが、ようやく二人の新しい生活が始められるという、淡い希望が灯る。
そんな矢先……フランスがドイツに敗北したという重大ニュースが、霹靂の如く、国内を駆け巡った。仏軍は壊滅状態で、事実上、完全降伏という事らしい。容赦ない侵略行為がフランスでも始まり、民間人も危機に曝されるという事になる。
挙げ句、ドイツの同盟であるイタリアが、この機に本格的に参戦した。つまり、我が国イギリスは、欧州から孤立状態に陥ったという危機的な状況――
新居となる部屋で一人、荷ほどきと掃除をしていたアンジュは、ラジオから機械的に流れてくる、そんな無情な知らせを聞いた。一瞬、耳を疑ったが、次第に意識が遠退き、よろめく。
――……フィリップ? 嘘でしょう?
連絡先がわからない今、彼の安否を知る手段は無い。もし生きていたとしても、これから始まる侵略行為によって、彼を含む国民も国土もどうなるかわからない。フランスという国全てが、まるごと奪われ、潰されるカウントが……始まったのだ。
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