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戦火のアンジェリーク  作者: 伏水瑚和
Ⅲ.Wales ~ the UK
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崩壊 ~ nothingness

 心の一番真ん中の部分が、ぽっかりと空洞化している。誰かの経験を見聞きしても、どこかしっくりとこない。自身とはかけ離れていて、無縁過ぎて……心が動かないのだ。


「今は、すごく……怖いです。貴方や彼がいなくなる事が、怖くて、怖くて堪らない…… けど、そんな人ができたことが、どこか嬉しくもあって…… 私……おかしい……」

「シスリー」


 涙声になった彼女を、自身が名付けた名でジェラルドは呼び、そっ……と抱き寄せた。彼女が言いたいことは、よく解る。解りすぎて彼も哀しく、また……()()()のだ。



 月日が過ぎた、一九四〇年五月。アンジュも新しい環境に慣れ始め、金が貯まってきた事もあり、来月に入ったら、彼女も働き口を探し、グレアム宅近くのアパートに引っ越そうかと、ジェラルドと相談し始めていた。

 そんなある日、アンジュはグレアムから、ある場所を勧められた。カーディフから更に北東に位置するこの町は、イングランド周辺に栄える、湖水地方に近い風貌があった。彼によると、町から少し離れた場所に、そんな風合いの小さな湖畔があるらしい。

 夫人から『友人が出征していてひどく気落ちしている』と聞いたグレアムは、彼女の気晴らしになる方法がないか考えてくれたのだ。

 慣れないこの町で、唯一、心の拠り所であるジェラルドとは生活がすれ違い気味で、共に過ごせる時間もない状況が長く続いている。彼の演奏は、客からの評判も良いらしく、新しい仕事内容や演目を必死に覚える為、昼夜問わず慌ただしい日々を送っていた。

 それでも顔を合わせたり床につく時は、どんなに疲れていても、必ずハグやキスを丁寧にしてくれる。そんな彼を案じ、またジェラルドのピアノが好きで誇らしくもあったので、とても弱音は吐けなかった。


「あんたが花や自然が好きな田舎育ちだって、ジェイドから聞いてね。大した場所じゃないが、静かでいい所さ。俺も、夏に釣りに行く場所だ」


 初夏になったら、ラベンダーなどの花も咲く、美しい光景が見られるという。そんな彼らの温かい心遣いがありがたく、早速、一人でその場所に行った。



 教えられたその湖畔は、白樺(しらかば)の高い樹木に囲まれ、人気(ひとけ)は無く、静寂に満ちていた。辺りは薄曇りでどこか寂しげだが、枝から若葉色の新芽が芽吹き始めている。

 見上げた木々の隙間からこぼれてくる、柔らかな陽光が、アンジュを淡く照らしていた。深呼吸すると、涼やかで新鮮な空気と共に、草木の良い香りが胸いっぱいに沁みていく。初めて来たのに、何故かひどく懐かしく、安心できる場所……


 ――()()ジェイドさんに包まれてるみたい……

 ――ここでなら、また歌えるかもしれないわね。子供の頃みたいに……


 久しぶりに心が軽くなった気がした。今夜、彼が帰って来たら話してみようか…… 笑ってくれるだろうか。


 ――いつか、一緒に来たい


 ささやかだが、新しく生まれた希望。だけど、今は束の間の夢……シャボンのようなお伽噺(とぎばなし)に感じる…… そんなシニカルな心境になっていた。



 そんな彼女の予感が当たったのか、数日後に届いた新聞は、『我が国の同盟国、フランス陸軍、ドイツ陸軍と戦闘開始!!』という、彼女が最も見たくなかった、最悪のフレーズで埋まっていた。

 目にした瞬間、堪らない衝動が襲いかかり、アンジュは、反射的に駆け出した。無意識に()()場所に向かって、全力で走る。湖の側に着くなり力が抜け、膝をつき、崩れ落ちた。

 ()()という時は、どろどろした様々な感情がもっと吹き出すと思っていた。が、何も出てこない。今の現状を受け入れられない。信じたくない、何かの間違いであって欲しいという、自己防衛的な逃避だろうか。

 フィリップが配属された部隊はどこか、どの前線に配置されたのは知らない。だが、志願したという以上、少なくとも安全な場所ではないだろう……


「……ラ、ラ……ララ……」


 ようやく、唇から掠れ声で自然にこぼれたのは、()()メロディだった。ロンドンで初めて作った、反戦と鎮魂の想いを込めた、(あか)く可憐な花の歌。歌詞は出なかった。戦場で散り()く情景なんてリアル過ぎて、今は歌いたくない。

 しかし、自身を慰める術がそれしか無いアンジュは、すがるように思い出の楽曲を暫く口ずさんでいた。


 春を迎えたばかりの草原には、黄水仙などの花が、ちらほら咲き始めている。眼前に広がる清涼な湖には、解け残った薄氷が、きらきら、と反射して瞬き、儚くも美しい。大きく割れ目の入った、頼りなげなガラスのような地盤だ。もっと温かくなれば、いずれ溶けて無くなるだろう。

 そんな道でも、先に見えない暗闇でも、ジェラルドと二人なら歩いて行ける。()()という時は……その時も()()だと考えていた。が、片方だけ失うなんて可能性は、考えていなかった。

 ……いや、考えたくなかったのだ。想定しないで前に進む事だけが、危うくも、確かな唯一の拠り所だったから。



 六月に入り、アンジュとジェラルドは、グレアム夫妻にこれまでの礼を深々と述べ、ようやく、彼らの自宅近くにある二人住まいのアパートに引っ越した。不安も数多くあるが、ようやく二人の新しい生活が始められるという、淡い希望が灯る。

 そんな矢先……フランスがドイツに敗北したという重大ニュースが、霹靂(へきれき)の如く、国内を駆け巡った。仏軍は壊滅状態で、事実上、完全降伏という事らしい。容赦ない侵略行為がフランスでも始まり、民間人も危機に曝されるという事になる。

 挙げ句、ドイツの同盟であるイタリアが、この機に本格的に参戦した。つまり、我が国イギリスは、欧州から孤立状態に陥ったという危機的な状況――


 新居となる部屋で一人、荷ほどきと掃除をしていたアンジュは、ラジオから機械的に流れてくる、そんな無情な知らせを聞いた。一瞬、耳を疑ったが、次第に意識が遠退き、よろめく。


 ――……フィリップ? 嘘でしょう?


 連絡先がわからない今、彼の安否を知る手段は無い。もし生きていたとしても、これから始まる侵略行為によって、彼を含む国民も国土もどうなるかわからない。フランスという国全てが、まるごと奪われ、潰されるカウントが……始まったのだ。

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