★始まりと予兆 ~ fragile spring
【※R15程度の性的描写があるのでご注意下さい】
彼の唇がたどった部分に、湿度を帯びた熱い空気と甘痒い刺激が走る。思わぬ展開に狼狽えているアンジュを他所に、彼女が羽織っていた厚手のガウンの腰ひもを解き、ジェラルドはずり落とした。
ネグリジェの胸元の紐とボタンを緩めて引き下げ、露になった首筋から鎖骨付近の素肌の感触を味わうように、唇を這わせ始める。
「……可愛い。本当に……かわいい……」
「や……ダメです。ここは……」
色めいたリップ音が胸元で鳴る度、喜びと困惑の入り交じる心が、更にぎゅっ、と揺さぶられアンジュは慌てた。今いるのは、世話になっている恩人の家の部屋だ。こんな事をして、壁越しに自分の恥ずかしい声が聞こえないか、心配で仕方ない。
「わかってる。今は、しない……が」
行っている当人は、そんな事は承知だ、と言わんばかりにあっさりと返した。
「――そんな声で言われてもな……」
悩まし気な掠れ声で呟き、柔らかな胸までをネグリジェ越しに優しく撫で上げてきた彼は、今の状況と彼女の反応を楽しんでいるようだった。
艶な刺激と、意識を溶かされていく空気に充てられる。『このままでは流されてしまう……』と困ったアンジュは、必死に口元を抑えながら提示した。
「……もう、休み、ましょう…… 手伝います、から」
「君も一緒なら……さすがに疲れた。眠ろう……」
そう言って頬や額に、ゆったりとした優しいキスをし続けてくる彼の口元から、アルコール独特のつん、とした臭いに混じり、葡萄の甘酸っぱい味が伝い流れてくる。この臭いは苦手だったけど、今は嫌ではない。むしろ……素直に酔いしれていくような気がする。
自分達の未来がずっと不安だったアンジュには、こんな他愛ない戯れが『ずっと一緒にいて良い』という、彼や神からの赦しを与えられているようで、泣きたい位に満ちていた。
それに……ずっと感じていたが、彼と唇を重ね合わせるという行為も、自分の身体に指や掌で触れられるのも、少しずつ緊張が解けて、思った以上に心地好くなってきていた。
そればかりか、続けているうちに安心感と共に、不可思議な甘痒い焦燥に駆られてしまう時がある。そんな自身が妙に恥ずかしく、彼にはとても言えずにいたのだ。甘い高鳴りと苦しさと共に、何かをもっと……求めてしまう……
そんな複雑な内情を秘めつつ、ほっ……と少し安心した素振りのアンジュに、不満そうな声が返ってきた。
「……そんなに……安心しなくてもいいだろ……」
少し拗ねたように呟き、ジェラルドは眉をひそめる。今日の彼は、甘えん坊なだだっ子のようだ。この人の、こんな姿を見られるなんて……
泣きたいくらい幸せで、甘やかな時間。なのに、何故かやっぱり……怖い。明日には、全て消えてしまうんじゃないかと怯えてしまう。
幸せであればある程、怖くなってしまう。自分や誰かの言動や出来事がきっかけで、呆気なく壊れてしまうのが恐ろしくて堪らない。
こんな日々が永遠に続くのなら、これ以上何もいらない…… そんな風にさえ、切に願うアンジュだった。
一ヶ月程の時が過ぎた。春の到来が遅い英国にも、ようやく、日中に柔らかな陽の光が射し込み、カーディフ付近のこの町にも小春日和が増える。
新参の若い二人は、新しい生活に慣れる為に奮闘する毎日だった。ジェラルドは例のジャズバーで働き始め、貯蓄を始めた。男女二人で暮らすには、今の彼らに財産はほとんど無い。
その間、彼にとっては生まれて初めて触れる、身分の異なる人々の生活仕様、文化に驚く毎日だった。庶民的……素朴で、飾り気のない質素な暮らし。娯楽らしい娯楽や目新しい刺激は無く、単調な労働と衣食住の営みが、惰性的に過ぎていく。『元坊っちゃんには退屈だろ?』と、酔った客にからかわれることもあった。
「君も、今までこんな風に……暮らしてきたのか?」
昼夜問わず神経を磨り減らす、ビジネスや男女の駆け引きの渦中に無駄に揉まれ、更に冷たい視線を浴びてきた彼にとって、この生活はとても新鮮で、不可思議な事ばかりだった。
理解し難い事もあるが、思ったより居心地は悪くない、と感じる自分に驚く。ピアノに関われているという、恩恵はあるだろうが……
そんな彼の心理が解るようで、今一つ読めないアンジュは、
「やり方は、似てるかもしれないです、けど…… 子供の頃や楽団にいた時とは、私も違います。今が一番穏やかで……温かいです」
そう、精一杯の彼への感謝と好意を込め、告げた。
目まぐるしい日々が過ぎていったが、イギリスとドイツ、イタリアが戦争を始めたなど、何かの間違いだったのではないかと錯覚する位、凡庸で穏やかだった。
だが、町中の空気は、やはり不安定でどこか落ち着かない。水面下では何かが動いているらしい、油断はできない、と住人は話している。海の向こうの国々は、相変わらず容赦ない攻撃や、残虐な侵略行為に遭っているというのに、敵は何を企んでいるのだろう……と不気味な思いを皆、抱いていた。
そんな時、英国には現在『良心的兵役拒否権』というものがあるのを、ジェラルドは客同士の会話と、グレアムからの情報で知った。申請して条件が合い、通れば兵隊として戦地へ行かずに済む、というものらしい。
ただその為には、この町の住人として申請しなければならない。一刻も早く、二人で生活を安定させたい。こちらでの呼び名……偽名は使えないが、ロンドンから脱出して一ヶ月以上経つ今でも、何も起こらない。だいぶほとぼりが冷めたのだろう、と考えていた。
その事を彼から聞いたアンジュは、以前、ロンドンで世話になったクリスが、そんな話をしていたのを思い出し、伝えた。もしかしたら、ジェラルドは戦地に行かなくて済むかもしれない、と、少し安堵する。
ようやく明るい未来が、手の届きそうなところまで来た。そんな淡い希望が見えた、春の始まり――
そんなある朝。グレアム宅に届いた、朝刊を目にしたアンジュは、思わず持っていた洗濯かごを落とした。血の気が引き、痛い程に心臓が縮み上がる。
『我が国、英国海軍とフランス海軍、ドイツ軍と激突‼ ノルウェー海域にて、戦闘開始‼』
かじり付くように手にした新聞には、目にしたくなかった文章が、見出し一面を飾っていた。
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