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戦火のアンジェリーク  作者: 伏水瑚和
Ⅲ.Wales ~ the UK
50/61

★始まりと予兆 ~ honey

【※R15程度の性的描写が登場するのでご注意下さい。】


 同日の夕刻。ジェラルドは、グレアムが常連客として通っているという、ジャズバーに来ていた。昼間はカフェとして営業しているが、夕刻から深夜にかけてはバーになる。雇われのブラスバンドによる演奏が流れる中で、飲酒や軽食を楽しむ店だ。そのピアノ演者担当の面接を受ける事になったのだ。

 この数日間、グレアムと相談した結果、教養はあっても、ここで生かせる仕事は限られているとわかった。不況の今、求人も多くは無い。ジェラルドの特技がピアノと知った彼の計らいで、ここを薦められたのだった。


「……グレアムさんから聞いた時は、貴族出身の坊っちゃんがなんでまた、って思ったよ。ただ、ウチも不況で客足が遠退いててね。大した賃金は出せないけど、本当にいいのかい?」

「勿論です。構いません。有難いです」


 淡々と、だが、しっかりとした口調でジェラルドは決意を述べる。暫くの間は、ピアノを触ることすら出来ないかもしれない、と覚悟していた位だ。夜間の仕事は多少きついだろうが、彼にとっては願っても無いチャンスだった。何としてでも、この仕事を得たい。


「私には、もうあの家の家督継承権はありません。肩書きはただの家名でしかない。ここでは『ジェイド』と呼んで下さい。彼女と共に生きるため、恩人の助けを得て、ここまで逃げて来たのです。どうか宜しくお願いします」


 ジェラルドは、自分よりもかなり年長の店主に向かって、丁寧に頭を下げた。素朴なこの町にはあまりいないタイプの、どこか洒落た雰囲気の漂う、気さくな感じの男だ。


「身分違いの恋、駆け落ちってやつかい? やるねぇ」


 ヒュウッ、と冷やかすような口笛が、軽快に鳴る。


「だけど、あんた(ツラ)も良いが、身なりというか品があるねぇ。何もウチでなくても…… ここじゃ、モーツァルトやショパンは扱ってないよ?」


 からかうような口振りの中に、どこか卑屈めいたニュアンスを混じる店主の言葉に、ジェラルドは、内心少し不遜な思いを(いだ)いた。突然降ってやって来た、素性が危うくはっきりしない新参者の自分。やはり敬遠されているのだろう……


 黙ったまま、店内の小ぶりな木製のピアノの前に立ち、軽快なメロディを鳴らした。そして、静かな前奏から始まり、美しい旋律を奏でる。普遍的であり、同時にジェラルドが愛好する、ショパンの『ノクターン』だ。

 しかし、どこか印象が違う。鍵盤を叩く彼の長い指が、軽やかに踊るように、舞う。叙情的でノスタルジックなこの美しい名曲を、ジェラルドは、華麗なジャズアレンジに変化させ、盛大に弾き流したのだ。

 唖然としている店主に、軽く息を荒げながら、なるべく明るい口調で答えた。


「……ショパンもですが、ジャズも好んでるんです」

「やるじゃねぇか。兄ちゃん。いや、ジェイドさんか。これからよろしく。今晩は早めに閉めるから、歓迎会にしようぜ」


 上機嫌になった彼は、カウンターの奥からグラスを二つ手にし、ワインを勧め始めた。




「……悪い……遅くなった……」


 深夜。日付が変わる間際の刻。ふらついた足取りで、グレアム宅に帰って来たジェラルドを出迎え、支えるように部屋に招いたアンジュは驚き、心配した。仕事を探しに行っているとグレアムから聞いて、起きて待っていたのだ。


「お酒の臭い……大丈夫ですか?」

「白ワインと、ウイスキーを……」

「どうして、こんなに……?」

「……仕事が、決まった。店長が歓迎会だと言った。気の良い人だが、かなりのワイン好きで……酒は弱くはないが、呑み過ぎた……」


 頭痛がするのか額を押さえ、ぼそぼそ、と呟くように説明していたが、珍しく明るい口振りだった。仕事が決まったからなのだろうか。彼の高揚が伝わり、アンジュの心も弾む。


「えっ……おめでとうございます! 何の仕事ですか?」

「ジャズバーのピアノ演者」


 ピアノの仕事だと知り、更に嬉しくなる。自分のせいで彼から大切なものを奪ってしまった事を、密かに気にしていたからだ。


「何だ?」

「いえ、嬉しくて…… 本当に、良かった……」


 頬を緩ませ、安心したように喜ぶ彼女に、ジェラルドも安堵し、更に上機嫌になった。口元がほころび、久しぶりに晴れやかな表情を見せる。

 そんな彼に見惚れながら、アンジュは提案した。自分も何かしたかったのだ。


「今日、奥様と町のご婦人方と一緒に、市場へ行きました。食材を少し買って来たので、明日、胃に優しそうなスープを、作ります……」

「……助かる。頼む」


 そう嬉しそうに呟きながら、フランネル素材の薄ピンクのネグリジェ姿でいる彼女を抱きしめた。肩に顔を埋め、頬を擦り付ける。


「……やっぱり落ち着く……日向(ひなた)の匂いがする」

「ひ、日向、ですか……?」


 確かに、昼間は皆で市場へ買い物に出たが、シャワーは浴び、身体も拭いた直後だ。意図がわからず、アンジュは困惑する。


「ああ。陽をたっぷり浴びた、野花のような香り、がする……」

「……ジェイド、さん?」

「初めて触れた時、蜂蜜のような香りがした…… ああ……そういや髪もハニーブロンドだな……」


 独り言のようにぼんやりと呟きながら、ジェラルドは彼女の髪をまとめたリボンをほどき、はらり、とこぼれ落ちた髪を一房(ひとふさ)、指に取り、かぷり、と(くわ)えた。


「……⁉」


 酔っている彼に負けない位、アンジュは真っ赤になった。借りている部屋に二人きりでいるからか、酒が入ったからか……ジェラルドはいつになく大胆で、素直に喋っている。『もっと聞いていたい』とも思ったが、恥ずかしさで参ってしまいそうだった。


「そ、んな……ジェイドさんこそ……木の、香りがします」

「……木? ああ、付けてる香水(トワレ)がウッド系だから……」

「それ、だけじゃなくて……草原のような香りがするんです。干し草みたいな……何だか懐かしくて好き、なんです」

「……誘ってるのか? シスリー」


 にや、と口角を少し上げ、悪戯を思いついた子供のような笑みを、ジェラルドは浮かべた。


「えっ……?」

「酔っ払った男……そうだ、俺以外には……絶対に、そんな口説き文句を言うな。何を、されるか……わからない……」

「口説、き、なんかじゃ……」


 真っ赤になって狼狽(うろた)えるアンジュを(とが)めながらも、彼は嬉しそうに頬を緩ませ、彼女の耳たぶから柔らかな頬にかけて、唇を押し当ててきた。

【閲覧ありがとうございました。いいねや一言でも良いので、ご感想を頂けると嬉しいです】

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