海からの遣い ~ friends
それに、初めて名前を褒められたからだ。今まで出会った人には、一度も褒められた事がなかった。それに孤児という部分に、一切触れて来ない。何故、この人はこんなに優しいのだろう……と不思議だった。
「ありがとう…… でも、どうして? そんなこと、初めて言われたわ」
「僕の国の言葉で、『天使のような』とか『神の使い』って意味だよ。素敵じゃないか。それに『アンジェ』っていう街もあるんだ」
――そう、なんだ……
アンジュの冷えた胸の奥が、少しだけ温まる。『父親のくせに、お前を置いて逃げたんだ』『だらしなくて、兄だけどろくでもない男だったよ』と、院長からずっと聞かされていて、そんな親に悲しみや恨みを感じた時もあった。
けど、そんな素敵な名前をつけてくれたのだと、少し救われたような気がする。そして、そんな良いことを教えてくれた彼に対して、感謝の気持ちでいっぱいになった。
「ありがとう…… あの、貴方はオーストラリア人じゃないの?」
「僕は、フランス人。たまたま休暇でこっちに来てる。父の別荘があるんだ。今日はサーフィンしに来たんだけど、まさか木の上に女の子がいるなんてね。初めは、蜂蜜色のコアラかと思ったよ」
そう朗らかに言うなり、けらけら、とフィリップは再び笑い始めた。
――笑われてるのに……ちっとも、嫌じゃない
今まで、馬鹿にしたように笑われることはあったけど、こんなに優しく笑ってくれる人はいなかった。
――この人こそ……天使だわ
アンジュは思った。神様が遣わせてくれたのだと……
「フィリップ‼」
快活なハイトーンが辺りに響いた。フィリップと同じ白いサーフボードを手にした、薔薇色のワンピースを着た同年代の少女が、こちらに向かって颯爽と歩いて来る。栗色のサラサラした長い髪をなびかせ、満面の笑顔で手を振っている。
「エレン‼」
フィリップも笑顔で叫んだ。二人の近くまで来た、エレンと呼ばれた少女は、アンジュの姿を見て、少し驚いた顔をした。キャラメル色の大きな瞳が揺らいだが、すぐに明るい笑みに変わる。
「何よ。ナンパしてたの?」
エレンは、からかうように彼の肩を小突いた。そんな彼女に、フィリップは「違うよ」と、照れながら弁解している。
親密そうな二人の様子を見ていたアンジュは、胸の奥が、ちくり、と少し痛むのを感じたが、その理由は、この時はまだ分からなかった。
「紹介してよ。 私、エレン・ハミルトン。フィリップとは幼なじみなの」
心なしか、少し勝ち誇ったように微笑みながら、手を差し出してきた彼女が少し気になったが、アンジュもおずおずと手を差し出し、はにかみながら握手した。
「アンジェリーク……アンジュです。孤児だから、姓は、無いの。よろしくお願いします」
二人ともアンジュと同じ年頃らしかったが、なぜか敬語を使ってしまっていた。しかし、エレンはそのことには触れず、「孤児……?」と栗色の長い睫毛を、ぱちぱち、と瞬かせながら、怪訝そうに、小さく呟いた。
一方、アンジュは、彼女が着ているフリルが綺麗なワンピースが、とても眩しくて見とれていた。こんなに素敵な服は、今まで見たことがなかった。お金持ちのお嬢様なのだろうか。そういえば、フィリップもどことなく品の良さが滲み出ている。
自分が着ている、着古して色褪せた薄いグレーのワンピースが、急に恥ずかしくなってきた。なぜだか、彼の前だと余計にそう思ってしまう。そんな初めて感じる種類の気持ちに戸惑う。
「僕ら、これから一緒にサーフィンするんだけど、君もどう?」
そんな彼女の複雑な思いを知ることもなく、フィリップは屈託のない笑顔で言った。既に、エレンはワンピースを脱ぎ始めている。下にウェットスーツを着ていたらしい。これも、綺麗な真紅のスーツだった。
「えっ……ごめんなさい。サーフィンはちょっと……」
アンジュはまごついた。苦手なサーフィン。おまけに嫌な思い出もある。
「そっか。残念だなぁ」
フィリップは特に気分を害した様子もなく、ボードの手入れを始めた。
「じゃあ、見ていきなよ。結構、自信あるんだ」
そう勧め、にかっ、と笑う。すると、すかさず「え、貴女……できないの?」と、少し呆れたようにエレンが追求した。途端に小さくなるアンジュ。
「いいじゃないか、エレン。見てるだけでも楽しいだろ?」
明るくフォローするフィリップに救われ、少し躊躇ったが、彼の言葉に甘えることにした。誘ってくれたのも、庇ってくれたのも嬉しく、ふわっ、と今日初めてのささやかな笑みが浮かぶ。
そんな二人の様子に、エレンは大きな眼を更に見開き、少し面白くなさそうな顔をしたが、すぐに海へ繰り出して行った。
そんな彼女の様子が少し気になったが、この時のアンジュは、初めて『友達』と呼べるかもしれない人に出会えた喜びでいっぱいで、さほど気にとめなかった。
見慣れた空、聞き慣れた波音。いつもの海辺の風景。しかし、普段よりもずっと、生き生きしているように見える。
誰かと一緒に過ごすというだけで、こんなに世界が違って見えるものだなんて。あんなに嫌だったサーフィンの苦い思い出も、たちまち素敵な思い出に塗り替えられていく……
あまりに楽しくて、嬉しくて、これからこの二人のことで、悲しい出来事が起こるなんて、アンジュは思ってもいなかった。
人と関わることで生まれる、悲しみも、苦しみも、この時は何も知らなかった幼い彼女を、夏の強い陽射しが、じりじり、と照りつけていた。
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