断崖の死角へ ~ The Moonlight Sonata
ワイン色のウールカーディガンに白いブラウス、ロングスカート、編み上げのロングブーツ、小ぶりの洒落た帽子に手袋、女性用のボストンバッグ…… 下着はさすがになかったが、綿のルームワンピースやネグリジェまである。
シンプルなデザインの物ばかりだが、どれも質の良さそうな品だ。困惑したアンジュは問いかける。
「あの……これは……?」
「悪いが、君の私物を取りに行く時間が無い。母の衣装部屋から合いそうなのをいくつか選んで来たから、とりあえず、これで我慢してくれ」
「そんな……‼ 勝手に持って行ったらダメですよ‼」
いくら何でも盗みはいけないと、アンジュは慌てて咎めた。しかも、公爵夫人……彼の母親は、幸い自分と同じ小柄であるが、グラマラスな体型だ。サイズが合うとはとても思えなかった。そんな彼女の複雑な心境を見透かしたように、口元を僅かに歪め、ジェラルドは苦笑した。
「……こんなもの、あの女は腐るほど持ってる。着られなくなった物まで無駄に保管してるから、そこから頂戴した。気にしなくていい」
サイズ等の不具合があれば言えと言われ、隣接したジェラルドの寝室で、アンジュは着替え始めた。彼の香りがほのかに漂う寝室で、乱れていた下着を整え、胸元に付けられた忌まわしい痣を、その人の母親の服で隠すように袖を通す。妙に気恥ずかしく落ち着かない気分だ。やはり、服は大きめだったが、なんとか着られそうだった。
その間、ジェラルドは書斎で自分の荷造りをする。最低限の衣類に日用品、万年筆などの筆記具、今持てる範囲の貴金属などの品、愛読している数冊の本をトランクケースに詰め込む。そして、楽譜を手に取った。御守りのようなものだ。
ここを出たら暫くは、ピアノに触ることは無いかもしれない。今まで自分を支えてきた物達との別れでもあった。しかし、ピアノや薔薇と同等……いや、それ以上に大切な人がいる今は、その命を助け、今度は自分が支えたい――
楽譜を大切にファイリングし、トランクの一番上に閉まった。そして、半ば置き棄てるかのように、以前したためた『決意表明』を、デスク上に放つ。
「こっちは整った。もう、いいか?」
「……は、はい」
書斎のドアから、恐る恐る入ってきたアンジュの姿に、ジェラルドは瞳孔を見開いた。……似合っていたのだ。予想以上に。そこには、清楚で可憐な中に、柔らかな品のある淑女がいた。身分や育ちなど関係無い位に……ただ、綺麗だった。
「あの、やっぱり変じゃないですか……? こんな素敵なお洋服……私には……」
固まって黙り込んでしまった彼に、アンジュは不安そうに問う。
「……ジェラルド、さん?」
「あ、いや…… 大丈夫じゃ、ないか……?」
複雑そうに茶を濁し、不自然に視線を泳がせる彼が可笑しく……何故か抱きしめたくなった。
玄関や邸宅付近は、衛兵が番をしている。客人が帰り、自分達がいなくなった事がバレる前……今夜の晩餐会が終わるまでに、彼らの死角になる、三階の部屋の窓から抜け出すという計画だ。
ベッドシーツをいくつも使って、急いで布梯子を作り、先にトランク等の荷物をくくりつけ、慎重に窓から落下させた。次は自分達の番だ。先にジェラルドが用心深く降りる。
「怖いだろうが、なんとか降りてくれ」
「大丈夫です」
地上の真下から、怪訝な表情をして自分を見上げている彼に、少し言い淀みながらアンジュは答えた。
「……子供の頃、大きな椰子の木を、登り降りしてましたから」
一瞬の沈黙の後、ジェラルドが俯き、口元を覆っているのが見えた。押し殺したような吐息と共に、いつか聞いた、くっくっ、という燻るような音色が静かに響く。久しぶりに聞く彼らしい笑い声に、アンジュの胸に明かりが灯った。
「……それはまた、頼もしいな」
邸宅からは楽曲の音色がまだ漏れている。どうやらアンコールに入ったらしく、歓声と拍手が響き渡った。
「時間が無い。行くぞ……一先ず、駅まで」
視線を外したジェラルドは、黙って、左手を差し出した。暮明の中でも、彼の頬がうっすらと赤らんでいるのがわかった。意図を察したアンジュは、甘い喜びに震えながら、おずおずと自分の右手を重ねる。骨ばった長い指が、そんな彼女の手をぐっ、と握った瞬間、彼は小走りに駆け出した。
人目につかないよう、街灯の少ない道をひたすら突き進んで行く。視界の灯りが消えてゆくと、次第に宵闇に染まっていった。冬の長い夜更けのロンドンの街には、濃い霧が漂っている為、辺り一面が朧気で心許ない。目を凝らさないと、周りの様子すら見えない。
――夜の海底を泳いでいるみたい……
オーストラリアの深夜の海でも、仄かな月明かりや星の瞬きが、導くように照らしてくれていたのを思い出す。が、今は暗闇しかない。これからだって、先の見えない洞窟を手探りで進んで行くような、無謀な賭けだ。今起こっていることが現実なのか、夢なのか…… 意識すら、ぼんやりと曖昧に揺れる。
ただ、繋がれた左手の内側に感じる、ほのかな温もりと自分以外の肌の感触だけは、はっきりとリアルに感じていた。手の甲は冷えて感覚が無いのに、掌と指先は、手袋越しでも温かな血が通っているのがわかる。
――どうか、この温もりだけは、奪わないでほしい。恐ろしいものから守りたい。見つからないで済むのなら、闇の中でもいいから、この霧に紛れて隠れていたい……
オーストラリアから旅立つ日、身震いする位に怖かったのを思い出す。たった一人きりで、異空間に放り出されるような……そんな挫けそうな動かない心を奮い立たせてくれたのは、フィリップとの約束だった。夢を叶えるために未知の世界へ踏み出すという、先を見た希望。
今は、どうだろうか。その約束を果たすチャンスを、一つ失う。それどころか、これからどうなるのか、まるで予想できない。何処に行くのか、どうやって生きていくのか……いや、生き延びていけるかさえ、危ういのだ。
不安で、怖くて堪らない。少しでも気を緩めると足がすくんで、その場に崩れ落ちそうな眩暈が襲う。しかし、同時に未知の高揚感も抱いていた。断崖絶壁を歩いているも同然なのに――心が通じ合えた大切な彼が、共にいる。それだけで、以前には感じなかった温かな感覚が、アンジュの胸奥を漂い、占めていた。
はち切れんばかりの恐怖と不安を、天からの光明のような満ち足りた幸福感が包んでいる。そこには何の根拠も保証も無いのに、そんな矛盾した不可思議な確信が存在しているのだ。今、自分の手を握っている、この人の為なら何でもできる。この人といられるなら頑張っていける――という熱い想いが、彼女の中にあった。
新たな産声をあげたばかりのアンジェリークは、自身を飲み込む闇の世界を、拙いながらも飛ぶように泳ぎ、駆けている。
再び歌えること、生き抜いていけることを、神に願いながら。
【閲覧ありがとうございました。ロンドン編は終わりです。よろしければ次章も読んで頂けると嬉しいです。】




