海からの遣い ~ girl meets boy
夏のある日の事。いつものように例の海辺の木の上で、つかの間の休息の時間をアンジュは過ごしていた。
しかし、今日は、なかなか元気が出ない。いつもなら、歌うだけで気分が明るくなるのだが、先程、院の子供の一人が、優しそうな夫婦に養女として引き取られて行ったのを見送ったばかりだった。
更に、昨日、叔母である院長が、彼女の養子縁組話をまた断っているのを聞いてしまったのである。馬車に乗り、頭を撫でられながら嬉しそうに笑っていた、あの子の姿が目にずっと焼き付いている。
「『幸せな家』、『愛される』って、どんななんだろう……」
ぽつり、と呟く。こういう光景を見たのは初めてではない。十年間、何度も同じ表情をしながら、院を出て行った子を見てきた。その度に、いつか自分も…… と期待を膨らませながら、その時を待っていたが、一向に訪れる気配はない。むしろ、せっかくのチャンスを、院長が全て潰してしまっている。
「どうして、私だけ……?」
普段、なるべく考えないようにしている思いが、ぽろり、と零れる。叔母は、自分を養女としては迎えてくれない事は、物心ついた頃から知っていた。
孤児院を出なければならない年齢まで、ずっと一人で小間使いとして過ごすのかと思うと、目の前が真っ暗になる。その日は休むことなく近づいている。それに、年齢が高くなる程、養女として引き取られる可能性は低くなるのだ。自分の淡い夢は、叶わない……
はあぁ……と、アンジュは、また大きなため息をついた。今度は、お腹から、深く、思い切り。
「今日はため息の日ね。モヤモヤした怪物がお腹に住んでるみたい」
そう言って、自分のお腹をさする。得体の知れない怪物と向き合っているうち、歌詞とメロディが次第に浮かんだ。
『怪物さん。ご機嫌いかが?
悪いみたいね。たくさんのため息ばかり。
はぁー……はぁー……
あなたは火を吹く怪獣なの?
でも、あなたが悲しいと、私も悲しいわ。
『親友』っていうのかしら?
けど、あなたが嬉しい時、私はあなたのこと忘れてるの……』
そんな歌はなかった。やけっぱちになったアンジュが、感情に任せて適当に作ったものだ。そこまで歌った時――
「……ふ、ははっ」
下の方から、軽やかな笑い声が聞こえた。驚いて、思わず下を見る。同じ年頃の少年が、陽に反射して細やかに瞬く、プラチナブロンドの髪を揺らしながら、くくくっ、と必死に笑いを堪えていた。
――今の、聞かれた……‼
一気に顔が熱くなるのがわかった。それはもう火が出るんじゃないかと思う位。すぐにでも逃げ出したかったが、木の上にいる身ではどうすることもできない。慌てふためいているアンジュに、
「……ごめん! 勝手に聴いたりして。そんなところで何してるの?」
ようやく笑いが止まったらしい金髪の少年が、明るく声をかける。
「……歌を、歌ってたの」
緊張と焦りで渇いた口を開き、アンジュは言葉を絞り出した。
「何で、また?」
「……木の上で歌うのが、好きだから」
「へぇっ……‼ それはいいなぁっ!」
ポップコーンが弾けたように、ははっ……と、少年は軽快に笑い出す。陽気で気持ちのいい笑い声が、辺り一面に響き渡った。
アンジュは物凄く緊張していた。同じ年頃の子とこんなに話すのは、かなり久しぶりだったからだ。
――変に思われなかったかな
不安で少し青ざめている彼女に、その少年は、屈託の無い笑顔で続ける。
「ねぇ、降りておいでよ。友達も一緒に来てるんだ」
手を振りながら手招きする少年。思いもよらない誘いだった。たちまち、胸の中が嬉しさでいっぱいになる。
しかし、一方で、こういう状況に慣れてないので、不安や怖さもあった。でも、せっかくのお誘いだと、アンジュはありったけの勇気を振り絞り、固まった喉を、目一杯開き、空気を吸い込んだ。
「ありがとう。今、行くわ……!」
微かに震えた声だったが、真下にいる少年に届くよう、精一杯の言葉を放ち、木を降り始めた。慣れた動作で軽々と着地し、彼と初めて近くで向き合う状態になったアンジュは驚いた。
さらさら、と絹糸のように靡く、プラチナブロンドの短髪に、少し日焼けした小麦色の健康的な肌。くりっとした硝子玉のような眼は、晴天の空のようなスカイブルーだ。背はアンジュより十センチ以上はあるだろう。
サーフィンをするのか、白いサーフボードを抱えていて、群青色のウェットスーツが良く似合っていた。今まで、こんなに綺麗な男の子を見たことがなかったアンジュは、思わず見とれてしまっていた。
「どうかした?」
少年が心配そうに尋ねる。慌てて、言葉を口から出した。
「ううん、何でもない。声をかけてくれて……ありがとう。えっと、あの……」
「フィリップ。フィリップ・ベルモント。よろしく‼」
そう自己紹介しながら、爽やかな笑顔を見せ、日焼けした大きな手を差し出して来た。皹で荒れた白い掌を、アンジュも怖怖と重ね合わせる。
「アンジェリーク……アンジュよ。孤児だから、姓は無いの……よろしく」
一瞬、躊躇したが、なんとか自己紹介した。すると、少年……フィリップは、しっかりと握手し、陽光のような笑顔で返す。
「アンジェリーク、か。いい名前だね」
隙間から見えた整った白い歯が、真珠みたいに綺麗……と、アンジュはまた吃驚した。
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