断崖の死角へ ~ escape
ホテル前に停めていた馬車に素早く乗り込み、屋敷に戻る間、事の経緯をジェラルドは話した。微かに震えているアンジュの身体をコートごと抱きながら、クリスの事、居場所を見つけた方法、公爵の名前を出してオーナーを問い詰めた事などを、なるべく簡潔に説明する。
相槌を打ちながらも、始終、どこか魂の抜けたようなアンジュの様子が、ジェラルドは恐ろしかった。今までの彼女でなくなっていたらどうしたら良いのか、何と償えば良いのかと、様々な罪悪感が押し寄せている。
邸宅に到着すると、なるべく自然を装いながら玄関からそっと廊下を通り抜け、螺旋階段を上がり、ジェラルドは自室に入る。開口一番、アンジュは彼に頭を下げ、静かに礼を述べた。
「……あの、ありがとうございました。ご迷惑おかけしてしまって……」
「君が謝ることじゃないだろ」
ぴしゃり、とした物言いの中に、どこか哀しみの色を交えた彼の眼差しに、アンジュは戸惑う。
「大方、逆らえば、俺の秘密を世間にばらすとでも言われて、脅されたんだろうが……」
「……‼」
重く、暗い声色ではっきり言い当てられ、アンジュは更に口ごもった。全て覚られている。責任を感じて欲しくなかったが、誤魔化したり、言い逃れられる雰囲気は無い。
「……そ、それだけじゃ、ありません。楽団に契約の圧力をかけたそうですし、それに……」
「何だ?」
「……歌える場所を無くすのは、嫌だったから。友達との約束を……守れなく、なってしまいます」
「……‼ 君がこんな目に遭ってまで成功する事を、そいつは望んでるのか⁉」
これが彼女の本音だと思ったジェラルドは、思わず声を荒げる。
「……‼」
はっ、とアンジュの中で何かが醒めた。脳裏にフィリップの笑顔が過る。そんな彼女の様子を見て、ジェラルドの胸奥に焼けるような痛みが、ちりちり、と走る。この話題は出来るだけしたくなかったが、好いた女が理不尽に利用され、あんな奴の餌食にされるのは、もっと耐えられない。
詳しい事情は知らないが、自分との約束の為に彼女を危険に晒せる男なら、絶対に許さないと思った。だが……
「そこまでしてでも楽団で歌いたいなら、俺に止める権利は無い。アイツに詫びて、同じ事を続けたら元通りに収まるだろう…… むしろ、余計な世話だったなら悪かった……俺が、交渉する」
我に返り、自嘲気味にジェラルドは詫びた。彼女の危機だと奔走したが、反って横槍を入れたのではないか……
「そ、んなこと、ありません……! とても怖かったし、嫌だったです、から…… 貴方が来てくれて、また、会えて……嬉しかった……」
まだ震えが止まらない身体を両手で抑え、彼の悲しげな顔を見つめ、訴え続ける。
「……歌は歌いたい、です。でも、今みたいな仕事が、いつまで続くかわからないのは……辛い、です。それに……」
あの男に頭を下げ、また同じような事をされ続ける…… しかも、この人への当て付けで、だ。しかし、続きの言葉を慌てて呑み込み、俯く。これ以上、変に気負ってほしくない。
「何だ?」
「いえ……」
少し訝しげな思いに駆られたが、今後の彼女が心配で堪らない。
「……君にとって、ますます悪い状況になっているのは確かだろう…… 楽団から離れた方が良いと、俺は思うが……」
「ですが、あの人が圧力をかけたら、クリスさんや、団員の皆さんに迷惑が……」
「彼女は大丈夫だろう。……こんな仕打ちをする組織に、まだ義理立てするのか?」
自虐的なのか真性のお人好しなのか……ジェラルドには理解出来なかった。
「どうしたらいいか……わかりません。買われた身ですが、少なからず恩も……あるのです」
複雑な想いを抱きながら、哀しげにアンジュは呟いた。
「……団長は、どうするかな。君を守ってくれるか、アイツに屈服するか……」
「……」
混乱している彼女に整理して考えてもらいたく、ジェラルドは提示する。
「ここまでする位の状況だ。ウチとの契約の為に君を売り続けるか、逆らうならクビにしそうだな。で、何れにしろ、君はアイツの専属になる」
「……あの人も、そう言ってました」
逃げ場も突破口も無い。どこまでも自分は無力だと、アンジュは愕然とした。せめてチャンスを生かしたい、独り立ちできるように歌を磨きたい、と頑張ってきたけれど、まだまだ足りない。
理不尽なものに刃向かう力も知識も無い、弱い人間だと思っていたけれど、巨大な組織から見たら、本当にちっぽけな存在なのだと自嘲した。
「……俺は、今夜、ロンドンを発つ事にした」
「えっ⁉」
突然のジェラルドの決断に驚愕し、彼を凝視する。
「一緒に……来ないか? いや……来て、欲しい」
「……⁉」
初めて見る、熱く真っ直ぐな眼差しの彼に、心を射抜かれる。
「スコットさんに、ウェールズ地方に住む友人を紹介してもらった。近いうち、ロンドンにも空襲が来るだろう。避難した方が身の為だ。公爵と話をつけてからと迷っていたが、アイツのおかげで腹が決まった」
「スコットさんが……⁉」
花盛りの庭園の中、穏やかな笑みに哀しみを秘めた庭師の姿が、アンジュの脳裏に浮かぶ。彼の思惑が気になったが、ずっと早口で話し、急いている様子のジェラルドに問う余裕はなかった。
「遺産分与は放棄する事になるから、仕事を見つけても貧乏暮らしだろうが」
「ジェラルド、さん……」
自棄気味に吐き捨てる反面、どこか挑戦的な笑みを、彼は浮かべている。
「別に、俺とどうこうなれ、という訳ではないからな。君が生活をやり直す手助けさえ出来ればいいと考えてる。せめてもの……詫びだ。有名な楽団の歌手という肩書きは捨てるが……手を切るには、良い機会じゃないか……?」
念のため手切れ金を公爵に用意した事は、ジェラルドは敢えて言わなかった。個人的な想い故に、彼女の負い目になるのは避けたい……
一方、アンジュは、彼と自分との間に思い違いを感じたが、彼の誠意と申し出はありがたいと思った。不安、迷い、喜び――様々な思いと考えが、脳裏を駆け巡る。今までの様々な出来事、出会い、言葉……
『……何を一番、望んでいるのか。心の声を、よく聞いて』
今の状況、近い未来で、一番大切にしたいのは……
「……行きます。一緒に」
憂いたマリンブルーの瞳の中に、信頼の灯りが垣間見る。疑いの余地などなかった。そんなアンジュの眼差しに、ジェラルドは安堵と高鳴る歓喜を、心の内にひた隠した。
ふと、彼女の出で立ちを見る。今着ているコートとランジェリー、手持ちのフォーマルドレスでは、長い旅路には冷えるし、人目につくだろう……
少し待つよう言い、部屋から出て行った彼は、暫くすると、数着の女物の衣類を両腕に抱え、足早に戻って来た。
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