★カナリアは何故鳴くか ~ Into the Green
【※R15程度の性表現が登場するのでご注意下さい】
予想外の邪魔が入り、忌々しそうに舌打ちしたロベルトは、のそり、と身体を起こした。ベッドから離れ、気だるげにドアの近くへ向かう。
「……何だ。誰も来るなと言ったはずだろう」
苛立ちと少しの焦りを含みながら、扉の向こうの人物を脅すように凄んだ。
「お父上の公爵様から、御電話が参りました。至急、連絡を取りたいそうです」
変わらず、落ち着きの中に震えを混じる呼び主に向かい、面倒そうにロベルトはため息を吐く。
「……仕方ないな。今、行く」
恐らく、今夜の晩餐会の主催者である父親には、居場所を伝えていたのだろう。公爵の名前を出された途端、彼は狼狽えた。ドアロックを解除し、ノブに手をかける。
瞬間。バタン‼ と勢いよく扉が開き、ホテルマンの男を後ろから押し退けるように、別の黒い影が室内に飛び込んで来た。ブルネットの髪を振り乱し、全身から殺気を放つ青年。
荒々しく肩を揺らしながら呼吸している、ジェラルドだった。まだ三月という初春に入ったばかりの、冷え込む深夜にも拘らず、額に汗を滲ませ、コート無しの乱雑な出で立ちで、威嚇するように睨み付けている。
その姿を見た信じられない、と言った表情のロベルトを余所に、ぐるり、とランプの灯りしか無い、薄暗い室内を見回した彼の思考は、絶望的な闇に突き落とされた。
口元を布地のような物で縛られ、はだけた胸元をシーツで隠し、着崩れた胸当てとシュミーズ一枚でベッドから起き上がったアンジュが、視界に飛び込んできたのだ。幻でも見たような呆然とした面持ちで、暗い陰を落とした虚ろな瞳を、こちらに向けている。ずっと恐れていた、決して起こって欲しくなかった事態に中る、地獄の光景だった。
「…………‼」
ジェラルドの脳内で、バチン、と火花が凄まじく鳴り散った。一瞬、激しい眩暈が襲ったが、カッ、とペリドットの瞳孔が開き、ぎりぎりっ、と奥歯を噛みしめた。爪が食い込むほどの力が、右手に入る。
刹那、錯乱状態のロベルトが突風のように立ちふさがってきたが、その握り拳で彼の頬を全力で殴り飛ばした。ミシッ、という骨がきしむ音と共に、彼の身体は勢いよく跳ね飛び、ガタガタ、ガターン!!、という轟音と共に、床に転がる。
「……っ⁉ おっ前、何、でここに……⁉」
口元に滲んだ血を拭いながら、ロベルトが、驚愕と怒りの混ざった声色で、狂ったように叫ぶ。
シャープな眉が更に吊り上がり、歯を剥き出しにした、狼のように獰猛な様に変貌した、弟に襲いかかる。胸ぐらを掴み、殴り返そうと拳を振り上げた。
そんな兄に対し、ジェラルドはいつかと同じく、めらめら燃える黄緑の眼光を、アイスピックの如く彼に向かって突き刺す。近くに立て掛けてあった、アンジュが持参していた女性用の傘を素早く掴み取り、殴られる寸前で打ち止めた。
その流れで、ロベルトの胴体に棒術のように突きを入れ、仕上げに長い右脚で急所を蹴り上げる。貴族の人間が、暴漢に襲われた時の為に嗜んでいる、護身術を応用したのだった。
床に転がったまま、微かなうめき声を漏らし、動かない兄を射るように一瞥し、アンジュの元へ向かって、身体を翻す。
血の滲む傷ついた右手で、衣装掛けからカフェオレ色の女性用コートを素早く引き掴み、自分の黒いコートと、ベッドの側に落ちていたローズピンクのフォーマルドレスを左手で拾い上げた。そんな自分の様子を、壊れたマリオネットのように見つめる彼女を見やった。
二人きりの演奏会……初めて口付けを交わした夜以来の再会。ハア……ハアッ……と呼吸を荒げながら、ゆらり、と近づき、昂る感情をなるべく鎮め、問いかける。
「……立てるか? 怪我は?」
恐怖と驚きで麻痺したアンジュの心に、痛い位に懐かしい、静かな低音の重い旋律が、切に響く。今、一番聞きたくて、聞きたくない音色。
信じられない、信じたくない思いで、自分を見つめてくる漆黒の長い影を仰いだ。夜更けの暗がりの中、外の灯りの逆光で表情はよく見えない。黒々とした影が放つ、荒い呼吸音と周りを斬りつけるような殺気。汗混じりの微かなウッディ調の香りに、二種のペリドットの鮮烈な瞬き……
初めて会った夜。闇夜に光る、妖艶な悪魔の眼差しのようだと感じた瞳の色が、今のアンジュには、切ない位に……眩し過ぎた。尊い陽の光に透ける、新緑の若葉のように映ったのだ。
――どうして、こんなに必死で、一生懸命になってくれるんだろう……
どこか他人事のように、ぼんやりしたアンジュの青白く浮かぶ首筋や胸元に、薄紅の小さな痣のようなものが、乱れた髪やシーツの隙間から、幾つか隠れ見える。それらが、ぐさぐさ、とジェラルドの心に飛び刺さり、激痛と共に、眩暈が再び彼を襲った。
今にも狂う位の怒りと罪悪感で打ちのめされ、ペリドットとダークグリーンに代わる代わる煌めく瞳。そんな彼の姿が、アンジュにはひどく痛々しく、泣き出しそうに見えた。鋭くも儚い光に吸い寄せられるように、震えながらも躊躇いがちに、細い片腕を差し出す。
その掌を握り、手にした女性用コートで、ジェラルドは微かにびくつくアンジュの身体を包む。不安そうに茫然と見つめてくる、宵の海の瞳に閃光を注ぐように、しっかりとした口調で、言った。
「逃げるぞ」
何も考えられなくなっていたアンジュには、その一言と若葉色の光が、天からの救いのように思えた。首部を上下に不器用に動かし、頷く。しかし、ずっと無抵抗のままだった身体には、力が全然入らない。立ち上がろうとしたが、ふらり、とよろめいた。
そんな様子を見たジェラルドは、一瞬、つらそうに顔を歪めたが、コートごとくるむように、彼女の身体を両腕で抱き上げた。懐かしい顔が互いの間近に迫る。
――あの人、だわ
ずっと動かなかったアンジュの心の泉が、ようやく二つの宵闇の海を波打たせ……動かした。汗で濡れた絹のワイシャツが貼り付く、彼の固い胸元に、そっ……と、額を預ける。
そんな彼女と、衣類や傘をしっかりと抱き抱え、未だ困惑しているホテルマンを他所にし、ジェラルドはその場から走り去った。
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