追復する心 ~ first and last
「たまに思うの。あの時、全てを捨ててあの人と生きていたら、今頃どうなっていたんだろうって」
当時の自身に思いを馳せているのか、そこにいない誰かを見つめるような、哀しく遠い眼差しになった。そんな姿さえも、アンジュには美しく映り、魅せられる。
「歌は、声と実力さえあれば、どこでも歌えるわ。場所や仕事は限られてしまうけど……」
切なげな雰囲気を振り切るように改まり、クリスは、しっかりとした口調で、一言、一言をアンジュに語り、送る。昔の自分の面影に重ね、説いているのだろうか。
「心の声を、よく聞いて。自分が、本当に一番望んでいるものは何か。何故、歌いたいのか。心の奥底まで、よく耳を傾けて。後悔だけはしないように」
彼女の誠意に溢れた心のこもった助言が、今のアンジュには有難く、嬉しく思った。しかし、ずっと自分と向き合う事をしていなかった自身にとって、心の声というのは、あまりに頼りなく、か細く、不明確な存在だ。
ただ、昔から、自身の奥底の何かが、乞うように叫んでいる事だけは、痛い程に、判っていた。
一方、スコットの想いに背中を押されたジェラルドは、自室のデスクで万年筆をとり、戸籍上の父親に向け、一人で手紙を書いていた。
出来るならアンジュと話をしてからにしたかったが、今の時世、いつ何が、自分の身に降り掛かるかわからない。これは、現在の自身の決意表明であり……嘆願書だ。慣れ親しんだはずの自室の空間が、不気味な位の静寂に包まれる。
『拝啓 父上様。もといグラッドストーン公爵様方。
急な申し出ではございますが、単刀直入に申し上げます。私を排嫡して下さい。
私は、次男でございますし、家督や爵位の継承権はありませんので、昨今の時世から見るに、いつ徴兵されるかわからない身でございます。世間には『息子は、国の為に志願兵になった』とでも言えばよろしいでしょう。
私は、元々、我が家にとって足枷である身でした。いつ世間から『災いをもたらした悪魔』と呼ばれるかわからない存在がいなくなれば、貴殿方にも好都合でございましょう。
思ってみれば、私は、とうに成人している身です。荊の道のりなのは、重々承知ですが、こちらに居ても、私にとっては地獄なのに変わりはございません。
私の分の財産は、恐らく催促があるワグネル楽団への寄付金、歌い手であるアンジェリークとの手切れ金にして下さい。悪しからず。
ジェラルド・グラッドストーンより』
彼らしい皮肉を盛大に込めた、別離の手紙だった。
「生まれて初めて親に書いた手紙が、これとはな……」
口元を僅かに歪め、ジェラルドは苦笑した。そんな運命を再び呪い、囚われるのは簡単だが、今の自分にはうんざりに思えた。今まで散々、恨み、嘆き、捨て鉢に生きてきたのだ。
椅子に背もたれ、上を向き、刹那的な鋭い光を帯びた瞳で、天井を見つめる。もし、我が人生に、過去を振り切る時が与えられるのなら、それは今だろう。
きっかけをくれたのが……彼女だ。あの娘のように、僅かでも……希望がある限り、恐れても必死に追いかけ、未来を見据えながら生きたい。もしも明日、この地に終焉が訪れるのなら、その時まで、彼女といたい。それが叶わぬなら、せめて彼女の為に生きたい。
どうせ地獄の道を歩くなら、彼女がくれた光の種火を燃やし、ずっと纏っていた鎧諸とも、その陽のフレアで魔も邪も、全て払いのけ、我が身尽くしてでも進んでやる――
その月の最後の晩餐会。年を越してから、公爵家は、パーティーの回数を必要最低限に減らしていた。時世的な自粛という名目だが、貴族が財産の倹約という選択をせざるを得ないくらい、情勢は不穏だったのだ。
同時に、ジェラルドが楽団の者と顔を合わせられる回数も減り、この機会を逃してはならないと、必死にアンジュを探す。しかし、いつも大勢の中でもすぐに見つけられる、彼女の姿が見当たらない。不審に思い、楽団の誰かに尋ねようしたが、自分が噂されていることを思い出し、忌々しげに躊躇する。
「すみません。いきなりの無礼をお許し願いたい。ミス・コーラル殿」
アンジュと何度か一緒にいるのを見かけたクリスに、周囲に配慮しながら、ジェラルドは恭しくお辞儀をしながら、礼儀正しく声をかけた。
「まあ…… 何でしょうか? マイ・ロード。(貴族の令息に対する下流層からの呼び掛け)ジェラルド・グラッドストーン様」
先日、相談を受けたアンジュの意中の相手から、初めて声を掛けられ、クリスは動揺した。しかし、努め抑え、にこやかに返す。この人は、こんな紳士的な振る舞いが出来る人間だったのか……
「アンジュ……アンジェリークは? 今夜は、出演は無いのでしょうか?」
「彼女は、単独の仕事に呼ばれていて、今夜は来ませんが……?」
歌手として、名がそこそこ知れた彼女には、今や珍しい事ではなかったが、至極肌触りの悪い勘が、ジェラルドの脳裏に鋭く走る。
「そうですか。どんな用件で?」
「……? 別の貴族の方にご指名頂いていて、その方に歌を披露するらしいです」
冷静なまま礼儀ある態度を崩さずにいるが、どこか焦りを含んだ声色で問う彼を、クリスは不審に思った。
「一対一の、対面式なのですか?」
「そのようなケースもたまにありますが、大抵は歌い手が一人で招かれ、このような会場でショーのように披露します。あの、何か……?」
異様な寒気を感じたジェラルドは、思わず会場をぐるりと見渡した。そう言えば、兄のロベルトも、珍しく今夜は来ていない。思えば、朝から妙な目付きで、自分を見て来る彼が気味悪く、不審だった。
「……!!」
何かを覚った。頭の中で危険信号が鳴り響く。一気に血の気が引き、唇が乾き、冷や汗が吹き出した。
「場所は⁉ わかりますか!?」
激しい動揺を顕にし、どこか怒りを含む意を隠さず、切迫して詰め寄る彼に、クリスは緊急事態が起こったことを察する。
非情とまで言われていたこの人が、今、誰の為にここまで取り乱しているのか。それは、自身にとっても特別な人物なのは、明らかだった。
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