Serenade ~ 小夜曲【kiss】
いつもの冷淡な眼差しは消えていて、切なさを帯びた少しの情欲と、穏やかな慈しみに萌えた若葉の色が交えている。そんな彼を凝視しているうち、アンジュの眼差しも、高鳴る心が蕩けていくのに比例し、熱っぽい潤いを含んだ、糖蜜のような甘い繋ぎに変わった。
全ての空間が無音になり、どこか艶のある神聖な静寂に包まれた。見つめ合う深緑と蒼碧の対の距離が、微かな瞬きに合わせ、少しずつ縮まる。
ずっと、彼らを隔たらせていた、迷いも、戸惑いも、消え失せた。高低差のある二つの鼻先が触れ合った瞬間、そうする事が必然的だったかのように、どちらからともなく、互いの眼に、二色の睫毛の幕が降りる。刹那、僅かに揺れながら開閉する唇が、そっ、と重なり合った。
互いの唇の感触と温もりを、何度か確かめ合うよう軽く啄むだけの、拙く、淡い、口付け……
剰りに昂る幸福感に包まれ、共に酔いしれていく。
『これは自分の身に起こった事ではなく、恋物語の戯曲か何かを観賞して、感情移入している最中なのではないか……』という、他人事のような思いでいたが、口元に感じる自分のものではない柔らかな温もり、熱い吐息、惹かれて止まない香りが、錯乱した思考に鮮烈に冴え、リアルに訴えかける。
「……ん、う……」
初めての慣れないキスで、呼吸を忘れていたアンジュの少し苦しそうな声で、ジェラルドは我に返り、慌てて顔と身体を離した。けほっ、と軽く咳き込む音がする。
「大丈夫か……?」
途端に罪悪感がジェラルドを襲う。彼女が受け入れてくれた、抵抗されないのをいい事に、性急に想いをぶつけてしまったと焦り、猛省した。
「……は、い。大丈夫です。初めてで……」
こくん、とピーチスキンのままの顔で頷く。暫しの沈黙の間、ジェラルドは、そんな彼女を可愛らしく思いながら、言い様のない至福の想いで眺めていた。
「……そうか。いきなり……悪かった」
「いえ……! その、嫌じゃ、なかった……ですから……」
誤解して欲しくないと思ったアンジュは、慌ててジェラルドを見上げた。少しばつの悪そうな表情を浮かべている彼と、また視線がぶつかる。
薄化粧ではあったが、付けていたルージュの色が移り、微かに同じ薔薇色に染まった彼の唇が目に入り、途端、強烈なこそばゆい羞恥で俯いた。
「……あの、口紅が、少し……付きました……」
「!? あ、ああ……」
同じく赤らんだ顔で慌てて口元を拭いながら、そんな彼女をいとおしく見ていたが、部屋の外が騒がしくなってきた事に気づいた。いつの間にか晩餐会は終わっていたようだ。
「……戻った方がいいな」
「あ……」
慌てたアンジュは、羽織っていた燕尾服を脱ぎ、彼に返そうとする。その時、服の胸元に煌めく純金製のバッジに気づいた。グラッドストーン公爵家の紋章を型どった物だ。ジェラルドが公爵家の人間だという事実を、改めて実感した。一気に頭が冷え、先程までの幸福感が、すうっ……と醒めてゆく。
「……ジェラルドさん」
改まった素振りで丁寧に彼の名前を呼び、向き合う。
「もう、こんな風に二人きりで会わない方が良いと思います」
突然の彼女の変化に驚愕し、深緑の瞳孔を見開いた彼に反し、アンジュのマリンブルーの瞳には憂いが戻っていた。……いや、幸福な甘い夢から覚めた直後の、失望、虚無、哀愁という表現の方が相応しいだろう。
「……アンジュ?」
「私は、孤児です。身分や肩書きどころか、姓も財産もありません。恩はありますが、楽団に買われたも同然の身です。そして、どんな事情があっても、貴方は公爵家の令息様です」
アンジュは、フィリップとの事を思い出していた。自分の出自のせいで、彼には辛い思いをさせてしまった。また大切な人の負担になるのは、絶対に嫌だった。次第に、喉奥が重い塊で詰まっていく。泣きそうになるのを、必死に堪えた。
「私達の事、噂されてます。以前と同じ……依頼主様のご令息と雇われ人の関係で、いましょう」
他人行儀な態度で、自分と距離を置こうとする彼女に、強烈な焦燥、渇望と同時に激しい自責を、ジェラルドは感じた。
「アンジュ!! 俺は……!!」
「貴方は、私と住む世界が違う……違い過ぎる方です」
いつか誰かに言われた台詞が、改めて、アンジュの傷口にきつく沁みた。いつになく沈痛な面持ちで、そんな身も蓋もない常套句を吐く彼女に、ジェラルドも返す言葉が見つからず、ぐっ、と詰まり、呑み込む。
「貴方には、何度も救われました。とても感謝しています。今日の事も……本当に嬉しかった。今のままで十分です。ありがとうございました」
本心だが、本心では無い。本当は彼と、このまま…… 心を裂かれるような苦しみに耐え、アンジュは口元に微笑を作った。
「……貴方の幸せを、祈っています」
丁寧にお辞儀をして、アンジュは足早に扉に向かい、飛び出すように部屋を後にする。
残されたジェラルドは、茫然自失状態だった。脱け殻のように愕然とした面持ちで、彼女が出て行った扉を、ずっと見つめている。ようやく見つけた大切な存在。こんなにも呆気なく、自分の手からすり抜けてしまうものなのか……?
広間の扉から出て来て、ぞろぞろ帰路についていく客人達に紛れて会場に戻って来たアンジュを、クリスは見つけた。急いで駆け寄り、心配そうに声をかける。
「アンジュ! どこにいたの? 公演は終わったけど、何だか変な噂されてるし……」
事情を尋ねようとした彼女は絶句し、言葉を止めた。生気の無い、悲痛な面持ちのアンジュの眼から、静かに涙が溢れていたからだ。
「……クリスさん。何かを得る為には、何かを犠牲にしないと……いけないんですよね?」
いつか彼女から聞いた、厳しくも温かい激励の言葉だ。
「えっ……?」
「自分じゃない……大切なものの為に、自分の何かを……諦める事も、あるんでしょうか……?」
掠れた声で、淡々と問いかけるアンジュの姿は、今にも倒れてしまいそうな位に、弱々しかった。しかし、その瞳にいつもの憂いは消えている。代わりに、揺らめく鮮烈な光が熱く、宿っていた。
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