Serenade ~ 小夜曲【distance】
銀幕のエンドロールのように、伴奏の音色が名残惜しさを醸しながら消えてゆき、楽曲は終わった。まだ興奮が冷めないアンジュは、歌の世界の余韻と歓喜で、心が、全身が、かつてない程に打ち震えている。
披露するのを反対され、参戦中だからと口にする事さえ禁止され、ずっと封印していたこの歌を盛大に歌えた喜び、そして何より、ジェラルドへの感謝で、心の中が溢れ返りそうだった。
「ジェラルドさん……!! ありがとうございます……!!」
彼の方を向き、震える声で礼を述べ、嬉し涙を眼に混じながら、小さく拍手喝采した。音楽に触れて、こんなにも心が揺さぶられ、虹色の光が乱反射するような経験は、今までなかった。幾つもの情感が繊細に重なり合う、彼が奏でる旋律にも魅了されていたのだ。
ふわっ……と小花が開花した瞬間のような、満面のあどけない笑みが生まれた。急いでジェラルドの傍に駆け寄り、彼の骨張った右手を、両手で取る。両の蒼碧の瞳に射していた、憂いが霞んでいく。
「貴方のピアノは、とても繊細で、綺麗で……温かいわ」
「……」
興奮して珍しく熱の冷めない彼女に対し、ジェラルドは静かに沈黙していた。我に返ったアンジュが様子を伺うと、いつになく思い詰めたような、真剣な面持ちで自分を見つめている。
はしゃぎ過ぎたと思い、慌てて握った手を放し、詫びた。
「ごめんなさい。調子に乗って…… もう、頼みませんから」
それでも彼は無言のままだ。すっと通った鼻筋と秀麗な眉、僅かに揺らめくダークグリーンの妖艶な眼が、すぐ間近にある状況に、今更ながら、何故か緊張する。
「あの、そろそろ戻ります。皆が、探してるかもしれないので」
動揺を悟られないよう彼から少し離れ、アンジュは急いで立ち去ろうとした。が、腰からのドレープが、ゆるい螺旋状になっているロングスカートの裾につまづき、よろめいた。
焦ったジェラルドに後ろから腕を掴まれ、支えられた。安堵したのと同時に、そのまま、引き寄せられるように、両腕で包み込まれる。
何が起こったのか、一瞬、彼女には判らなかった。身体に回された二つの固い腕と、背中に感じるほのかな温もり、羽織ったままの燕尾服と絹のシャツの衣擦れの音。そして、少し癖のあるブルネットの髪が、自身の首元に触れていることで、今の状況をようやく理解した。
眼球を動かすと、すぐ隣に、彼の横顔がある。全身を廻る、自分のものではない慣れない感触。ウッディ調の香水のような香が混じった、彼の匂いが、鼻腔を擽った。
強烈な驚きと未知の高揚、恥じらいで、頬が一気に熱くなるのが判った。どくん、と鳴る心音。身体中の血が、一気に逆流する。
「……あ、あ……の」
「……本当に、何も……解ってないんだな」
上擦りながらも溢した、アンジュの問うような声を、喉奥から絞り出すような重く掠れた声で、ジェラルドは遮る。
「……さっき、どんな顔をしていたか知らない。が、ピアノを見て、考えていたのは……君の、事だ」
チェロの弦が、途切れ途切れに奏でられるような、次第に心を惹き寄せる音色。アンジュの胸奥の何かが、ぎゅうっ、と甘く、心臓を強く締め付ける。
「初めは、何かに憑かれたと思った。……気づいたら、探している。会いたくなる。構いたくなる。助けたくなる…… どうか、してしまった……」
珍しく素直に、熱っぽく独り言のように語る彼の言葉を、一字一句聞き逃さないよう、全神経を耳に集中させる。吐息混じりに細々と響く、湿度を帯びた艶やかな旋律に、くらり、と酔った。
「アンジュ」
後ろから抱きしめていた腕の力を、ジェラルドは、ぐっ、と更に強めた。チェロの音色が、更に深く、重く響くような艶のある声で、初めて自分の名を呼ばれ、身体の芯が揺れる。
「は、い……」
雛鳥が鳴くような、か細く掠れた声で、なんとか応えた。
「……すき、だ」
ざわり、と全身が粟立ち、芯から震えた。彼の渾身のメッセージが、初めて耳にする魔法の呪文のように、アンジュの耳から脳内に響き渡る。自分に向けられた慣れない台詞の連続に、『これは甘美な夢なのではないだろうか』と、意識が半ば乖離していた。
反面、この類いの想いを含んだ言葉を乞いていたのか、じわじわ、と心に沁み入るに従い、マリンブルーの両の瞳が温かい水の膜に被われ、一筋の滴をつたい流す。気づいたジェラルドは、彼女の肩を掴み抱いて反転させ、向き合わせた。濡れた頬の滴を長い指で、戸惑いながらも優しく拭った。そのまま掌を添え、もう片方の手の指先で、柔らかな蜜蝋色の髪を掬い撫でる。
彼のそんな一連の仕草は、不器用で拙く、一輪挿しの花を愛でる、それだった。しかし、他人に撫でられた事の無いアンジュの身体は、びくっ、と反射的に硬直した。瞳孔を見開き、恐々とジェラルドを見上げ、どこか揺らぐ深緑の瞳を仰ぎ、引き込まれるように、魅入る。
ようやく二人の視線は繋がったが、彼女の脳は未だに現状を把握出来ないでいる。
――こういう色の宝石を、前に本で見たわ……
そんな唐突な感想が過った。一方、彼女が身体を強張らせたので、ジェラルドは手の動きを止めた。後頭部を優しく撫で上げ、躊躇いながら包み込むように前屈み、露になっている白い額に、そっ、と自身の唇をあてた。
「ふ、ぁっ……」
思わず目を瞑り、アンジュは小さく驚きの声を漏らす。しかし、逃げ出したり抵抗したいという気は起きなかった。生まれて初めて感じる柔らかな感触が、触れられた箇所から、じわり、と染み渡る。肩をすくめてすがるように、彼の二の腕を掴んでいた。
そんな様子を伺いながらも、自身の奥底から湧き出て止まない、初めて覚える熱い衝動にジェラルドは抗えないでいた。惹き寄せられるように彼女の柔らかな頬や鼻先にも、再び愛でるように、順番にゆっくりと口付ける。
次第に固まっていたアンジュの身体は、強張った心と同時に、少しずつ融けていった。閉じていた瞼を開き、自分に優しいキスを贈り続ける彼を、熟れたピーチスキンの顔で、空高く仰ぐように見上げる。
ジェラルドも少しばかり頬を染め、『どうしたら良いかわからない』と言わんばかりの、困惑が交じる悩ましい表情で、真下の彼女を見つめた。
【閲覧ありがとうございました。いいねや一言でも良いので、ご感想を頂けると嬉しいです。】




