燃ゆる独唱 ~ Philip
そんなある日の稽古の休憩中。アンジュはクリスから声をかけられた。あの晩餐会の日以来、彼女は傷心の後輩を案じてか、何かと気遣ってくれる。しかし、何故かジェラルドとの事だけは相談出来ずにいた。
「貴女に手紙が来てるわよ」
一通の白い封筒を差し出される。美しい装飾が施してあり、一般的な市販物ではなさそうだ。
「……誰からですか?」
「分からないわ。差出人の名前が書いてないの。ラブレターじゃない?」
「えっ……」
封筒を受け取った彼女を茶化し、ふふっ、と笑って、クリスは部屋を出て行った。残されたアンジュは、恐る恐る、シーリングされた封を解き、封筒とお揃いの花柄の、白い便箋を開く。瞬間、品のある良い香りが、ほのかに漂ってきた。紙面には、達筆の美しい文字が並んでいる。
『懐かしい蜂蜜色のコアラへ…… 覚えていてくれてるかな……? フィリップ・ベルモントです』
「フィリップ!?」
不意打ちに遭った声に合わせ、心臓が飛び出るかと思った。本当に、あのフィリップ……? 慌てて、続きを読む。
『いきなり、こんな手紙が届いて、きっと驚いてるだろうね。迷惑かもしれないと思ったけど、どうしても、君に伝えたいことがあって。
……まず、アンジュ。頑張ってるんだね。君の名前は、フランスまで届いてるよ。貴族の友達に、君の事を聞いた時は、本当に驚いた。歌の勉強を始めてくれて、本当に嬉しいよ。
それから、あの時は本当にごめん。あんな事をした理由は詳しく言えないけど、決して君を嫌いになった訳じゃなかった。あの時は、ああして君と離れるしかなかった…… だけど、君を深く傷つけた事は本当に悪かったと思ってる』
相変わらず、温かく優しい彼の言葉に、嬉しさと懐かしさが湧いた。未だ疼く傷痕に沁み、涙が出そうになる。
――ありがとう……
『辛い時代になってきたけど、負けないで頑張ってね。僕も、祖国の為に頑張るよ。実は、この間、フランスの陸軍に志願しました。この手紙が届く頃には、訓練所にいると思います』
「志願兵……!?」
ショックで頭が真っ白になり、軽い眩暈で視界が揺らぐのを感じた。更に衝撃的な文面が、アンジュを襲う。
『もうすぐ、ドイツ軍との戦いに向け、出征します。妻のエレン(彼女と結婚しました)の居る祖国と、君の居るイギリスを守る為に、精一杯戦うつもり。
いつか大勢の人の前で歌う君の姿を、生で見られる日を楽しみにしているよ。その為にもきっと生きて帰って来る。それまで、どうか元気で』
書かれた内容が信じられず、暫くの間、呆然と立ち尽くした。
――フィリップが、出征……? しかも激戦地……!
そんな所に行ったら、生きて帰れる保証など無い事は、彼も解っているはずだ。いくら祖国の為とはいえ、どうして、わざわざそんな命の賭けに身を投じたのだろう……
戦争が始まったとはいえ、英国……ロンドンの暮らしは、以前とあまり変わらなかった。不況は続き、職を失った浮浪者や物乞いが増えていたが、街自体を攻撃される事はなかった。
その為か、開戦したという実感があまりなかったが、今、改めて、自分が戦争という非常事態の渦中にいるのだということを認識する。
――お願い…… どうか、どうか……無事に帰って来て……
アンジュは、遠く離れた彼の無事と武運を祈ると同時に、まだ仄かに彼への想いが残っている自身を実感する。しかし、今のフィリップは一人の女性の夫で、戦地に赴いている。どうしようもない距離が出来てしまったが、友人として、こうして大切に想ってくれている事に感謝しようと決めた。
その年の最後の夜。グラッドストーン公爵家では、新年を迎えるパーティーが催された。フィリップの手紙を読んでから、アンジュの精神はだいぶ落ち着きを取り戻していた。演奏会では変わらず戦歌を歌う日々で、その度に心を擦り減らしてはいるが、彼も激戦地で頑張っているのだから、と気を強く持てるようになったのだ。
そんな彼女の変化に気づいたジェラルドは、公演が終わった後、アンジュの肩を叩き、声をかけた。
「……ちょっと、いいか?」
改まった様子に少し動揺したが、彼に対し信頼に近いものを感じ始めていたアンジュは、後について行った。
暗い廊下を通り過ぎ、螺旋状の大階段の陰に来た時、ジェラルドは、足を止めて振り向いた。遠くからは、賑やかな宴の声が聞こえて来る。とはいえ、戦争中ということで、以前よりも控えめな感じではあったが。
「……何かあったのか?」
ずっと、よそよそしかった彼が、真剣な瞳で尋ねるので、アンジュは戸惑った。心を読まれているみたいで、少し怖くなる。
「え…… どうしてです、か……」
「最近……吹っ切れたように見えるから」
なんだかんだ言いながらも、自分を気遣ってくれている様子の彼に、フィリップの事を話そうと決めた。
「……ありがとうございます。実は、フィリップから手紙が来たんです。」
「フィリップ?」
初めて聞く名前に、すっ、と秀麗に伸びたジェラルドの眉が、ぴくり、と動く。
「オーストラリアにいた時に出来た友達で…… 今は結婚して、フランスにいるんですけど、この間、陸軍に志願したって知らせが来て……」
嬉しそうに、尚且つ、切なそうに話すアンジュを見て、自身の胸奥にちりつくような痛みが走るのを、ジェラルドは感じた。
「彼は激戦地で頑張ってるんだから、私も泣き言ばかり言わずに働こうと思ったんです」
「……そう」
理由が分からない、不穏なざわめきと動揺を努め隠しながら、なんとか冷静さを保つ。一方、話しているうちに嬉しくなったアンジュは、少し明るい口調に変わり、続けた。
「約束したんです。夢を忘れないで生きるって。だから、一人前の歌手になれるように、いつか彼に見てもらえるように歌ってるんです」
妙な苛立ちまでを覚え始めたジェラルドの中で、奥底に蠢く不可思議な塊が、ついに暴発した。あっという間に彼全体を乗っ取る。気づけば、至極冷たく、シビアな言葉が、口から飛び出していた。
「相変わらず甘いな。君は」
「え……?」
急に冷徹な物言いに変わったジェラルドに、アンジュは戸惑った。明かりを灯さない彼のダークグリーンの瞳が、暗闇の中で、いつになく鋭利な光線を放っていた。
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