朱に夢現 ~ poppy
そんな生命力溢れる花園の、シナモンに染まった石畳の上を踊るように歩く。心地好い薫風に吹かれながら、ここにはジェラルドは来ないだろう、と思っていたアンジュは、すっかり夢心地だった。
この数ヵ月で、楽団がグラッドストーン家の御用達になったのは良いが、仕事の度に顔を合わせることになる為、嫌でも会ってしまう。完全に嫌な印象を抱いてしまったので、必要以上に関わらない、と距離を置いていた。しかし、向こうから何かと話しかけ、からかって来るので話さない訳にはいかなかったのだ。増して、彼は依頼主の息子であり、客でもある。あまり邪険に出来ない為、対応に困っていた。
「……家族がいて、お金持ちで、こんな素敵な場所に住んでるのに…… どうしてあんな風になるの?」
ぽそり、と一人呟き、目の前のポピーの花に鼻を近づけた。まろやかで甘い香りが、爽やかにアンジュの鼻腔を擽る。
「それにしても、すごいポピーの数ね……薔薇も多いけど……」
周り一面を取り囲んでいる、朱色の絨毯のようなポピー畑を見渡す。ロンドンには多いのか、ここに来る途中に寄った、ウェストミンスター大聖堂にも、この花が植えられていた。
「ポピーは、この国では停戦の象徴なんですよ。お嬢さん」
急に、少し嗄れた年配の男の声がした。驚いて目を向けると、一人の老人が、畑の中からゆったりと顔を出した。麦わら帽子を被り、軍手をした手にスコップを持ったその老人は、髭に付いた泥を拭いながら、アンジュの近くまで歩いて来る。直感的に、この屋敷の庭師なのだろうと思った。
「こんにちは。これは、全部、貴方が?」
「ああ。お嬢さんは、花が好きなのかい?」
「はい。こんな素敵な花畑……見たことないです」
「ははっ……ありがとう。そう言ってもらえると、花も喜ぶよ」
老人は微笑みながら、近くに咲くポピーをいとおしそうに撫でている。
「あの。さっきの停戦の象徴って……?」
「ああ…… 前の大戦の時に、ある人が、この花をモチーフにして、詩を作ったらしくてな。何でも、ある戦場の跡に咲いていた一面のポピーが、戦闘で死んでいった兵士の血の海に見えたそうで、思わず詩にしたらしい…… それから毎年追悼の記念日には、皆、胸にポピーの花を飾るようになった。ここに、この花を植えているのは、儂の個人的な意向でな……」
そう言って、彼は寂しげに花を見つめた。まるで、誰かの姿を重ねているかのように。もしかしたら、この人は、前の大戦で大切な人を亡くされたのかもしれない……とアンジュは思った。
ふと、抑揚の無い声で、庭師は問いかける。
「お嬢さんは、知ってるかい?」
「え……?」
「今、また戦争が始まるかもしれないって事……」
思わず目を伏せる。真冬に入った頃から、楽団内や客人の間で、あまり穏やかで無い、仄暗い噂が、頻繁に囁かれていたのだ。アンジュは持っていないので聞いていないが、ラジオやテレビのブラウン管から流れるニュースは、その話題一色らしい。
優しい夢の世界から残酷で殺伐とした現実へ、一気に引き落とされたような思いで、アンジュは、足元に散らばる朱色の花びらを、悲しく眺めた。
何でも独裁政権に傾いたドイツが、イタリア、日本と同盟を結び、ヨーロッパの侵略を始めていて、既にオーストリアは併合、ユダヤ系民族は酷い迫害を受けているとの事だった。
我が国イギリスは、フランスと共に止めるよう忠告しているが、停戦する様子は無く、このままでは、今度は世界中を巻き込んだ戦争になるという…… ユダヤ系の客人達は、仲間が受けている仕打ちを嘆き悲しみ、既に世界的恐慌の影響で、ロンドンの街には失業したらしい浮浪者で溢れている。
この数ヶ月の間、そんな哀しく痛ましい空気の中を、アンジュなりに苦しみながら過ごしてきたのだ。現実味があるようで、どこか信じられない時流が心許なく、不安定な日々。それでも当たり前のように日常は続き、容赦なくその時を迎えようとしている。
「……知ってます」
動揺する不穏な心を鎮めながら、アンジュは返答した。戦争が始まったらどうなるのだろう。この美しい庭園も、長い歴史が積まれ刻まれた、今いるロンドンの街も、全て破壊され、跡形も無く消えてしまうのだろうか……
「そうかい…… 限りある富、どこまで奪い合うのかねぇ……」
庭師の老人は、彼女に聞かせるのではなく、遠い異国……いや、目に見えぬ何者かに訴えるように、呟いた。
「おじいさん……」
アンジュの哀しげな呼び声に、彼は、はっ、と我に返る。
「ああ……すまないね。暗い話を聞かせてしまって。また、いつでも見に来ておくれ」
「もちろんです。あ……」
なるべく明るく答えた後、一つのアイデアが脳裏に弾け、浮かんだ。今の自分が出来る事……
「あの、私、今年の秋に、このお屋敷のパーティーで、自分で作詞した曲を歌わせてもらえるんです。このポピーをモチーフに、私も歌詞を作るわ。反戦歌にするの!」
憂いが少し霞んだ、マリンブルーの瞳を煌めかせ、無邪気に意気込むアンジュに、彼は少し驚いたように固まった後、皺で囲まれた眼を細め、嬉しそうに頬を綻ばせた。
「そうかい……嬉しいね。儂は聴けないのが残念だが……頑張りなさいよ」
「ここでも歌うわ。こっそりだけど……聴いて欲しいです」
改めて、気を引き締めた時……
「いいのか? 仕事のネタだろう?」
少し呆れたような、聞き覚えのある静かな低音が、耳に飛び込んできた。
心臓が跳ね上がり、反射的に声のした方へ振り向くと、あのジェラルドが、ズボンのポケットに手を突っ込みながら、アンジュを見下ろすように立っていた。
「な、何で、ここに……」
眼を白黒させ、口をぱくぱくさせている彼女を見て、ジェラルドは口元を少し歪め、苦笑する。
「そんなに驚かなくてもいいだろう」
「ジェリー坊っちゃん。今日は早いですね」
にこやかに優しく微笑み、彼に声をかける老人に、アンジュは更に吃驚した。
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