朱に夢現 ~ Traumerei
グラッドストーン邸に到着し、格調あるティールームに入室して暫くすると、一家が揃って現れた。今度は、始めからジェラルドもいる。彼は、初めに会った時と変わらず無表情で仏頂面だったが、アンジュを見つけると、一瞬だけ、口元を少しだけ歪めて笑った。対しアンジュは、速攻で視線を反らす。
今日は、アフタヌーン・ティー……お茶会の催しだった。以前と同じメンバーで、前とは違う曲を歌う。今回は、スコットランドのノスタルジックな民謡だ。衣装も前回よりもシンプルなデザインの、ミルクティーベージュに控え目な刺繍が施された、フォーマルワンピースを着ていた。
無事、演目が全て終わると同時に、和やかでありながら、どこか張り詰めた雰囲気の中で、メインのティータイムが始まる。例の如く、並ならぬ緊張で疲れ果てていたアンジュは、芳しい香りを漂わせている紅茶を、部屋の隅で静かに楽しんでいた。アールグレイというポピュラーな種類らしいが、こんなに美味しい紅茶は生まれて初めてだと思った。
手にした艶やかな白磁のティーカップにロイヤルブルーで描かれた、小花や鳥の柄も非常に美しく、ニューキャッスルで見た風景を思い出す。次第に緊張が解けてきたアンジュは、空腹を感じた。
――お菓子も欲しいな。
そう思って、スコーンを取りに行こうとした時、山盛りのスコーンやマカロンなど、色とりどりの菓子が乗った皿が、ぬっ、と眼前に差し出された。驚いて見上げると、口元を少し弛めたような、静かな笑みのジェラルドが、アンジュを見下ろしていた。今日の深緑の瞳は、心なしか穏やかな気がする。ダークグレーのベストに、白シャツを少し着崩した礼服が、秀麗な顔立ちとアンバランスだった。
「どうぞ、召し上がれ」
彼が視界に映った瞬間、先日の件を思い出したアンジュの頭に、一気に血がのぼる。
「……結構です」
ふい、と、アンジュは顔を反らした。そんな彼女を見て、彼は、どこか愉しげに追求する。
「随分、物欲しげに見てただろう」
「み、見てないです」
慌てて否定したが、その言葉とは裏腹に、彼女のお腹から、キュルキュル、と鳴き声が聞こえた。思わず腹を押さえたが、しっかりジェラルドの耳に届いていた。その証拠に、もう片方の握り拳を口元にあて、必死に笑いを堪えている。
「……腹は、そうだと言ってる」
恥ずかし過ぎて消えてしまいたかった。よりによって、この人に聞かれるなんて。直ぐにでも逃げ出したかったが、自分より十五センチ以上はある、長身の男性に道を塞がれていたので、とても突破出来そうになかった。おまけに、袖に付いた長いフリルや、スカートの裾がまとわりついて動きにくい。端から見ると、狼に追い詰められた野ウサギのようだ。
そんな慌てふためく彼女を、ジェラルドは、可笑しそうに見ている。
「毒なんて入ってない。安心しろ」
根負けして、アンジュは、空腹に白旗を上げた。まだ笑いを堪えている彼を軽く睨むと、目の前のスコーンに手を伸ばした。少しかじると、口内に優しく甘い風味が広がり、不覚にも、ふわり、と頬がほころぶ。
「そんなに美味いのか? ベビーちゃん」
とうとう、クックッ、と喉を静かに鳴らして笑いながら問う彼に、アンジュは聞き返す。
「……『ベビーちゃん』って、何ですか」
「君の事」
とうとう沸点に達し、アンジュは思わず声を荒げた。
「勝手に、変な名前付けないで下さい! 私は、アンジェリークです!」
「君、まだまだ『ベビー(赤ちゃん)』って感じだから」
この聞き捨てならない言葉に、更に、頭に血がのぼる。
「これでも十六です。『ベビー』じゃありません!」
「今日は、機嫌が悪いな」
「……心当たり、ありませんか?」
以前よりは柔らかい低音の声だが、妙に絡んでくる彼に、アンジュは苛立ちを覚える。
「無いな」
顔を赤くし、仔犬のように食ってかかる彼女に苦笑しながらも、ジェラルドは、しらっ、と返す。
「『馬子にも衣装』だなんて失礼じゃないですか! 貴方こそ、そんなに着崩していいんですか? 貴族でしょう?」
「……やたら気取るのは、嫌いでね」
「貴方こそ子供じゃないですか」
そう言うなり、彼から皿を奪い取り、アンジュは、テーブルの方へ歩いて行った。
――何て失礼な人なの。嫌な事ばかり言って! 意地悪! フィリップとは大違い!!
半ば自棄気味にスコーンを頬張ったが、何故、こんなに腹が立つのか、自分でも分からない。単に、コンプレックスを指摘されただけではない気がする。胸の奥が、妙にざわざわして落ち着かない。
一方、ジェラルドは、そんな彼女を若干、和んだ眼差しで見ていた。彼女の真っ直ぐな言動が、ささくれていた彼の心に深く沁み入り、印象付いている。
「『アンジェリーク』……か」
長い年月と運命の糸に導かれ、二人は、こうして出逢った。これから、自身も世界中もを揺るがす、未曾有の業火が待ち受けているとは、夢にも思わず……
季節は巡り、六月も間近になった頃。一年中、どこかひんやりとしているロンドンにも、ようやく快い春の空気がやって来た。
グラッドストーン家の屋敷の美しい庭園にも、色とりどりの花々が咲き誇っていて、様々な甘い香りで満ち溢れている。春真っ盛りの心地好い陽気の中、まるで天国のような空間を、ふわふわとした足取りで、アンジュは歩いていた。
この数ヵ月の間に、彼女の歌唱力はだいぶ上達し、ほんの僅かだが、貴族の間で名前が知られるようになっていた。そのかいあってか、今秋頃のグラッドストーン家での晩餐会で、自分で作詞した歌を、しかもソロで歌って良いという、団長からの許可が出たのだ。
そこで、月に一度の休日を利用し、詩のイメージを膨らませようと、アンジュはロンドンの街を歩く事にした。街中を観光した後、最後に、あの屋敷の庭園を散歩しようと考え、今に至っている。自然豊かな土地で育った彼女は、花や動物が懐かしく、以前から、この庭に強く惹かれていた。一度、ゆっくり見てみたいと思い、主人である公爵に、団長づてに許可を取ったのだ。
――素敵……
まるで花の精になった気分だ。澄みきった青空の下、深紅のローズ、純白のデイジー、紫のヒヤシンス、黄色いパンジー……色彩鮮やかに咲き、揺れ動く様は、正に楽園と称するに相応しい。所々に蜜蜂や蝶々が舞い飛んでいて、ここに生きるもの全てが、この季節を喜んでいるかのようだった。
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