深緑の夜 ~ Nocturne
会場中の人間全てが、たちまち酔いしれた表情に変わり、惚れ込むような熱っぽい眼差しを向けた。中には、うっとりとしたため息、感嘆の唸り声を漏らす者もいる。
それは、アンジュも同じだった。緊張で強張っていた心が、あっという間に蕩けていくのがわかった。この力強くも夢のように魅惑的で、人々を惹き付ける源は、一体何なのだろう。『彼女のような歌姫、女性になりたい』という、明確な目標が出来た瞬間だった。
全ての演目が終わり、立食パーティーに移った。参加客は、ワーグナー楽団、特にクリスの美しさと歌唱力の話題で持ちきりだ。彼女の周りには、沢山の客が集まって賑わっている。そこには、夫妻の息子のロベルトもいた。
他愛ない世間話、其々の家や家族の自慢話、醜聞に、パイプの燻る臭いと、多種多様な香水の匂いが交じる。艶やかできらびやか、どこか日常からかけ離れ、張り詰めた空間……
見聞きするもの全てが目新しく、不慣れなアンジュは面食らった。独特の熱気と人混みに酔い、頭を冷やそうとバルコニーへ向かう。しかし、先客がいた。先程、遅れて来たジェラルドと数人の女性客だった。
「悪いが、貴女方と関わる気は無い」
静かだが、はっきりとした物言いと声色で、鋭い拒絶の言葉を返された女性達は、不機嫌そうに会場に戻って来る。残った彼は、象牙色の石膏で出来た縁に寄りかかり、虚ろげに彼方を眺めている。少し癖のあるブルネットの髪が、緩やかな風に揺れていた。
ジェラルドはロベルトとは違い、端正だがシャープな顔立ちで、人を寄せ付けない冷淡な雰囲気が強い。健康的で爽やかな美少年といった、フィリップとも違う。彼がスカイブルーの瞳の天使顔とすれば、ジェラルドは、郊外にある森のような深緑の瞳の、妖艶な悪魔顔といった印象だった。
そんな彼の出で立ちが、冷えた霧の漂う森の中で一人佇んでいるように、アンジュには見えた。
「人嫌いって噂通りね。高飛車だわ」
「公爵様でもあれじゃあね。良いのは顔だけよ」
こちらに戻って来た先程の女性達が、アンジュとすれ違い様に、口々に言い合っている。窓際のジェラルドに聞こえるよう、わざと声を張り上げていた。
どうしようか……と、アンジュが迷いながら立ちすくんでいると、視線に気づいたらしく、ジェラルドは振り向いた。無表情のまま、容赦無く鋭い視線を向けてくる。その妖しく暗い眼光に、思わず怯む。
「……君も、何か用か?」
予想以上に周囲に低く響く、こちらを圧倒するような物言いにたじろいだ。先程、団員が演奏していたチェロのような、静かだけども重厚感のある音色。しかし、どこか落ち着いた印象も抱いたアンジュは、勇気を振り絞って、恐々と尋ねた。
「いえ、あの…… 外の空気を吸いたくて……構いませんか?」
すると、少し驚いたように、髪と同じブルネットの長い睫毛に縁取られた、切れ長の涼やかな眼を見開いた。
「……どうぞ」
素っ気なく答え、空虚な眼差しを彼方に再び戻す。一応、お許しが出たので、彼から少し離れたバルコニーの縁近くに立った。
当初の目的通り、アンジュは黙ったまま外を暫く眺めていた。が、気分が落ち着いてくると、彼が放つ独特の存在感や雰囲気が、妙に気になって仕方なくなってきた。惹き寄せられるように、また尋ねる。
「あの……貴方は、行かないのですか?」
「ああいう雰囲気は、苦手でね」
彼女の方を見ないまま顔色一つ変えず、今度は抑揚のない声でジェラルドは答えた。しかし、自分と同じ思いの人がいた事が嬉しくなり、アンジュは少し心が泡立った。
「……私もです」
なるべく穏やかに返し、今度は僅かに微笑む。だが、彼は無言のままだ。
――邪魔かもしれない……
変わらず無反応の様子に立ち去ろうと思い、すっ、とアンジュは後退りする。すると、彼はようやく視線を体ごと彼女に向けた。
「止めておけ」
「……え?」
更に圧される声で放たれた言葉の意図が分からず、戸惑うアンジュに、ジェラルドは続ける。
「俺に取り入るな。無駄だ」
威嚇するような拒絶の言葉と、今にも斬りつけるような鋭い視線に狼狽えた。
「取り、いる? ち……がいます。慣れなくて、苦手で……ここしか居られなくて…… 迷惑なら申し訳ありません」
まごつきながら、アンジュが必死に詫びると、今度はダークグリーンの瞳孔を見開き、彼は少しだけ口調を和らげた。
「……もう行くから、居たらいい」
ぽかん、と不思議そうにしている彼女のすり抜け様に、一瞬、立ち止まる。
「さっきの歌、なかなか良かった。馬子にも衣装だが」
ぼそり、とそう呟き、ジェラルドは会場の人混みに混じ入って行った。
残されたアンジュは、彼の言葉の意味が分からず動揺した。しかし、『歌が良かった』というフレーズだけは、耳に強く残っていた。初めての舞台で、初めて褒めてくれたお客様。少し怖いけど、いい人かもしれない。仲良くなれたらいいなと思った。
後で『馬子にも衣装』の意味を知り、前言撤回とショックを受けるのだが。
次週の昼過ぎ。ワーグナー楽団の一行は、またグラッドストーン家に招かれる。主人の公爵が、楽団をいたく気に入り、月に数回は呼ばれる事になったのだ。仕事が増えたと、団長はご満悦だった。
しかし、アンジュは支度をする手を何度も止め、憂鬱そうに、ため息ばかりついている。ジェラルドに歌を褒められたことを、クリスに嬉しそうに話した直後、『馬子にも衣装』の意味を教えられ、彼の嫌味に気づいたからだ。
「よりによって、彼に近づいたの?」
そう苦笑しながらも、彼女はどこか微笑ましそうにしていた。
――なんて、失礼な人なの!!
アンジュには珍しく、怒りの火種が鎮まらない。小柄で短身、年齢より幼い童顔、女性らしい丸みの少ない体型を気にしていたのだ。コンプレックスという、年頃の少女らしい感覚が芽生えた証拠でもあるが、当人には重大問題だった。
それとも、孤児院の件を誰かから聞いたのか…… 外見か出自の事かは判りかねたが、彼女にとって嫌な人に変わりはなかった。しかし、仕事なので行かない訳にはいかない。他の団員達と共に、渋々、彼の屋敷へ向かった。
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