深緑の夜 ~ dark green
あれから。家族、姉妹に対する感情というものを知らなかったアンジュは、クリスに対して、それに近い思いを抱くようになっていた。数日経っても、他の団員達は、相変わらずアンジュに冷たかったが、心が潰れそうな時に微笑みかけてくれる、彼女の存在は本当にありがたかった。
この人になら、安心して相談できる、助けてくれる。そんな同性の先輩が出来たことが、アンジュは嬉しかった。同時に、昔の出来事が頭を過り、手放しで浮き立てない自分もいる。まだ根に持ってるのだろうか、と自嘲していたら、休憩中、クリスが肩を叩きながら、声をかけて来た。
「アンジュ。例の公演、来週末の夜ですって。お互い頑張りましょうね」
「来週? どこで……ですか?」
「格式高い貴族様のお屋敷よ。晩餐会を開くらしくて、その催し物の仕事」
『貴族』という聞き慣れない格式高い言葉に、少し尻込みする。
「貴女には初舞台ね。でも、緊張しなくていいわよ。練習通りやれば大丈夫」
プレッシャーに押し潰されそうになっているアンジュを見て、クリスは更に明るく励ます。
「相手が身分の高い方だからって、変に気負わなくていいのよ」
この言葉で、何かが元に戻った。
――あぁ……そうね。相手が誰であろうと、できる事を精一杯するしか、私には…… 一生懸命、歌おう……
新たに気を引き締めたアンジュだったが、まさか、この初公演で、彼女の人生を大きく変える出逢いが待っているとは、思いも寄らなかっただろう――
週末の夜。ワーグナー楽団の一行は、例のパーティーの主催者である、公爵家の屋敷にやって来た。依頼者であるグラッドストーン公爵は、夫妻と息子二人の四人家族で、その息子達は大変な美形らしい、と楽団の女性達は色めきたっている。
事前に楽曲のイメージに合わせた衣装を打ち合わせ、自前か貸衣装に頼り用意する。皆、精一杯のお洒落をしていて、宝石箱のようにきらびやかだった。
給金も貯蓄もまだ無いアンジュは、クリスが数年前に着たというフォーマルドレスを譲り受け、洋裁の本を参考に、自分のサイズに何とか仕立て直した。大きく肩が開いた純白のオフショルダー。髪は高い位置で結い上げ、造花を付けると、彼女の蜜蝋色のブロンドが映え、名前通り、天使のような恰好に仕上がった。
今までお洒落というものすらした事がなかったアンジュは嬉しかった。出発の直前まで、恥じらいながらも鏡に映していた。
「ありきたりじゃない。本当に変な子」
「とうとう、クリスさんにまで取り入ったのね」
団員達は嘲笑混じりに、そんな様子を陰で皮肉る。美形だという息子二人についても、フィリップの傷を引きずっていたので関心が無く、ますます色眼鏡で見られてしまっていたのだ。
公爵始め、上流階級の人間にとって、こういった社交の場は重要だ。あらゆる爵位を持つ者や実業家などの富豪達を集め、自分達の社会的地位を主張し、ビジネスや婚姻の人脈作りに利用する。客人達と楽団の一行は、其々の席について主催者一家の登場を待ちわびていた。しかし、なかなか現れない彼らに、不信感を抱き始めている。
アンジュは異世界のような空間全てが珍しく、新鮮だった。深紅のビロードのカーテン、錦糸編みのカーテンタッセル。豪華な装飾の付いたテーブルや椅子、白磁や銀製のカトラリー、おそらく純金と宝飾で造られたのであろう、頭上で瞬き煌めくシャンデリア……
眩しい位のきらびやかさに圧倒されつつも、憂いを帯びた瞳を輝かせながら、そわそわと楽しんでいた。終いに、美しい刺繍が施されたシルクのテーブルクロスの裾を、こっそり摘まんで眺め、近くのメイドに唖然とされてしまった。
やがて、夫妻と息子らしい青年が揃って現れたが、一人しかいない。困惑した客人達がざわめく。
「申し訳ございません。もう暫くお待ちを」
客席に向かって、にこやかに公爵は告げた後、「おい、ジェラルドはどうした」と、隣の妻らしい女性に怪訝そうに尋ねた。
「さあ……? 昼間から姿は見えませんけど」
そんな夫に、彼女は他人事のような口振りで答える。どうやら、未だ来ていないのは弟の方らしい。兄だという方の青年……ロベルトは、俳優のように甘い顔立ちで、柔和な印象の好青年だったが、かなりの女好きだと、隣の席の団員がこっそり話していた。
皆が待ちくたびれてきた、その時、バタン、と勢いよく入口の扉が開き、一人の長身の青年が現れた。
「ジェラルド!!」
怒りを含ませ、公爵は叫んだ。が、ジェラルドと呼ばれたその青年は、じろり、とダークグリーンの眼孔で父を睨み付け、「申し訳ない」と重く響く声色で、素っ気なく詫びただけだ。
無駄の無い動きで素早く席につき、襟足の少し長いブルネットの髪が揺れる。歩き方や仕草、佇まいには貴族らしい落ち着いた品があったが、周囲を威嚇するように振る舞う彼に対し、アンジュは『不思議な人……』という印象を持った。
何だその態度は、と言わんばかりに戦慄く公爵を宥め、「まあまあ…… さあ、始めましょう」と、夫人が甲高い声で明るく取り成す。
彼女も目の醒めるような魅惑的な美女で、息子二人と同じダークグリーンの瞳をしていた。しかし、貴族という肩書きにはあまり似つかわしくない、華やかというよりは派手、けばけばしい印象の女性だった。
彼女は没落しかけている伯爵家の娘らしく、実家の財が破綻寸前で、その金策援助も兼ねて公爵家に嫁いで来たのだと、近くの新参同士の客が話している。
辺りは気まずい空気で満ちていたが、初舞台の事で頭が一杯なアンジュにとっては、異世界の会話でしかなかった為、全く耳に入っていなかった。
ようやく公演が開始された厳かな空間の中、団員其々が、歌や楽器の演目を終え、いよいよ、アンジュ達の番が来た。彼女達の演目は普遍的な讃美歌だ。団員のピアニストの伴奏に合わせ、歌い始める。
好奇に満ちた観客の圧な視線、様々なプレッシャーによる眩暈を感じる程の緊張感の中、ソロパートもなんとか歌い切ることが出来、楽曲は終わった。盛大な拍手の喝采を浴び、生まれて初めての心地よい達成感と、未知の幸福感に満たされていた。
しかし、ラストのクリスの歌を聴いた時は、心底、自分の力不足を痛感してしまった。サーモンピンクのドレスに身を包んだ彼女の歌は、この世のものとは思えない程の至高の出来で、聴く者全てを天界の世界へ誘う、まさに音楽の女神――ミューズの歌声だったのだ。
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