二重の邂逅 ~ Muse
めまぐるしく日々は過ぎ、ロンドンに来てから三ヶ月の時が流れ、季節は冬になった。アンジュにとっては、夏を感じない年になる。
今日は、次の公演に出演するメンバーの発表だ。この楽団は、大抵、大きなイベントや富豪の屋敷に招かれ、彼らが行うパーティーやお茶会の催し物として演奏するのが主流だった。構成やメンバー、演目の配役は、全て団長であるワーグナー氏が決定権を持っていて、異論は認められない。団員が稽古場に到着する頃には、既にメンバーの一覧表が貼り出されていた。
そこに書かれていた内容を見て、アンジュを含む団員達は驚愕した。三人で合唱する演目の一人に、アンジュの名前があったのだ。しかも、一小節だけだが、独唱で歌う箇所がある。驚き半分、彼女は喜んだが、他の団員達は面白くなかった。
最近、入団したばかりで演奏会のメンバーに選ばれ、更に、僅かだがソロパートまであるのだから、やっかむのも無理はない。数人の団員が、怒りや妬みを含んだきつい視線を、ビシビシ、と投げつけている。
自分に向けられている、そんな冷ややかな視線に気づき、アンジュは、思わず下を向く。こういう空気には疑似感が強く、敏感だ。ただでさえ楽団内で浮いてるのに、更に、風当たりが悪くなってしまった。
「何で、あの子が選ばれるの?」
「実力も無いのに」
「どんな手を使ったんだか」
「大人しそうな顔して、結構やり手だねぇ」
いくら抗議しても、団長の決定には逆らえない。密やかに、尚且つ彼女に聞こえるように、団員達は囁き合った。
案の定、それから彼らは、更に冷たい態度を彼女に取るようになってしまった。共に披露する、他の二人の女性も普段はもちろん、練習中も義務的なことでしか話しかけて来ない。おまけに、ちょっとしたことで、嫌みを言われる始末だった。
「……何で、こうなるんだろ」
さすがに耐えかね、その日の練習が終わった後、アンジュは一人残って、ぽつり、と呟く。
「私って、どこでもこんななのね……」
ふう……と軽くため息をついた時、背後から、カツン、カツンとヒールが床に打ち鳴る、軽やかな音がした。驚いて振り向くと一人の長身の女性が、こちらに歩いて来ている。
「クリスさん……」
驚いたアンジュは思わず、ぽろっ、とその名を溢していた。
クリスこと、クリスティーナ・コーラルは、アンジュより少し年上の、楽団の花形の歌手で、歌唱力は勿論、容姿も群を抜いて美しい女性だった。
真珠色の真っ白な肌、薔薇色の唇。サファイアのように碧く瞬く瞳は、長い睫毛が扇のように縁取っている。女性らしい豊満なバストに、しなやかなくびれのある体型。亜麻色に艶めく髪は綺麗に巻いて、小ぶりの洒落た帽子の中に収めている。
そして、何よりも印象的なのが、ハープのようにしっとりと、華やかに響く美声だった。神話に出てくる女神のように魅惑的で、演奏会では必ず詠唱を歌う。まさに『歌姫』の称号に相応しい彼女は、団員達の羨望の的で、アンジュも密かに憧れていた女性だった。
そのクリスが、自分に話しかけている。思いがけない状況に、アンジュは狼狽え、動揺した。
「何してるの?」
深紅の薔薇の花が、ぱあっ、と満開に咲いたような笑みを浮かべながら、クリスは声をかけた。ブラウンのコートにタイトスカートという、シックな装いにも拘らず、ますます人間離れした魅力が際立つ。そんな出で立ちに圧倒されてしまい、小柄のアンジュは彼女を見上げたまま声が出せず、すっかり見惚れていた。
「……どうかしたの?」
心配そうに問いかける彼女に、アンジュは慌てて口を開いた。
「ご……ごめんなさい。とてもお綺麗だから……」
すると、少し驚いた素振りを見せた後、くすり、とクリスは笑った。
「ありがとう…… 可愛い人ね」
ふふっ、と美しい笑顔を再び浮かべる。彼女が少し喋っただけで、周りの空気が一気に華やぐ気がした。
「私、クリスティーナ・コーラル。貴女は、アンジェリークよね。よろしく」
「はい。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
辺り一面に艶やかに響く美声で挨拶し、白魚のような手を差し出した彼女を見て、フィリップと出会った時を思い出した。胸奥がぎゅっ、と少し痛んだが、慌てて彼の像を消し、握手し返す。
「……良い声をしてるわ。柔らかくて澄んでて。精霊……花が舞っているよう。団長が推すのも無理ないわね」
「いえ……そんな……」
今の自分の状況を思い出し、高揚した気持ちが、しゅうっ、と萎む。そんな彼女をクリスは見逃さず、すかさず続けた。
「皆、貴女に嫉妬してるだけよ。こういう仕事をしてる人間にとって、嫉妬ややっかみは賞賛と同じ。気にすることないわ」
「ありがとうございます…… でも、嫌われるのは辛くて」
アンジュは、昔から自分が自分であればある程、何かを失ってる気がしていた。人はどんどん離れていき、欲しいものは、実際に得られてるのかどうかも分からない。そこまでして、仮に得られたとしても、果たして、それだけの価値があるのだろうか……
「貴女は、何の為に歌を磨いてるの? 皆に好かれる為じゃないでしょ? 私達だけじゃない。皆、一人で戦ってるのよ。正しい答えなんてない。大切なのは、自分が何を一番信じるか。何を優先するか…… その為には、代わりに何かが犠牲になるものよ。その先に何があるのか……求める未来が待ってるか分からないけど、私はそうやって生きてるわ」
彼女の厳しくも真摯な言葉の一つ、一つが、アンジュの心の奥に強く、深く刺さった。夢を追い続ける、自分のまま生きるという道は、何て難しく、厳しいのだろう……
しかし、夢を諦めることも自分を無くすことも、今の自分には出来そうにないと思った。なら、せめて、磨いて生きるしかないのだ……
「……ありがとうございます。何だか思い直せました」
「本当、素直な人ね」
憑き物がとれたような表情で礼を言うアンジュを、クリスは微笑ましそうに、くすくす、と笑う。不意に心がざわめいた。
――この感じ、知ってるわ……
躊躇いなく、心を開ける心地良さ。安心して接せる感覚。……フィリップの姿が、幾度も重なったのだった。
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