二重の邂逅 ~ new world
シドニーで船に乗り込んでから、どのくらいの時が過ぎただろうか。出港してからずっと、アンジュは不定期に揺れる船体と共に、海上で不安定な思いを抱える日々を送っていた。
携帯できる時計を持っていない彼女には、船内から見える太陽の動きと、自分を迎えに来た男が持つ懐中時計しか、時の流れを知る術が無い。分刻みの家事や雑用からは解放されたが、先の全く見えない不安だらけの旅路は、次第に息苦しくなり、牢獄生活のようにすら感じていた。
アンジュをスカウトした、楽団の遣いだという中年の男は、馬車の中で軽く自己紹介をした時、団長の補佐を担っていると語った。英国の占領国でもあるオーストラリアが故郷らしく、帰省していた時に、たまたま彼女を見かけたという。
この数日間、一緒に旅をして来たが、それ以外はあまり言葉を交わすこともなく、ひたすらパイプを吸っている、品はあるが人間味の薄い、寡黙な男だった。
いかにも『仕事人間』といった感じの彼に対して、『気難しそうな人』という印象を抱いた。今日も、寝所は別の客室で、共に過ごしていたのだが、長い沈黙に耐え切れず、居心地が悪くなり、アンジュは甲板に出た。
日が経つにつれ、外の空気はどんどん冷えていったが、それでも毎日、海の様子を眺めている。ずっと室内にこもっているせいか、悪い想像や不安ばかりが膨れ上がっていく。
――ロンドンに海は無いって、前にフィリップから聞いたわ。せめて、森……緑や花が沢山あればいいけど……
見知らぬ世界に飛び込んでいくのが怖くなると、朧気な記憶と拙い知識から、すがるような思いでイメージし続けていた。
「南のオーストラリアから来た、『アンジェリーク』だ。今日から歌い手の見習い、住み込みの下働きとして働いてもらう。皆、よろしくやってくれ」
ロンドンに到着し、『ワグネル楽団』の団長である、リチャード・マドラス・ワグネル氏とようやく対面した。挨拶もそこそこに、早速、彼は楽団の皆を集め、アンジュを紹介し始めた。ロンドンでも栄えた街の一角にある、小さな建物内に稽古場があった。窓からは街のシンボルである、巨大な時計塔……『ビッグ・ベン』が小さく見えている。
オーストラリアのニューキャッスルとは全く異なる印象の、これから自分が暮らしていく新しい土地を、アンジュは驚きと新鮮な思いで眺めた。辺り一面が、ミルクティーと煉瓦色に染められ、重々しい石で囲い込むように造られた街だと思った。
「アンジェリーク……アンジュです。どうぞよろしくお願いします」
これから共に働くことになる人達に、アンジュはなるべく礼儀正しく挨拶し、一礼した。ずらりと囲むように集まった団員達は、そんな彼女を興味津々で見ている。『南半球の孤児院でスカウトされた、歌い手の見習いが来る』という噂は、既に広まっていて話題の中心だったのだ。
とはいえ、いい話ばかりではなかった。中には、孤児院出身という肩書きに、あからさまな偏見の目を向ける人も少なくない。現に数人の団員が、ちらちら、と互いに目配せしながら、敬遠や軽蔑の視線を向けたりしている。
そんな好奇や侮蔑の視線に、アンジュは気づいていたが、以前程には気にしなくなっていた。
――フィリップみたいな人だっているかもしれない…… それに、何も悪い事してないわ……
なるべく、堂々とした態度を意識しながら、輪の中に入って行った。
産業革命を経て、二十世紀に入ったロンドンは、かなり近代化が進んでいた。町中の路面にガス灯が立ち並び、路上には車やバスも走っている。故に、大抵の団員は、遠近問わず自宅から通いで来ていた。
財産の無いアンジュは、賃貸は借りられない上、身元保証人も養い主もいない為、稽古場の掃除などの雑用をするという条件で、建物の屋根裏に住み込む事を許された。『借金』という程ではないが、内実、孤児院への多額の寄付と引き換えのスカウトだったのだ。自身の知らぬ間に、彼女は楽団から強いプレッシャーを与えられていたのだった。
初冬のロンドンの朝陽は頼りなく、淡く儚い。まだ宵から醒め切れず、仄かに薄暗い早朝。ゴーン……ゴーン……と、大聖堂の荘厳な鐘の音が、市内中に響き渡る。同じ頃、皆が集まる時間に間に合うよう、アンジュは起床し、ストーブを焚いて部屋を温めた。
質素に食事を済ませ、稽古場の掃除をした後、到着して来た団員達と合流し、歌のレッスンを受ける。内容は、発声練習や音階の取り方、腹筋を鍛える為の運動を行い、楽曲の歴史なども学んだ。
今まで、自分の好きに歌ってきた彼女にとって、目から鱗と言うべきか、自身の未熟さを痛感する毎日だった。本当に初心者の為に上手くこなせず、教官や先輩にしごかれてばかりだったが、アンジュはとても楽しかった。孤児院にいた時と違って、ここでは色んな人と過ごせるし、何より歌の勉強ができるのが嬉しかったのだ。
この楽団には、歌手だけでなく、ピアニストやバイオリニスト、ギターリストなど、様々な種類の音楽家の卵が集まっているらしく、レッスンをしている間にも、様々な楽器の音が聞こえて来る。
それだけあって、演奏する側も多様な人種や人格の人間が集まっているが、アンジュは、又違った意味で目立っていた。孤児院出身で無一文ということもあるが、彼女独特の雰囲気に、周りが敬遠し、引いてしまっていたのだ。
皆、次の仕事で演奏するのは自分だと、同じ楽団内でも、密かにライバル心を燃やしたり、中には歪み合う者もいる。そんな空間の中、彼女のようにどこか浮世離れした、競争に無頓着そうに見えるタイプはどうしても浮いてしまう。『変な子』『遊びに来たのかしら』と、陰で言われていた。
当人は、今は自分の歌を磨く時だと思っていたので、そんな現状の理由が解らず戸惑い、ここでも敬遠されてしまった事を悲しんでいた。
――もう、フィリップみたいな友達はできないのかな…… そうね。あんなに優しくて素敵な人は、なかなかいないわ……
時が経つにつれ、彼の面影が美しく彩られていくうちに、『本当に海の神から遣わされた天使だったのでは』という、幻想さえ覚えるアンジュだった。
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