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戦火のアンジェリーク  作者: 伏水瑚和
Ⅰ.Australia
13/61

夢に旅立つ ~ See you

 鏡の向こうの彼女は、何も言わない。ふふ、と自嘲気味に笑い、アンジュはベッドに潜り込んだ。なかなか寝つけない。体も心も、芯から冷えきっている。

 人の優しさ、温かさを知ってしまった今、必然的にいつも求めてしまう。一度味わってしまったからか以前のように、一人きりで頑張ることは、二度とできない気がした。


 ――知らない方が良かった? その方が、強くいられた……?


 微睡(まどろ)みの中、眠りに落ちる直前、フィリップの明るい笑顔が浮かんだが、その像を振り切るかのように、アンジュは、きつく目を閉じた。



 翌日の午後。アンジュは、いつもの海辺に来て、椰子(やし)の木の上から海を眺めていた。


 ――そうか。こことも、お別れなのね……


 大好きな海。大好きな空。大好きな波音。大切な時間が詰まった場所。


 ――フィリップとの思い出もいっぱいなのに、離れないといけないんだ……


 もし、ここに彼が居たら何て言うだろうか。『行くべき』? それとも『行かない方がいい』? フィリップの明るい笑顔を思い出しながら、考える。


 ――……この話をしたら、きっと喜んでくれるわね。『おめでとう!』って言って、笑ってくれるだろうな……


 瞬間、彼と交わした約束が、脳裏にフィードバックする。


『君は夢を叶えて欲しい。僕の分まで、夢を忘れないで生きて欲しいんだ』

『君の歌声は、もっと沢山の人に聴いてもらいたい。それだけの価値があると思う。少なくとも、僕は元気になれた』

『いつか、大勢の人の前で歌う君を見てみたい。僕は誇りに思うよ』


 そうだ。あの時、確かに()()したのだ。


『約束するわ。何ができるか分からないけど、貴方の言葉は、絶対に忘れない』


 今でもはっきり思い出せる。彼の言葉も、自分の言葉も。自分の歌を褒めてくれた。自分なんかの歌で、元気になれた、癒されたと言ってくれた。もっと沢山の人に聴いてもらいたいとまで言ってくれた。『僕の分まで、夢を持って生きて欲しい』と……


 ――夢…… 私の、夢は……


 そこまで考えた時、アンジュの心は、固く決まった。


 ――行こう。ロンドンへ。歌い手、歌手を目指そう

 ――彼みたいに、沢山の人に元気になってもらえるような、歌手になりたい…… それが、私の夢


 いい機会かもしれない。住み慣れた土地を離れるのはとても不安だけど、思い出にすがり付いて死んだように生きていても、きっと彼は喜ばないだろう……

 アンジュは、故郷を離れることを決意した。心なしか、昨日まで暗く沈んだ色をしていた海が、今は儚くも穏やかな冬の光に照らされ、オーロラのように、七色に煌めいているような気がした。



 瞬く間に日は過ぎ、出発の時がやって来た。前日の夕方、アンジュは、大好きだったいつもの海辺に来ていた。目の前に広がる風景は、十年前と何も変わらない。

 今の時期は、少し(かす)んでいるけれど、透き通るターコイズグリーンの美しい海は、昨日と変わらない。綿菓子のような白い雲、澄んだ青い空。照りつける陽射し、海面に見える色とりどりのサーフボード……

 ここで過ごす事は、暫く無いんだな……と、少し寂しくなる。色んな出来事があった。辛い思いもしたけれど、楽しい時間も沢山あった。この海は、いつも慰めてくれた。元気をくれた。勇気をくれた。嬉しい時も、悲しい時も、いつも一緒にいてくれたのだ。

 今日までの彼女の日々を知っている、地球上全ての生命(いのち)の始まりで、源である、偉大で尊い存在。どこで生まれたのか分からないけれど、この海が、彼女の故郷で、帰る場所だった。


「きっと、必ず帰って来るから、それまで、待ってて……」


 静かに、アンジュは呟いた。泣くことはしなかった。海と同じ色をしたマリンブルーの()は、強い意志に満ちていた。


「行って、きます……」


 世界は、世の中は、変わってゆくものばかりだけれど、この美しい海だけは、(とうと)い景色だけは、未来永劫、ずっと変わらない。そう……信じていた。



 翌朝。迎えに来た楽団の遣いと共に、小さなボストンバッグだけを持って、アンジュは、孤児院の玄関先に居た。

 別れ際でも、院長は特に何も言わなかった。血縁上の叔母でもあるが、良い思い出が無い。嫌な印象の方が多かった。それがアンジュには悲しく、何とも言えない胸詰まりがあった。でも、自分を十年間預かってくれた人でもある、と重い口を開く。


「今まで、ありがとうございました」


 ゆっくりとお辞儀をして、十年間暮らした院の建物と、十字架のシンボルを見上げた。


 十年と少し前、まだ幼子だった自分は、この入り口の前で、暗い表情(かお)をして怯えていたらしい。そして今は、同じ場所から旅立とうとしている。

 これから、どんな事が自分を待っているのか、はち切れんばかりの不安と恐怖で潰されそうだった。しかし、何があっても、フィリップと交わした約束だけは、きっと忘れないだろう。これからは、この誓いが、自分を支えてくれるはずだ。

 大切な人との別れが、こんなにも痛くて辛いのなら、もう二度と、誰とも分かり合いたくないと思った。しかし、彼と出会えたから、今、自分は初めて夢を持てて、歩き出そうとしている。決して無駄ではない。無駄にしたくない。


 ――フィリップ、私、頑張るから。いつか、貴方の耳に入るくらいの、一人前の歌手になるから。また、会おうね……

 ――これから先、貴方じゃない、他の誰かを好きになれるか……わからないけど……


 先を歩いていた遣いの男に(うなが)され、アンジュは、前を向いて歩き出した。そして、二度と振り返らなかった。馬車に乗り込み、駅まで向かう途中、思い出の海辺が見えたが、あまり感傷には浸らなかった。


 ――きっと…… 帰って来る


 様々な運命に翻弄されながらも、アンジュはこうして自分の道を歩き始めた。そんな彼女を激励するかのように、故郷(ふるさと)水面(みなも)は、より一層、まるで光のヴェールの(ごと)く、美しく煌めいていた。


【ここまでの閲覧ありがとうございました。このエピソードでオーストラリア編は完結です。よろしければ、新章も追って頂けると嬉しいです】

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