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鐘の音が五時を告げたそのとき、僕はナディーヌ様の屋敷にいた。
いつもならこの時間帯は夕飯の調理が佳境を迎える忙しいタイミングだ。あまりのあわただしさに時計の鐘の音なんてものは聞こえない。
だが今日の屋敷は随分静かで、窓を開けていないにもかかわらず鐘の音がかすかに聞こえてくる。
それもそうだろう。ナディーヌ様も使用人たちも出払っていて屋敷にはいない。誰も彼も灯ノ祭へ行って、出払っているのだ。
残っているのは人混みが苦手な一部の使用人と、出かける気力のない僕くらいであろう。
そんな静かな屋敷の中、僕はキッチンで明日の仕込みをしていた。
(朝はフレンチットーストにするとして、昼は……。多分ナディーヌ様はお昼寝なさるだろうから、胃に負担がないもの……。うどんがいいかな。そうなると、おやつはしっかり食べれる食事がいいな。タルトのチーズケーキでも焼くか)
本来なら一人きりしかいないタイミングでケーキなんかは焼かない。やろうと思えばできるが、二人か三人いた方が圧倒的に楽になるからだ。
しかし、今はキッチンに僕一人しかない。使用人の部屋でも覗けば誰かいるかもしれないが、そうだとしても呼びに行く気はなかった。どうせ誰か呼びにいっても、気を使われてしまうのが分かり切っているからだ。
使用人たちに僕のやってしまったことを知られて以来、メイドには堂々と批判され、コックたちは妙に優しく接してくれるようになった。どちらの対応も仕方ないことで、嫌がらせされないだけありがたいことだと思うしかない。
メイドたちも怒るは怒るが、そんなねちっこくは叱ってこないし、最近は僕のことを気遣ってくれるほうが多くなったくらいだ。本当にいいひとばかりで感謝しかない。
けれど、皆に気をつかわせてしまうのも正直つらくなってきた。申し訳ない気持ちもあるし、セシリーと仲違いをしている事実を突きつけられているような気もしてしまう。
だから、今日は一人で黙々と調理をしたかった。ケーキなんて手間のかかる料理を作るのもそのせいだ。
「さて、と」
フレンチトーストの仕込みは終わっている。卵と牛乳、砂糖でつけたパンを冷蔵庫に入れて、チーズケーキを作りはじめる。
常温に戻したバターに砂糖をふりかけ、丁寧に混ぜこむ。バターの濃厚な香りにつつまれながら、ぼんやりと物思いにふける。
(そういえば、前にケーキを作ったときは一日バタバタしてたな)
舞踏会に行く前からもバタバタしていた。ナディーヌ様からは『異性関係で難がある』と訳の分らない占い結果を吹っ掛けられた挙句、セシリーには『気を付けなさい』と説教をくらってしまった。
セシリーを適当にあしらって仮面舞踏会へ向かったが、そこでは可愛らしい女性リリーちゃんがトラブルに巻き込まれていた。
(結局、リリーちゃんは最初から最後まで不思議な子だったな)
最初は綺麗な姿をした世間知らずな令嬢ちゃんかと思っていた。そう思えるほどに彼女の顔立ちは整っていて、周りの男性たちの目を引いていた。
しかし仮面を傷つけた男性を怒鳴りつけたことから化けの皮がむけていった。
恋人として接してみたが全く令嬢らしさがない。妙にお金の管理がしっかりしているし、買うものも食べるものも庶民寄りのものばかりだ。
まるで見た目だけ魔法で変えているかのように、中身と見た目がちぐはぐで、それが本当に面白かった。一日たりとも彼女と一緒にいて飽きることがなかったし、もしかしてこれが恋なのかもしれない、なんて気持ちも生まれたような気がしていた。
そんなリリーちゃんだが、ある日を境に突如として姿を消した。送られてきた手紙はひどく簡潔に別れを告げていた。
唐突に姿を消してしまったが、正直いってそれほどの衝撃は感じなかった。そうやって僕の前からいなくなる女性は珍しくはなかったし、それよりもセシリーの一件に神経をすり減らして、そっちまで気を回せなかった。
今だってケーキを焼いているから、ふと彼女のことを思い出したまでだった。
(そういえば、リリーちゃんは灯ノ祭に行きたがっていたな)
手紙には遠くへ行くことになったと記していた。それが嘘か本当か分からないが、あんなに一緒に行きたいと言い張っていたのだ、もしかしたら一人でも参加しているかもしれない。
「……ケーキが焼けたら、寄ってみようかな」
今の時間からケーキを焼くとなると、ちょうど祭りの終盤に顔を出せるだろう。
もしそこにリリーちゃんがいたら、別れのあいさつだけはしておきたいし、会えなかったとしたら気晴らし程度に散歩をして帰ってしまおう。
(行くとしたら、どこに行っているかな。商店街か、もしかしたら城壁の上で祭りの様子を眺めているかもしれないな)
それとも……。
僕の頭に浮かんだのは、リリーちゃんが興味津々に眺めていた白いオブジェだった。
(そうだな。そこに行ってみよう。運よくリリーちゃんに会えたら、多少は気も晴れるかもしれないし)
そこまで考えた後、僕は自分の自分勝手すぎる空想に苦笑する。
(リリーちゃんを自分の気晴らしのために利用するなんて、本当に最低な男になったな)
自己嫌悪に陥りながら、僕はバターを泡立てたボウルの中に薄力粉を入れる。ふと、こんな気持ちで作ったケーキをナディーヌ様はおいしいと思ってくれるだろうかと、疑問に思った。
……多分、無理だろうな。
僕は小さくため息をついた。




