36
「ふぃ、フィル……コック長……?」
目の前にいるフィルは、ただならぬ気配を漂わせていた。
くりくりとした可愛らしい瞳はどこへやら、背筋が凍るほどの殺意に満ち溢れていた。
丁寧に手入れしているはずの髪は若干乱れている。服が少しすす汚れていることさえも、彼の怒りを表しているように感じてしまう。
(こ、こんなに怒っているフィル、見たことない)
赤茶の瞳は、固まってしまった私を射抜いた。
「もう一度お聞きします。何をなさっておられるのですか」
「あ、あなたには関係ないです」
勢いでそう返してしまった。
……それが間違いだったことはすぐわかった。
フィルは目を細めて、口元を緩める。
「では、当ててあげます。男関係でしょうね」
「そ、それは、……違います」
「はい、ダウト」
「わっ、」
フィルは私を横抱きにすると、裏口とは真逆の方向へと歩き出す。
「ひっ、こ、コック長! 離してください!」
「……」
「何の冗談ですか、下してください!」
「……」
「フィル! やめて!」
最後の言葉で、ようやくフィルは足を止めてくれた。
「いきなり何するんですか! 女性に対してこんなこと……!」
怒りのままに怒鳴りつけるが、彼は冷ややかにほほ笑む。
「それが、助けてもらった人の態度ですか」
「うっ、」
「とにかく、黙ってください」
「……」
私は何も言えなくなった。
フィルもそれ以上は何も話さず、無言で私を運ぶ。
私が必死に歩いてきた道を軽々と引き返し、たどり着いたのは先程まで私がいた部屋だった。
彼はベッドに私を下す。怒っている雰囲気を漂わせつつも、壊れ物を扱うように優しく下してくれる。
だからといって私に向ける冷たい視線は変わらない。
「それで? 歩くのも苦労するはずのあなたが、どうしてあんなところにいらっしゃったのでしょうか? お聞かせ願いますよ」
「……黙秘します」
「そう」
彼は身をかがめると、素早い動きで私の持っていた手紙をひったくった。
「なっ! 返してください!」
「大丈夫です。捨てはしませんよ。私があなたの代わりに郵便局へもっていってあげましょう。それにしても、誰か使いにいかせればいいのに、わざわざ歩いてポストまで行くとは。それほど内緒にしたいご相手さんなんですね」
フィルは手紙を宛名を見ようとした。
「あっ! ちょっと!」
まずい、宛名にはリリーとフィルの名前が入っている!
最悪、リリーの正体が私だってばれてしまう!
「だ、駄目!」
私はとっさに飛びついて、手紙を強引に取り上げた。
「おっと、手癖が悪いですね」
「あなたに言われたくはないです!」
もう奪われてたまるものかと、私は手紙を胸元に持っていき、両手でしっかりとガードする。
「この手紙は私の方でどうにかしますので、コック長の御足労はいただきません。さっさと料理でもなんでも作ってきてください」
「そんなに迷惑がられるのは心外ですね。こちらは親切心でやっているというのに」
「これのどこがしんせ……ごほっごほっ!」
急に呼吸がしづらくなり、一二度咳をしてしまう。
途端、今まで忘れかけていた疲労がどっと沸きあがってきて、力なくベッドに体を沈める。
「はぁ……はぁ……ともかく、あなたには関係のないことだから、ほっておいてください」
「……そこまでして、彼氏とやらに手紙を送りたいんですか」
「当然でしょう。私がこんな状態じゃ、行く予定だったお出かけも中止になるんだから。あなただって、私と同じ立場になったらそうするでしょ」
「あなたのような状況になりませんから」
「……」
まあ、フィルなら絶対こういう状況にはならないだろうけど……。
黙っている私に、フィルは苛立ちを隠そうともせずに声を荒げる。
「そこまで誠実にいる必要ってあるんですか?どうせあなたの片思いなんですし、放っておけばいい」
「……いや、そんなわけには」
「そもそも、向こうが知っているのは変装後のあなたであって、変装前のあなたではないんですよ。そんな尽くす必要はないのではないんですか」
「……」
(尽くす必要がない、か)
冷静に考えるとそうかもしれない。
そうかもしれないが、
「……それでも、私は構わないんです」
そっと頭を撫でて、優しい笑みを向けてくれる。それだけで私は幸せな気持ちになってしまうのだ。
その笑みが、偽りの私にしか向けられないとしても。
(……本物の私には、そんな顔してくれないものね……)
今だって、なんだか知らないが怒りに怒っているわけだし。
私はちらりとフィルを伺う。どうせ不機嫌そうにしているんだと思っていたが、
(……あれ?)
どういうわけか、フィルはかちりと固まってしまっていた。
(……どうしたのかしら)
しかしそんな仕草をしたのも一瞬で、すぐに氷点下の眼差しに戻り、眉間に寄せるしわを深くさせる。
「そもそも、あなたが嘘で身を固めていると気づかず、付き合っている男性側の問題も大きいでしょうね。……もしかして、向こうもあなたの演技に気が付いていて、後々詐欺に引っかけようと考えているのではありません?」
「さ、詐欺ですって? それはないですよ。そんな人ではありませんから」
「へえ? そんなに付き合った期間も長くはないのでしょ? どうしてそう分かるんですか」
(そりゃ付き合った年数はほんの二か月くらいだけど、あんたとは十年以上一緒にいるんだからそれくらい分かるわよ!)
当然、そんな反論は口に出さない。
「分かるんだから分かるんです。私は騙されてなんかいません」
「どうだか。あなたのような男性慣れしていない女性と付き合おうなんて男は、ろくな人ではありませんよ」
「……っ」
「犯罪行為をしないとしても、後々お金をせびってくるに違いありません。そういう男はいくらでもいるんですよ? その男もそういう人ではありませんか?」
「……止めてください」
私の制止もきかず、フィルはペラペラと喋る。
「そう考えると、あなたも会えなくなってよかったではありませんか。それでうまく縁が切れたわけですし、そんな男は放っておいて」
「やめてください!」
私は叫ぶ。
「彼は、彼はそんな人じゃない。本当に優しくて、愛してくれて、好きでいさせてくれた。会ったこともないのに、勝手に想像して悪く言わないでっ」
フィルにだけは、否定されたくはない。
だって、フィルの否定を受け入れてしまったら、
……リリーの時に見せてくれたフィルの笑顔が、全部嘘だってことになってしまう気がしてならないのだから。
私の咆哮に、部屋は沈黙で包まれる。
高ぶった感情のせいで涙がぽろりとこぼれる。それを袖で拭きとって、彼をキッと睨む。
(次どーこー言うようなら、部屋から追い出してやるんだから!)
さあ今度は何を言ってくると身構える。
しかしフィルは何も言わない。無言を貫く。
「用がないなら出て行ってください。少し疲れてしまいましたから」
私はぷいっと視線をそらす。
すると、フィルは呟くように言う。
「そうですか」
彼は、もう一度言う。
「そう、ですか」
感情の入っていない、無機質な話し方だった。
「そんなに、彼氏とやらが大切だってことですか」
「……そりゃそうよ」
「へえ。……セシリーお姉ちゃんの初恋の相手ってこと? 弟分の僕としては、お相手の方が気になるね」
「あんた、また馬鹿にして……!」
部屋から出てけと怒鳴ろうと顔を上げ、言葉を失った。
フィルは静かに私を見ていた。鉄のように冷たい瞳の中には、怒りの炎が灯っている。
「僕さ、是非ともセシリーお姉ちゃんの初恋の人のこと知りたいんだよね。だから、教えて。その人の名前」
「お、教えられるわけないじゃない」
「そう。だったら、セシリーが教えたくなるまで僕も頑張らなくちゃね」
突然、フィルは私のベッドの上に乗ってきて、馬乗りになる
「なっ!」
まさか手紙を奪われるのかと、慌てて胸を抑える。しかしフィルは薄ら笑みをもらす。
「手紙を奪うのが先か、セシリーが諦めるのが先か。どう? 面白い競争だと思わない?」
「ふぃ、フィル、何をする気なの」
「何をするのかはセシリー次第、かな?」
そう言うと、フィルは右手で私の首筋を、左手で耳を優しく撫でる。
「ちょっ!」
身じろぎして逃れようとするが、そんな抵抗さえ許してくれなかった。彼は私に覆いかぶさって、足まで絡めてきたのだ。これではいくら力を込めても動けない。
困った私を見て、フィルはくすりと笑う。
「うぶだね。もしかして、こういうことされたことないの?」
「こ、こういうことって、どういうことよ」
「その反応からするとされてなさそうだね。よかったよかった。君の彼氏さんは意外と紳士なのかもしれないね」
「……フィル、もうこんなことは止めなさい。今なら許してあげるから」
「許すねえ。君が悪いことをしたから、こんなに怒っているというのに」
「わ、悪いことって何よ」
彼は口元を緩める。しかしその瞳は獣のような獰猛な光が宿っていた。
「自分で考えて」
それだけ言い放ち、フィルは私をぎゅっと抱きしめる。彼の温もりが直に伝わり、甘い香りがふわりと鼻孔を刺激する。リリーの時と変わらない。彼の暖かさ。だけど、私を抱くその腕は暴力的なまでに強い。
「やだ、止めて、フィル……っ、怖いよっ」
気づくと、私の身体は震えている。そんな私をみてニッコリと微笑む。
「大丈夫。そのうち怖さもなくなるよ。丁重に扱ってあげるから」
こんなに嫌だと訴えているのに、フィルは止まらない。
(どうして……)
どうして、止めてくれないの。
(フィルは、私にも優しくしてくれていたのに)
瓶を割って落ち込んでいるとき、彼はハートキャンディーをくれた。
トゲトゲしていて舌でなめると少し痛い、不揃いな形をしているけど、それでも私のことを真摯に思ってくれていたのだ。
なのに、今のフィルにはそんな気持ちなんてない。
怒りに任せて私を傷つけようとしている。
それがたまらないほどつらくて、苦しくて、涙がぼろぼろと溢れてくる。
「……諦めて僕を受け入れてよ。君がその気になってくれるなら、悪いようにはしないから。ね?」
「いや、いや、いやよ」
私はぶんぶんと首を横に振る。
すると、彼は苦し気に小さくため息をつく。
「なら、嫌だという君の唇を塞いでしまおうっか。それなら、君も傷つかない」
支離滅裂な台詞を吐き、彼の指はすっと私の唇をなぞる。
体の奥底が、ふるりと震える。
「そういえばさ、その彼氏とやらにキスはされたことあるの?」
「……」
答えないでいると、彼は苦々しく吐き捨てる。
「ふうん、あるんだ」
「……」
「ねえ、初めてのキスはどんな感じだったの? どうせ、子どものままごとみたいなキスなんでしょ? どう? 嬉しかった? 幸せだった? ……僕のことなんか考える余裕なんてなかったでしょ」
「……」
(この人は……何を言っているのだろう)
小さいときからずっとフィルと一緒にいた。
彼のことは大体わかっているつもりだった。
だけど、今の彼は何を言っているのかさっぱり分からかった。
ただただ、怖かった。
フィルは、にっこりと笑う。
「ダイジョウブ。そんなことどうでもいいって思えるくらい、蕩けるような口づけをしてあげるから。全てのことを忘れられるくらいの、ね?」
彼は顔を近づける。
何をされるのか分かって、必死に逃れようとする。
しかしそれを予想していたかのように、頭をがっちり固定されてしまっている。
(い、いやだ)
私の胸の中に蘇るのは、優しいフィルの姿。
ほほ笑んで、リリーの頭を撫でてくれた彼の姿。
そんな彼の思い出が、一つ一つ消えていく。
(もう、諦めた方がいいのかしら……)
このままフィルの言うがままになって、最後まで行きついてしまった方が、私にとってシアワセなのかもしれない。
どうせ、抵抗も何もできないのだから。
私は諦めから、瞳を閉じる。
だが、次の瞬間。
「こらー!!!!」
誰かの怒鳴り声と共に、突然、身体が軽くなった。




