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「ふぃ、フィル……コック長……?」


 目の前にいるフィルは、ただならぬ気配を漂わせていた。


 くりくりとした可愛らしい瞳はどこへやら、背筋が凍るほどの殺意に満ち溢れていた。


 丁寧に手入れしているはずの髪は若干乱れている。服が少しすす汚れていることさえも、彼の怒りを表しているように感じてしまう。


(こ、こんなに怒っているフィル、見たことない)


 赤茶の瞳は、固まってしまった私を射抜いた。


「もう一度お聞きします。何をなさっておられるのですか」

「あ、あなたには関係ないです」


 勢いでそう返してしまった。


 ……それが間違いだったことはすぐわかった。


 フィルは目を細めて、口元を緩める。


「では、当ててあげます。男関係でしょうね」

「そ、それは、……違います」

「はい、ダウト」

「わっ、」


 フィルは私を横抱きにすると、裏口とは真逆の方向へと歩き出す。


「ひっ、こ、コック長! 離してください!」

「……」

「何の冗談ですか、下してください!」

「……」

「フィル! やめて!」


 最後の言葉で、ようやくフィルは足を止めてくれた。


「いきなり何するんですか! 女性に対してこんなこと……!」


 怒りのままに怒鳴りつけるが、彼は冷ややかにほほ笑む。


「それが、助けてもらった人の態度ですか」

「うっ、」

「とにかく、黙ってください」

「……」


 私は何も言えなくなった。


 フィルもそれ以上は何も話さず、無言で私を運ぶ。


 私が必死に歩いてきた道を軽々と引き返し、たどり着いたのは先程まで私がいた部屋だった。


 彼はベッドに私を下す。怒っている雰囲気を漂わせつつも、壊れ物を扱うように優しく下してくれる。


 だからといって私に向ける冷たい視線は変わらない。


「それで? 歩くのも苦労するはずのあなたが、どうしてあんなところにいらっしゃったのでしょうか? お聞かせ願いますよ」

「……黙秘します」

「そう」


 彼は身をかがめると、素早い動きで私の持っていた手紙をひったくった。


「なっ! 返してください!」

「大丈夫です。捨てはしませんよ。私があなたの代わりに郵便局へもっていってあげましょう。それにしても、誰か使いにいかせればいいのに、わざわざ歩いてポストまで行くとは。それほど内緒にしたいご相手さんなんですね」


 フィルは手紙を宛名を見ようとした。


「あっ! ちょっと!」


 まずい、宛名にはリリーとフィルの名前が入っている!


 最悪、リリーの正体が私だってばれてしまう!


「だ、駄目!」


 私はとっさに飛びついて、手紙を強引に取り上げた。


「おっと、手癖が悪いですね」

「あなたに言われたくはないです!」


 もう奪われてたまるものかと、私は手紙を胸元に持っていき、両手でしっかりとガードする。


「この手紙は私の方でどうにかしますので、コック長の御足労はいただきません。さっさと料理でもなんでも作ってきてください」

「そんなに迷惑がられるのは心外ですね。こちらは親切心でやっているというのに」

「これのどこがしんせ……ごほっごほっ!」


 急に呼吸がしづらくなり、一二度咳をしてしまう。

 途端、今まで忘れかけていた疲労がどっと沸きあがってきて、力なくベッドに体を沈める。


「はぁ……はぁ……ともかく、あなたには関係のないことだから、ほっておいてください」

「……そこまでして、彼氏とやらに手紙を送りたいんですか」

「当然でしょう。私がこんな状態じゃ、行く予定だったお出かけも中止になるんだから。あなただって、私と同じ立場になったらそうするでしょ」

「あなたのような状況になりませんから」

「……」


 まあ、フィルなら絶対こういう状況にはならないだろうけど……。


 黙っている私に、フィルは苛立ちを隠そうともせずに声を荒げる。


「そこまで誠実にいる必要ってあるんですか?どうせあなたの片思いなんですし、放っておけばいい」

「……いや、そんなわけには」

「そもそも、向こうが知っているのは変装後のあなたであって、変装前のあなたではないんですよ。そんな尽くす必要はないのではないんですか」

「……」


(尽くす必要がない、か)


 冷静に考えるとそうかもしれない。


 そうかもしれないが、


「……それでも、私は構わないんです」


 そっと頭を撫でて、優しい笑みを向けてくれる。それだけで私は幸せな気持ちになってしまうのだ。


 その笑みが、偽りの私にしか向けられないとしても。


(……本物の私には、そんな顔してくれないものね……)


 今だって、なんだか知らないが怒りに怒っているわけだし。


 私はちらりとフィルを伺う。どうせ不機嫌そうにしているんだと思っていたが、


(……あれ?)



 どういうわけか、フィルはかちりと固まってしまっていた。


(……どうしたのかしら)


 しかしそんな仕草をしたのも一瞬で、すぐに氷点下の眼差しに戻り、眉間に寄せるしわを深くさせる。


「そもそも、あなたが嘘で身を固めていると気づかず、付き合っている男性側の問題も大きいでしょうね。……もしかして、向こうもあなたの演技に気が付いていて、後々詐欺に引っかけようと考えているのではありません?」

「さ、詐欺ですって? それはないですよ。そんな人ではありませんから」

「へえ? そんなに付き合った期間も長くはないのでしょ? どうしてそう分かるんですか」


(そりゃ付き合った年数はほんの二か月くらいだけど、あんたとは十年以上一緒にいるんだからそれくらい分かるわよ!)


 当然、そんな反論は口に出さない。


「分かるんだから分かるんです。私は騙されてなんかいません」

「どうだか。あなたのような男性慣れしていない女性と付き合おうなんて男は、ろくな人ではありませんよ」

「……っ」

「犯罪行為をしないとしても、後々お金をせびってくるに違いありません。そういう男はいくらでもいるんですよ? その男もそういう人ではありませんか?」

「……止めてください」


 私の制止もきかず、フィルはペラペラと喋る。


「そう考えると、あなたも会えなくなってよかったではありませんか。それでうまく縁が切れたわけですし、そんな男は放っておいて」

「やめてください!」


 私は叫ぶ。


「彼は、彼はそんな人じゃない。本当に優しくて、愛してくれて、好きでいさせてくれた。会ったこともないのに、勝手に想像して悪く言わないでっ」


 フィルにだけは、否定されたくはない。


 だって、フィルの否定を受け入れてしまったら、


 ……リリーの時に見せてくれたフィルの笑顔が、全部嘘だってことになってしまう気がしてならないのだから。


 私の咆哮に、部屋は沈黙で包まれる。

 高ぶった感情のせいで涙がぽろりとこぼれる。それを袖で拭きとって、彼をキッと睨む。


(次どーこー言うようなら、部屋から追い出してやるんだから!)


 さあ今度は何を言ってくると身構える。


 しかしフィルは何も言わない。無言を貫く。


「用がないなら出て行ってください。少し疲れてしまいましたから」


 私はぷいっと視線をそらす。


 すると、フィルは呟くように言う。


「そうですか」


 彼は、もう一度言う。


「そう、ですか」


 感情の入っていない、無機質な話し方だった。


「そんなに、彼氏とやらが大切だってことですか」

「……そりゃそうよ」

「へえ。……セシリーお姉ちゃんの初恋の相手ってこと? 弟分の僕としては、お相手の方が気になるね」

「あんた、また馬鹿にして……!」


 部屋から出てけと怒鳴ろうと顔を上げ、言葉を失った。


 フィルは静かに私を見ていた。鉄のように冷たい瞳の中には、怒りの炎が灯っている。


「僕さ、是非ともセシリーお姉ちゃんの初恋の人のこと知りたいんだよね。だから、教えて。その人の名前」

「お、教えられるわけないじゃない」

「そう。だったら、セシリーが教えたくなるまで僕も頑張らなくちゃね」


 突然、フィルは私のベッドの上に乗ってきて、馬乗りになる


「なっ!」


 まさか手紙を奪われるのかと、慌てて胸を抑える。しかしフィルは薄ら笑みをもらす。


「手紙を奪うのが先か、セシリーが諦めるのが先か。どう? 面白い競争だと思わない?」

「ふぃ、フィル、何をする気なの」

「何をするのかはセシリー次第、かな?」


 そう言うと、フィルは右手で私の首筋を、左手で耳を優しく撫でる。


「ちょっ!」


 身じろぎして逃れようとするが、そんな抵抗さえ許してくれなかった。彼は私に覆いかぶさって、足まで絡めてきたのだ。これではいくら力を込めても動けない。


 困った私を見て、フィルはくすりと笑う。


「うぶだね。もしかして、こういうことされたことないの?」

「こ、こういうことって、どういうことよ」

「その反応からするとされてなさそうだね。よかったよかった。君の彼氏さんは意外と紳士なのかもしれないね」

「……フィル、もうこんなことは止めなさい。今なら許してあげるから」

「許すねえ。君が悪いことをしたから、こんなに怒っているというのに」

「わ、悪いことって何よ」


 彼は口元を緩める。しかしその瞳は獣のような獰猛な光が宿っていた。


「自分で考えて」


 それだけ言い放ち、フィルは私をぎゅっと抱きしめる。彼の温もりが直に伝わり、甘い香りがふわりと鼻孔を刺激する。リリーの時と変わらない。彼の暖かさ。だけど、私を抱くその腕は暴力的なまでに強い。


「やだ、止めて、フィル……っ、怖いよっ」


 気づくと、私の身体は震えている。そんな私をみてニッコリと微笑む。


「大丈夫。そのうち怖さもなくなるよ。丁重に扱ってあげるから」


 こんなに嫌だと訴えているのに、フィルは止まらない。


(どうして……)


 どうして、止めてくれないの。


(フィルは、私にも優しくしてくれていたのに)


 瓶を割って落ち込んでいるとき、彼はハートキャンディーをくれた。

 トゲトゲしていて舌でなめると少し痛い、不揃いな形をしているけど、それでも私のことを真摯に思ってくれていたのだ。


 なのに、今のフィルにはそんな気持ちなんてない。


 怒りに任せて私を傷つけようとしている。


 それがたまらないほどつらくて、苦しくて、涙がぼろぼろと溢れてくる。


「……諦めて僕を受け入れてよ。君がその気になってくれるなら、悪いようにはしないから。ね?」

「いや、いや、いやよ」


 私はぶんぶんと首を横に振る。

 すると、彼は苦し気に小さくため息をつく。


「なら、嫌だという君の唇を塞いでしまおうっか。それなら、君も傷つかない」


 支離滅裂な台詞を吐き、彼の指はすっと私の唇をなぞる。

 体の奥底が、ふるりと震える。


「そういえばさ、その彼氏とやらにキスはされたことあるの?」

「……」


 答えないでいると、彼は苦々しく吐き捨てる。


「ふうん、あるんだ」

「……」

「ねえ、初めてのキスはどんな感じだったの? どうせ、子どものままごとみたいなキスなんでしょ? どう? 嬉しかった? 幸せだった? ……僕のことなんか考える余裕なんてなかったでしょ」

「……」


(この人は……何を言っているのだろう)


 小さいときからずっとフィルと一緒にいた。

 彼のことは大体わかっているつもりだった。


 だけど、今の彼は何を言っているのかさっぱり分からかった。


 ただただ、怖かった。


 フィルは、にっこりと笑う。


「ダイジョウブ。そんなことどうでもいいって思えるくらい、蕩けるような口づけをしてあげるから。全てのことを忘れられるくらいの、ね?」


 彼は顔を近づける。


 何をされるのか分かって、必死に逃れようとする。


 しかしそれを予想していたかのように、頭をがっちり固定されてしまっている。


(い、いやだ)


 私の胸の中に蘇るのは、優しいフィルの姿。


 ほほ笑んで、リリーの頭を撫でてくれた彼の姿。

 そんな彼の思い出が、一つ一つ消えていく。


(もう、諦めた方がいいのかしら……)


 このままフィルの言うがままになって、最後まで行きついてしまった方が、私にとってシアワセなのかもしれない。


 どうせ、抵抗も何もできないのだから。


 私は諦めから、瞳を閉じる。


 だが、次の瞬間。


「こらー!!!!」


 誰かの怒鳴り声と共に、突然、身体が軽くなった。


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