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普段は七名ものコックが慌ただしく調理を行うキッチンにて、私は一人せっせと掃除に勤しむ。窓は開けている(というか壊れて開けっ放し)とはいえ、今の季節は梅雨が終わったばかりの暑い時期だ。タオルで拭けども吹けども汗がだらだらと吹き出してきてくる。
それでも必死になって掃除をすること数十分後、私はため息をついて汗をぬぐう。
(……カウンター以外は綺麗になったわね)
シンクの中やワークトップは、銀色の輝きを取り戻してくれた。しかし、ナディーヌ様が踏み荒らしたカウンターは中々汚れが落としきれない。わずかに残る黒い汚れを手でなぞって、もう一度ため息をつく。
「一体どこで何したらこんな汚れをつけてくるのかしら」
少し強めの薬剤でこすってみて、それでも落ちなかったらフィルと相談してどうするか考えよう。
(薬剤薬剤っと。確かここにあったはず)
私は容器を手に取る。だが容器は妙に軽い。キャップを外してみると、見事なまでにすっからかんだった。
(ああもう、使い切ったなら補充しておきなさいよ。えっと、ストックは第二倉庫にあったはずよね)
第二倉庫は三階のはじっこにある。キッチンと同じ一階にも倉庫はあるが、妙に小さい作りになっていたので三階にもう一つ倉庫用の部屋を用意しているのだ。第二倉庫と名付けられたその部屋は、普段そこまで使わないが備蓄しなくてはならないものや軽くて三階まで楽に持っていけるものがある。
薬剤のストックは軽くて備蓄しなくてはならないものだったので三階に置いていたが、キッチンから取りに行くとなるとちょっと面倒だ。
(でも、仕方ないよね。いっちょ行ってこようかしら)
私はキッチンから出ると、使用人用の階段を歩く。一階から二階を繋ぐ階段を上って、三階へと進もうとする。
だが、階段の前で足を止めてしまった。
(もし二階の廊下を通って、お客様用の階段を使って倉庫にいけば……。その途中でナディーヌ様の部屋の前を通れるわね)
ナディーヌ様の私室は最上階である三階、屋敷の真ん中にある。使用人用の階段を使って第二倉庫に向かうルートだとナディーヌ様の部屋は通らないが、違う階段で上って第二倉庫に行けばご主人様の部屋の前を通る。
もちろん、後者の方が遠回り。わざわざそっちの道を使う必要なんてないのだが……。
(ナディーヌ様とフィルの話が気になるのよね)
今の屋敷は特にトラブルもなく平穏そのものだ。わざわざ二人きりで話さなくてはならない事なんてないはず。
そもそも本当にまずいことが起きているとしたら、フィルにだけ相談するというのもおかしい。屋敷のことを熟知しなくてはならないメイド長という役回りから、厨房での大きなトラブルや問題があれば私にも情報が来ることとなっているからだ。
なのに私が呼ばれなかったということは、メイド長である私に知られては行けないような仕事内容か、それとも、
(私生活のこと、よね)
そういえばフィルは今現在恋人がいないと、風の噂で聞いたことがある。
(それなら……)
私の頭の中ではある想像が繰り広げられる。
ナディーヌ様は普段みせないような、艶のある笑みで微笑む。
「ねえフィル。今付き合っている人、いないんでしょう? どう? ご主人様と一緒に遊んでみる?」
フィルは目を細めてご主人様の腰に手を回す。
「それでは今夜、ご主人様のお部屋で」
「あっ、駄目。今日はセシリーが掃除に来るの」
「だったらメイド長を解雇してしまいましょう。偉そうですし」
「そうね、解雇ね」
「ええ、解雇です」
そうして二人は熱い接吻をし、私には解雇が言い渡され――。
(ぎゃー!!! やめさせられちゃう! やめさせられちゃうわ!!)
さすがにそこまでの話にはいかないんだろうけど、段々と不安になってきってしまう。
(聞き耳なんて本当は駄目だし、メイド失格だけど……)
……ちょっと通るだけならセーフなのかもしれない。そう、通るだけだ。
用事があるからといった雰囲気で階段を上り、廊下を歩く。
しかし顔は緊張で固まっていたし、挙動不審になってしまっていた。
周りに誰かいたら指摘してくれたかもしれないが、誰にも見つからずナディーヌ様の部屋にたどり着いた。
ドキドキしながら通りすぎようとするが、扉が開いているのを見て足を止める。
(もしかして、もう話終わっちゃったのかな)
そういえばキッチン掃除を始めて数十分たっている。
ナディーヌ様の性格から考えると、そこまで話し続けられるほど集中力は絶対にないであろう。
(……それならそれで仕方ないわね)
残念に思いつつ、決定的な場面を見なくてすんで少しほっとする。
(ならさっさと倉庫にいきましょう)
ついでに扉も閉めようと部屋に向かった、そのとき。
「ごめんねフィル。待たせちゃって」
「いえ、構いませんよ」
ナディーヌ様とフィルの声が部屋から聞こえ、手を止める。
(あれ? 二人ともいる。もしかして、これから重大なことを話すってことかしら……!?)
なんてタイミングが良いのだろうか!
扉をしめようとした手をおろし、彼らに見つからないようにこそこそと隠れる。
しばらく沈黙した後、最初に言葉を発したのはナディーヌ様だった。
「フィル。これから話すことは冗談じゃない、本当のことだから。しっかりと聞いてね」
ナディーヌ様は深刻そうに切り出す。
緊張と不安のせいで心臓がばくばくと音をたてる。
きっとフィルもそうであろう。ご主人様の言葉を真摯に待ち続ける。
どのくらい時間がたったのだろうか。おそらく数秒であっただろうが、個人的には数分とも思えてしまう時間の後、ナディーヌ様は言葉を発する。
「あのね、取り乱さずに聞いてね。……実は、私、フィルを占ったの。例の『どきどき! ナディーヌ占い!』で。その結果が……大凶、だったの……」
(な、な、な、なんですって!!!!!!)
叫びそうになる声を必死にこらえるが、頭の中は驚きで真っ白になっていた。
(そんな……。あの、『どきどき! ナディーヌ占い』で……! 大凶……!)
『どきどき! ナディーヌ占い』とは、ナディーヌ様の驚異的な魔力によって導き出される、いわば予言のようなものである。
当たる確率は百パーセント。
この前だって、『多分だけどねー、なんか失敗しそう。どういったのかは分からないけど』という占いをいただいた翌日、アイロンを失敗してご主人様の服をこがしてしまったのだ。
そんな大失敗でさえも小吉だったというのに、大凶なんて……!
私だったら恐怖で震えて涙さえも流してしまうであろうに、なんと! フィルは!
「……はあ……」
『なんかめんどくさそうな状況だなあ』という雰囲気をだしているのだ!!
なんて罪深いのかと憤る私。しかし慈悲深い(それか無下に扱われていることに気づいていない)ナディーヌ様は丁寧に説明をする。
「特に女性関係で揉める予感がするから、そこらへんを注意してね。……何が起こるかは私にも分からないけど、とんでもないことが起きるのは間違いない。だから絶対に気を付けて」
不安そうにフィルに忠告したナディーヌ様であったが、当の本人はというと、とりあえず返事しとくかとばかりに「分かりました」と答えた。
(もう! フィルったら! もっと本気で答えなさいよ!!)
部屋に乗り込んで説教でもしてしまいたいが。
(でも、私が怒ったところで、フィルには全く響かないんだろうなあ……)
彼との仲の悪さは自他ともに認めるものだ。
そんな間柄の私にぎゃーぎゃーと忠告されたところで彼の意見は変わりはしないであろう。
もしかしたら「本当は信じてみようかと思ったけど、メイド長に言われたらなんか冷めたし、もう信じないようにしよう」なんて思ってしまうかもしれない。
(うう、仕方ない。他のコックたちに協力してもらって、女遊びを控えさせないと)
とりあえずこの場にいても仕方ないし、そろそろ戻らないと買い出しに行っているコックたちが帰ってきてしまうと考え、私はその場を静かに去った。