世界
この世界において、モノに対してほとんどの人は同じ概念を共有している。
「リンゴ」とは何か、と問われればほとんどの人は同じ果実について述べるだろう。
「右」とは何か、と問われれば
「北を正面にした時の東の方向」
「お箸を持つ方」
「あっち(右方を指しながら)」
と、人によって異なるだろうが同じ概念を述べるだろう。
「愛」とは何か、と問われれば...人によって異なるだろうな。まあこれは例外としておこう。
とにかくだ。人はみな、モノに対して同じような概念をもっている。
しかしそれは、少し妙な話では無いか。
世界に何十億と居る人のほとんどが同じ知識を持っているなど、改めて考えてみればなかなか信じ難い。
そんなことは有り得るのだろうか。
いや、有り得ないと言ったところで、現実ではもうその通りになっている。
有り得なくはない。既に有る。
ということで、こう考えてみる。
この世界の全てが、自分1人の想像だとしたらどうだろうか。
人として、生物として「生きている」のは自分1人のみであり、残りの生物全てが自分の想像により現出し、動き、自分の世界のモブとして生きているふりをしているとしたら。
いや、何も生物に限らない。
この世の概念全てが、自分の想像によるものであるとしたら、同じく自分の想像で生み出した人たちが共有していることも頷ける。
──そういや「想像」と「創造」って響きが同じだな。なんて嫌な皮肉だ。
この目に映る全てが想像で、この耳に入る全てが想像で、この手に触れる全てが想像で...
...実は映っても、入っても、触れてもいないのかもしれない。そう感じているという想像なのかもしれない。そういう感覚信号を脳に送っているだけかもしれない。
自分の認識するもの全てが想像であるなら、自分の身体や存在すら想像なのかもしれない。
ここにいる「自分」はただ感覚を受け取っているだけの存在であるかもしれない。
そうなれば、もはや現実も想像もない。
というより区別は不要である。想像で全てが創造されているこの世界においては、どうあがいても「現実世界」とやらを認識できまい。
認識できない以上、ここが「現実世界」か「想像世界」かなんて証明しようがない。
長々と論じたこの仮説は仮説のままである。
しかし、もしこの仮説が正しいとするならば。
こうして私が文を書いている世界が私の「想像世界」であるならば。
私は一体、誰に伝えたくてこの文を書いているのだろう?