東域
辺境の支配者は、書面上は辺境領主であり組織としては閉都の下部に属する。
しかし実際は弊獣社の支配下にあり、実質的な支配者は社長である。
社長はどこまでも胡散臭い男だ。
シルクハットを頭に乗せ、白いシャツに白い蝶ネクタイを締め、黒い背広に黒いマントを羽織っている。
僅かに見えるマントの裏地は鮮やかな赤で、靴も同じ色に染められていた。
整えられた髭は胡散臭さを補強し、目元は心底楽しそうに笑っている。
奇術師、或いは魔術師と呼ばれる男。辺境における実質的な支配者。
社長は両手を手錠で拘束された状態で冷たい床に胡坐をかき、骨で骨を削っていた。
こりこりと小気味良い音が鳴り続ける。
社長はついと視線を持ち上げる。
そこには一人の子供が立っていた。
「で、どうだった? 東域」
「顔は駄目だけど骨は有効だった。でももう二度と行きたくない。知らなかったら死んでた」
黒いざんばら髪と、幼さを残しながらも美しいと形容されるに相応しい顔。
黒い瞳と前髪が、白い肌とやや赤みを帯びた頬を引き立てる。
表情は無い。だが、どこか疲れた雰囲気を醸し出していた。
子供ながら辺境随一の狩人と呼ばれる元奴隷で元探索者、ミリは少しだけ顔を俯けた。
右目の前に前髪が垂れ、疎ましそうに右手で払う。
右手の甲には一筋の傷があった。血は止まっているが傷の淵が赤く腫れている。
良く見れば他にも何ヶ所か浅い生傷が見て取れる。
ミリは丸めた獣皮紙と布の袋に収められた何かを社長に投げ渡した。
社長は二本の骨で器用にそれを受け取ると、布の袋は瞬きする間に消え去り残った獣皮紙は床に広げられた。
「ふん。思ったより深くまで行けるな。で、ついでの方は見る事が出来たか?」
「一度しか見れなかったけど、予想通りだと思うよ。大猫だった」
ミリの報告を聞いた社長は、上機嫌なのか不機嫌なのか良く分からない笑い声を漏らして、再び骨で骨を削り始めた。
そんな社長を見て、ミリは小首を傾げて疑問を投げかけた。
「で、何で牢屋の中にいるの?」
☆
ポンドは東域に入ってしばらくしてから、その異様さに気が付いた。
森の匂いしか嗅ぎ取れない事に。
ポンドは解体士であり情報屋であり元暗殺者である。
狩人や探索士の経験は無く、森林の普段を知らない。
だから事前に、元狩人であり元探索士である男に森林の心得を聞いて来た。
ヤードと言う名の運搬者は、嗅覚を頼れと言った。
「森林で視覚はそれ程役に立たない。人間である以上頼りにせざるを得ないが、過信は禁物だ。触覚は多少鈍感になっておいた方が良い。精々がそよ風を感じる程度だ。聴覚は必須だがこれもまたそこまで当てにならない。森は想像以上に騒がしい」
ヤードは鋭い視線でポンドを見据えて一気にそう言った。
そして、室内で五感を研ぎ澄ます技術は邪魔になると言い切った。
ヤードは解体士以外のポンドを知らないが、その佇まいから荒事に浸かり切っている気配を感じ取っていた。
その鋭い視線でポンドをじっと見据えて、嗅覚を頼れと、そう言った。
「獣臭を嗅ぎ分けろ、森の匂いの中であれは目立つ。血の臭いを嗅ぎ分けろ、そっちはまあ、得意だろ?」
だからポンドは東域に入ってしばらく嗅覚に意識を傾けていた。
そして成程なと思った。
森林の匂いが濃い。噎せ返る様な深緑の香りだ。
その香りに慣れた頃に感じたのは自分の臭いだ。
成程これは確かに目立つ。森林の匂いとは明らかに異なるからだ。
幸いな事に、ポンドは解体士であり元暗殺者だ。
血と獣。どちらも身近だ。
そうやってしばらく進んだ所で、最初からあった違和感が輪郭を見せた。
それは森林の匂いの中に、土の臭いを意識出来る様になった頃に感じ取れた。
(獣が――いない?)
厳密に言えばそれは間違いだ。
ポンドが意識出来ないだけでそれなりに獣臭が漂っている。
ただそれは、人間の脅威にならない小さな獣達の臭いだった。
肉食の大型獣が放つ強烈な獣臭が無いため、ポンドは獣の存在を感知出来なかった。
しかし、大型の獣が極端に少ないのもまた事実であり異常だ。
害獣と呼ばれる人を襲う獣は非常に少なかった。
居ても決してポンドには近寄らない。
何かに恐怖する様に。
まるで人を襲えば東域では生きて行けないと悟っているが如く。
ポンドは立ち止まって思案する。
今ポンドは道を歩いている。
獣道に近いが、獣道とは異なる。
ポンドは知らないが、この道は人間が何度も行き来した事によって出来た道だ。
しかしポンドはこれを獣道だと認識している。
ポンドはしばらく思考に意識を割いた後、周囲の地形を目視で確認してから道を外れた。
足場と視界がより一層悪くなるが、危険度は然程上がらないとポンドは考えている。
ノットが非武装で東域に踏み入る事を可能とさせる何かがあると考えた事に加えて、社長が非武装で東域の調査をしろと言うのならそれには理由があると確信しているからだ。
そしてそもそもが、本当に非武装で東域に入ってしまった以上最早流れに身を任せる他無いのである。
(大丈夫だ、社長は無駄な事はしない。きっと、多分)
がさがさと茂みを分け入りながら傾斜を登り、目算を付けた場所へ辿り着く。
振り返って見下ろせば、道が見える。
何度も往来がある事で自然に出来た獣道程度の道だ。
良く見なければ道にも見えない。
道はポンドの視線の先で大きく曲がっていた。
森林の中から外に向かってその道を通るのであれば、ポンドのいる場所は見え難い筈だ。
傾いた枯れ木とそこに巻き付く蔦が良い障害物になる。
道が曲がっているので、ここに潜んでいれば対象はポンドに背を向ける。
(小絶ちを投げるには遠いが、回し弓なら……っとそうじゃなかったな)
昔の感覚で物を考え掛けたポンドは苦笑いしながらその場に腰を下ろした。
腰を降ろせば道は見えない。
だが、この距離であれば音は届く。臭いは……何とも言えないが。
水筒を取り出して軽く口を湿らして、枯れ木に右半身を預けた。
途端にどっと汗が噴き出してくる。
(ああ、成程。臭いか)
濃密な森の匂いに、自らの臭いが強く混ざる。
葉の香りと、土の香り。そして自分の汗の臭い。
ヤードは言った。慣れてくれば森の中に別の臭いが輪郭を持つと。
残念ながらポンドはそこまで実感出来なかったが。
ざわざわと葉が騒ぐ。微かな風が心地良い。
森林の中は思いの外涼しかった。陽光は葉や枝に遮られてその一部しか森林の中を照らせないのだ。
棒状に束ねた虫除けを取りだし、火を点ける。
湿気たそれはじじじじと音を立てながら薄い煙を吐き出し始める。
金属製の容器にそれを放り込んで、後は待つ。
台帳を見る限り、ここ最近のノットは七日置きに森に入っている。
そしてその日の内に森から出て来る。
しっかりと計算した訳では無いが、しばらく待てばこの道を通る筈である。
(夜までに出られれば良いのだが……)
そんなポンドの不安を払拭する音が聞こえた。
何かが近づいて来る音だ。道の先、森の奥から聞こえて来る。
同時に、強い血の臭い。
ポンドは姿勢を低くして、嗅覚と聴覚を研ぎ澄ます。
草を掻き分ける音、生臭い血の臭い、荒い息遣い。
音は森の奥からポンドの視線の先へ、ポンドが道を外れた辺りまでゆっくりと移動して、止まった。
(……俺の痕跡を見つけられたか!?)
ぎゅうと心臓が熱を帯びて縮み、しかし頭の芯はすうと冷える。
全身の筋肉が収縮するのを無理矢理弛緩させ、少しずつ深く息を吐き出す。
右手が無意識に絶ち類を探して腰元を彷徨う。
何年振りかの臨戦態勢に入ったポンドの耳に、噎せ返る咳が聞こえた。
随分苦しそうだ。過労働をしていた人間がする様な咳だ。
どさりと、何か重い物が地面に落ちる音が聞こえて、ぐびぐびと水を煽る音が続く。
「ぁあーっ!」
壮年の男が吐き出す様な、しかし若い女の声が聞こえた。
そしてまた噎せた。
ポンドはその声に聞き覚えがあった。ノットだ。
ポンドは呆れるやら安心するやら、しかし警戒を解き切らずに、じっとその場で静止したまま少しだけ臨戦態勢を緩める。
「やっぱり肉は捨てて行くべきか……でも折角ここまで……」
ぶつぶつと、何とも情けない声が聞こえて来る。
ノットはしばらくその場で荒い息を整えてから、よっこらせと気合を入れて、ポンドから遠ざかって行った。
ある程度音が離れてからポンドはゆっくりと、しかし大胆に立ち上がる。
視線の先には毛皮が居た。
(大猫、それも結構な大物)
解体士としてのポンドが瞬時に毛皮の正体を見破る。
背負った大猫が邪魔で運ぶ者の姿は見えないが、東域に入る狩人等ノット以外は極稀だし、それが女ともなれば尚更疑う余地も無い。
ノットが振り返ればポンドは見付かるだろう。
だが、ポンドはノットが振り返る事は無いと確信していた。
ゆっくりと、しかし無警戒に遠ざかるノットを眺めながら、ポンドは顎鬚をぞりぞりと撫でて今見た事を整理する。
結論は直ぐに出た。と言うか、立ち上がる前から出ていた。
ただそれを素直に受け止める事が出来なかっただけだ。
「ノットは、狩人としては素人?」
ノットとの距離を鑑みれば、聞こえたかもしれない呟き。
しかしノットはポンドに気付く様子を見せない。
あれ程荒い息をしていたのなら当然だ。
ポンドはノットから視線を外す。
見据えたのはノットが来た方角、道の先だ。
「何か、この森には何かがある」
意味深にそう言ったノットだが、冷静に考えればそれは当たり前の事だ。
東域には何かがある。
分かっていた事をただ確認しただけの様で、ポンドは確かに東域の何かに近付いていた。
それはそうと、とポンドは息を吐く。
張りつめた空気はとっくの昔に弛緩していた。
(嗅覚より聴覚の方が役に立つじゃねぇか!)
胸中でヤードに悪態を吐くポンドだが、それもその筈だ。
ヤードはポンドよりも素人の狩人が森に入る事等想定していないのだから。
森の中をひょこひょこ進む大猫を、ポンドは憮然とした表情で見送った。




