元奴隷
ちょっと遺跡まで行って来る。受付よろしく。
社長室の机の上には、そう記された獣皮紙が置かれていた。
ニュウは耳を澄まして冷静に辺りを見回す。
相手は魔術師或いは奇術屋と呼ばれる人物だ。
意表を突くのが趣味である。
一見して人が隠れられそうな場所は一通り探す。
飾られた甲冑の中を覗き、机の下を覗き、衣装棚を空にし、床に敷かれた絨毯を剥がし、机の引き出しを全部開ける。
これらは全て、過去に社長が出て来た場所だ。
少し前に感情的になっている神祇官を相手にしていた時は、絨毯の下から出て来た。
棚と棚の間は全て手を差し込んで、花瓶に挿された花を抜いて水を捨てて覗く。
それでも見つからない。
一時間程捜索続けた事で隠し金庫が見つかった。
開錠してみた所その中には油で満たされた硝子の容器が置いてあり、中には錆びた金属が漬けられていた。
金属の端には人の手の様な肉塊がくっついていて、そこに二本の金属板が差し込まれている。
唐突に肉塊が震えて、ニュウは一歩後ずさりした。
何故こんな物があるのだろうかと僅かに好奇心を刺激されたが、何と無く嫌な感じがしたので何もする事は無く隠し金庫の扉は閉めた。
「本当に居ない?」
疑念を敢えて口に出す。疑念がじりじりと確信へと変化する。
こんな時ぐらい、愚痴の一つくらい吐き出してもいいのではないだろうか?
そんな誘惑がぽとりとニュウの思考に落ちて来た。
「死んでくれないかな……」
ぽろりと漏れ落ちてしまった本音に、ニュウの顔から血の気が引く。
不用意な発言を漏らした時に限って、高確率で帰って来るのが社長である。
結果として、社長は書置き通り本当に外出していたし、返って来るのはしばらく先の事だった。
☆
アールは混濁する意識をなんとか維持して遺跡を彷徨っていた。
古弓も回し弓もどこかで失くした。
防具はぼろぼろで、右腕は全く動かない。
体中に噛み傷を負い、体表では血と塵の混合物が乾いて固まり、木の皮の様な見た目をしていた。
左手には刃毀れした解体絶ち。
アールはこれ一本で数多の犬を屠って生き延びていた。
色々な幸運と不運が重なってアールは生きていた。
犬が凶暴化していたのは、守護奴隷が遺跡を守っていた事が原因だ。
外部から餌が入り込む事が無くなり、犬の群れは食糧的な事情で追い込まれて行った。
遺跡内に棲息していた他の動物や昆虫を狩り尽くした犬は、複数の群れに分かれて共食いを始めた。
アールが遺跡に潜ったのは、最終的に一つの群れが他の群れを食べ尽くした後の事だった。
ヤードは優れた索敵能力と隠密性を駆使して犬を避け、どうしても遭遇してしまう場合は極力痕跡を残さぬ様に殺した。
ミリとルートに関しては犬の方から逃げた。余りに激しい戦闘に巻き込まれて何頭も犠牲を出した事が警戒させるのに十分な理由だったからだ。
アールも決して弱い訳では無かった。
右足を噛まれながらも果敢に応戦し、負傷した右腕を盾に何頭もの犬を殺した。
しかし、食糧が無くなった犬はしつこくアールを狙った。
アールは殺した犬を捨て置いたため、それは生き残った犬の食糧になった。
ヤードは犬の死体を食べるか壁の穴に捨てるかして処理していたので、生き残った犬に餌を与える事は無かった。
ミリとルートの戦いに巻き込まれた犬の死体は、細切れになって瓦礫や埃に塗れてしまうため全部は残らない。
そしてアール自体が簡単に狩れる相手ではないものの、他のどの人間よりも狩り易そうだった。
結論から言えば軍配はアールの方に上がった。
数を減らした犬はアールもまた十分な脅威と認めたのだ。
犬は他の獲物を探す事を決めてアールを狙う事を止めた。
それは餓死への片道切符であったが、犬にそれを知る術は無かった。
一方でアールもまた棺桶に片足を突っ込んでいた。
度重なる負傷はアールの寿命を後戻りできない所まで縮めたのだ。
失血と感染症により、アールは生きているのが不思議な状況だった。
「何だ、生きていたのか。可能性はあると思っていたが、少し意外だな」
そんなアールと社長が遺跡の中で出会ったのは本当に偶然だった。
社長の存在を認識出来ない程衰弱したアールを見て、社長は利用価値が無いか考える。
「首くらいは取っておくか」
そう言って社長は、手にした杖でルートの右手を痛打した。
血脂に塗れた解体絶ちはアールの手を滑り抜け、遺跡の床に落ちた。
「魔……術師!」
その痛みが切っ掛けになったのか、アールの意識が一瞬だけ正常水準まで回復した。
衰弱により箍の外れていた感情が激しい憎悪を想起し、アールは社長に掴み掛かろうと跳び付く。
社長はそれをひらりと躱し、足を掛けた。
アールは転倒して呻き、そのまま動かなくなった。
社長は杖の先でアールを二三度突き、動かない事を確認してから首の骨を砕き、床に落ちた解体絶ちを拾い上げる。
解体絶ちはとてもではないが使用に耐える状態ではなかった。
社長は鼻で溜息を吐くと解体絶ちを捨て、振り返りって言葉を投げる。
「解体絶ち持ってないかな?」
物陰から、回し弓を構えたミリがゆっくりと姿を現した。
にこにこと笑う社長に、ミリは回し弓の射出口を向ける。
その状態で社長に仕掛ける攻撃を何種類か考え――動けなくなった。
どう仕掛けても勝てる未来を想像出来なかったからだ。
ルートを相手にしていた時は運が良ければ攻撃が通る可能性はあった。
手甲を用いた回避が僅かにでも遅れればミリの勝ちが確定していたのだ。
当初、ルートとの戦闘は耐久戦だった。
どちらが先にミスをするかが重要だった。
そこに消耗戦の要素が存在し、ルートが物量では勝っている事に気が付いた瞬間、ミリは戦術を切り替えた。
ミリはルートの精神を消耗させる事に重点を置いたのだ。
ルートの残弾数を減らすと言う点ではルートの前で永遠に回避を続ける方が得策に思えたが、ミリとて所詮人間である。
永遠に回避を続ける事は不可能だ。
だからこそ奇襲と退避を繰り返す事でひたすらルートの精神を消耗させる事を選択した。
この戦術は現在も継続中である。
対して、社長はどうか。
その佇まいには全く隙が感じられなかった。
それは技術者でしかないルートと実践経験豊富な社長との差であった。
それでも隙が無いだけならまだ手はあった。
しかしミリは漠然とだが確信していた。
下手な攻撃をすれば手痛い反撃が待っていると。
ミリが隙を探るために視線を動かせば、社長は数手先を読んで要所となる場所か隙の出来そうな身体の部位に視線を流した。
そんな目に見えない攻防を数度繰り返して、ミリは追い詰められているのが自分だと悟った。
数手先を読んで動くミリだからこそ、社長の視線一つで全く動けなくなってしまったのだ。
武器を向けているのはミリだが、社長相手に先手を取る事は有利に働かないと悟った。
「君に関しては皆深読みし過ぎだよね」
ミリが自縄自縛に陥った事を確認してから、社長は意味有り気な言葉を投げ掛ける。
ミリは突破口を探すためにその言葉を聞かざるを得ない。
「皆君の事を昇魔派のミリとしか見ていないんだ。一体それはいつの話だよって、僕は思うんだけどね。奴隷から探索士になって、今はただの狩人だろ?」
ミリは無言で社長を見据える。隙を探しながら、言葉の真意を探る。
「事実はもっと単純だ。君は昇魔派の本懐を遂げるために奴隷を止めたんじゃない。単にミリバールに陶酔しただけさ」
ここまで全くの無表情だったミリの顔面が、微かに動いた。
ミリはその動揺を悟られまいと身体を硬直させる。
「君は探索士を止めて狩人になった訳じゃない。ミリバールのために狩人になったんだ。違うかい?」
誰にも悟られた事の無い真意を的確に中てられて、ミリの表情が再び動いた。
「僕に付いてきなよ。ミリバールの死体を回収する術はある」
社長はそう言うとミリに背中を向けてどこかへ歩き出した。
その背中にミリは感情が浮かび上がった顔を向け、絞り弓の射出口を床に向けた。
「あー。それの首だけ回収しておいてくれ。使い道があるかも知れないから」
背中を向けたまま投げられた社長の指示を受けて、ミリは無表情で解体絶ちを抜いた。




