8. 修羅場の裏でも通常業務は遂行しなくてはいけません
「………………………………」
飛び交う怒声と鳴り響く電話に唯は無言で目を瞬くとゆっくりと音を立てないように金属の扉を閉めた。その途端、エントラスには静寂が戻る。
“遮音性凄いな~、この扉”
事務所内のあれだけの騒音を扉1枚で防いでしまう扉に現実逃避気味に尊敬の目を注ぎながらも唯は自分のズボンのポケットから携帯を取り出して時刻を確認する。
「………まだ11時か……」
断言してもいい。きっとこの支社の所長はまだ夢の中だ。一緒に育っていた時期はよく“吸血鬼かお前は!”と事あるごとに怒声を発して布団をはがしていた身としてそれは断言出来る。弟の朝の弱さを心の内で平謝りしつつ、唯は盛大にため息を吐くと額に手を当てて、この支社の所長であるはずの弟の番号を鳴らす。イライラとした舌打ちをしながらかけ直すこと十数回目。ようやく相手が出る。
『なに……?』
「何じゃない。悠。今、どこ?」
所長の勤務時間は事務所開所時刻の9時から18時が定時。唯が相模支社に居た時からそれは変わったことはなく、上司だった波脇が遅刻してきたこともない。携帯を思わず、力の限りに握りしめているとようやく目が覚めてきたのか弟から返答が返る。
『家……』
その返答に唯は深い深いため息を吐く。予想通りすぎてため息しか出ないとはこの事だろう。
「支社がトラブル抱えて、みんな困ってる。とにかく早く来い」
『……なんで?』
「悠が支社長だからかな。とにかく、1分1秒でも早く来なかったら、二度と悠の我が儘は聞かない。分かった?」
諦め半分と弟の責任感のなさにため息を吐きながらそう説教するとしばらく無言だった相手ががさがさと動き出す音が携帯越しに聞こえ出す。
『すぐ行く』
「すぐ来て。あ、でも顔を洗ってくるのと着替えてから来てよ」
『ん……』
嘆息とも吐息ともつかない返答に本当に分かっているのかと思いながら唯は口を開く。
「じゃあ、切るからね」
そう言い切ると唯はプツリと通話を切って、ため息を吐く。そう……異動前の自分の状況に忘れてはいたが、自分とは違い暗殺者として優れている自分の弟は“暗殺技能”以外には何ら興味を持たない欠陥人間だった。そんな彼をわざわざ所長に押し上げないとならない組織の人員不足にも物申したい。
「頭痛いな~、もう」
まだ着任もしていないのにすでに元の支社に帰りたい気持ちに襲われた唯はため息を吐いて、天井を見上げた。
「失礼します……」
弟の仕出かした事態に罪悪感を覚えながら唯が再び、扉を開けると事態に変化が生じていた。
「所長に連絡通じました!」
涙目で受話器を抱えたまま涙ぐむまな名も知らない女性の事務員さんに申し訳なさを感じながらも唯はその背後を素知らぬ顔ですっと抜ける。
「本当か!」
「はい!すぐに来て頂けるとのことです!」
女性の事務員さんの言葉にホッとした顔を晒した50代近くの事務員も支社の責任者と連絡がついたことにホッとしたらしい。
“うちの弟がすいません……”
言葉には出せないがそう心の中で平謝りした唯は死んだ魚のような目で一際、綺麗に整頓された机のすぐ傍の床に持ってきたスポーツバックを置く。そして流れる動作でパソコンを起動させると自身の所属番号を打ち込む。
「よし……」
目的の画面が開いたことを確認して唯は自分が必要としている画面が起動しているのを確認して、コンセントからパソコンの充電器を抜くとそのままもう1つの窓口に静かに移動を開始する。その際に自身の所属が記載されたカードを使用して鍵BOXに番号を登録してもう1つの窓口を開けられる鍵を取り出すのも忘れない。
「おはようございます。お待たせしました!」
相模支社でもよくやっていたようにそう言って金庫室と一体化した部屋から廊下に顔を覗かせる。
「うおっ!ビックリした!」
唯が小さな小窓から顔を覗かせると事務所の修羅場に対応はして欲しいが言い出せずに居た面々が肩をびくつかせる。その様子に人好きする笑顔を浮かべた唯は“あはは”と笑う。
「なんか事務所が修羅場ってるから対応して欲しいけど言い出せない人いるかな?と思って」
そう言えば、紙をもったまま手持ちぶさたのまま事務所の修羅場が収まるのを待っていた面々が苦笑する。
「おう!その通りなんだよ。今日までの交通費の精算でさ、期日すぎると駄目だから困ってたんだよ」
そう言って紙をふる男性に唯は笑いかける。
「大丈夫ですよ。ちゃんとお金はお支払しますから」
そう言って手を差し出せば、期日に困っていた男性が紙を差し出す。
「ありがとな。兄ちゃん」
「お互い様だから、気にしないで下さいね」
慣れた手つきで専用ソフトに差し出された紙にかかれた駅を入れれば、実近で仕事に出ていた場所と称号してくれる優れものなのだ。しかも、それの支払いを確定すれば二回請求しようとしてもエラーが出る仕組みになっている。
「はい、どうぞ」
確定した金額を金庫から取り出すと見た目はガテン系の男性に渡す。
「ありがとな」
「いえいえ~」
そう唯が首を振ればお金を受け取った男性はそう言えばと唯の顔を見て首を傾げる。
「そう言えば兄ちゃんみない顔だな?」
その問いかけにに唯はにっこりと笑う。
「今日から着任しました。若輩者ですがよろしくお願いいたします。さ、他の方も用事があれば何でも言って下さいね」
自己紹介も兼ねて声を張り上げれば行き場もなく、事務所から見えない場所に溜まっていた面々は金庫室と一体化した小窓に殺到する。
「あの、今日これから仕事なんですが?」
「何か不安がありましたか?」
不安そうな表情で寄ってきた少女に笑顔で問いかければほっと息を吐いて口を開く。
「今日の仕事用の弾丸申請したいんです」
「すぐに手続きします。終わり次第、武器課に行って下さい」
「はい」
少女に力強く頷きながらも唯はこちらを不安そうに見る面々に頷く。
「我々事務課は皆さんをサポートするのが仕事です。遠慮しないで下さいね」
その言葉に少女やガテン系の男性以外にも事務所が修羅場になったお陰で機能せず、困っていた面々は見慣れない新しい人員の座る小窓に殺到した。
とある俳優がこう言った。
「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだと」
しかし、今ならわかる。
「大きな事件が起きようが通常業務は回さないといけないんだ」
が足りないことに。
「はぁ…………疲れた」
「お疲れ様でした」
結局、事務所の修羅場が一段落ついたのは日も落ちた午後8時だった。朝から起きたトラブルに1日で何歳か老けた風情の男性は疲れたように自分の席に腰を下ろす。
“個性的な所長を支えるには俺では荷が重すぎる”
1週間早く、第2席よりも着任した所長はまだ年若かった。
『よろしく』
それ以外はあまり話さないこともあり、コミュニケーションにも悩んでいた三河安城支社第3席丸山祐二は前任者の所長と第2席の引退に伴った人事異動に頭を悩ませる。今日は何とかなったが今日みたいなことが続いたら確実に自分の胃はもたない。そんな未来を想像した祐二はため息を吐くと今日1日、一緒にかけずり回っていた事務員達に労いの言葉をかける。
「今日はお疲れ様。疲れたと思うから、今日は必要業務だけやったら上がっていいぞ」
『はい』
今日1日の修羅場で神経を擂り潰した面々が苦笑しながら自分の言葉に頷くのにため息を吐いた祐二はそこで“はたっ”と気づく。
「そう言えば、今日通常業務の受付やったの誰だ?」
いつもなら修羅場でも、事務対応を必要とする面々が痺れを切らして突撃してくるが今日はそんな事がなかったのだ。自分の問いかけに“そう言えば”と口した面々は顔色を変えて普段は自分が担当してる業務を開いてはまた一人、一人と目を見開く。
「終わってる……」
誰ともなく呟いた言葉に全員が顔を見合せて青ざめた顔色で頷きあう。
「誰がやったの?」
今日の修羅場は規模が大きく、三河安城支社既存の事務員達はその処理に奔走しており誰も今日の通常業務の仕事をするような余裕はなかった。
「座敷わらし……」
誰かが呟いた言葉に全員が顔を見合せてごくりと唾を飲み込む。
「まさか!」
「いや……でも!」
自分達に気づかれずに仕事を終わらせた人物を特定出来ずに事務員達が別の意味で慌てふためく中。
「よく見たら責任者は“古坂唯”ってなってますね」
夜の事務員として三河安城支社に籍を置く大学生の紺野仁貴は慌てる事務員を余所に冷静にパソコンを覗き込んで必要業務にすべて同じ名前が刻まれているのを指摘する。
「こんな名前の方、うちにはいませんよね?誰ですか?」
『さぁ?』
紺野の指摘に三河安城支社の面々は恐怖体験を経験したかのように激しく首を振るのみだった。
そんな最中……
「ああ~、疲れた」
新たに自分が責任者として着任する支社が自分の仕事によって恐怖体験をしているとも知らない唯は新しく準備された自分の部屋に帰りついていた。ふらふらと段ボールだらけの部屋に帰りついた唯は帰り道にあったコンビニで適当に今日の晩御飯として仕入れた弁当の袋を箱上におくとスポーツバックを床に放り出してベッドに倒れこむ。
「はぁ…………」
そうため息を吐いて前の支社の面々が作ってくれていたらしいベッドに顔を埋めてため息を吐く。
「疲れた……」
そう繰り返しつつも一人で今日の仕事をこなしきった唯は口元を緩めた。
いつもお読み頂きましてありがとうございます。誤字・脱字がありましたら申し訳ありません。少しでも楽しんで頂ければ幸いです。