ありふれた線香花火の最後
こんな日が来ることは分っていた。
今日は金曜日で部活があったから、家に着いたのは七時過ぎ。それから夕食を取ってお風呂に入って自分の部屋に戻った。机上の携帯を手にして電源を点ける。起動の時間が長いことに少しイラっとすることもあるが、今日一日の疲れがぶり返してきた今、その時間は心にゆとりを与える。パスワードを解き、私は新着メールが届いていることに気付いた。開くと、彼からのものだった。珍しい。ずっとSNSでのやりとりが多かった。そっちの方が楽だし使いやすい。しかしわざわざメールで送信してきたということは、きっと、そういうことなんだろう。
――明日、会えますか。
それだけだった。あえてか無意識か、文末が敬語になってる。こんな短い文面なのに哀しく思ってしまう。もうそういう局地まで来てしまったのだ。何もかもが色褪せて見えてしまう。あの頃には想像もしていなかった未来に、私は、私たちは今立っている。
思い耽るのは返信をしてからにしよう。彼も待っているはずだ。
明日も部活だった。私の所属している吹奏楽部は八月上旬のコンクールに出場する。あと二週間も無い。だから、忙しい毎日を繰り返している。明日もひもすがら練習だった。会えないのが現実だった。デートの約束だったとしたら「ごめん、会えない。また今度ね」と送り返すのだろう。でもそうじゃない。むしろ逆の用件だ。だからこそ会わなければいけない気がする。そこから逃げてはいけない気がする。
唇を噛み締めて、私は指を動かす。
――六時半過ぎからなら会えます。どうしますか?
自然と私も敬語になってしまう。無情な文面がそこにはあった。先がふやけた人差し指で送信ボタンをタップする。
彼からの返事はすぐに届いた。
結論、私たちは明日の七時頃に公園で会うことになった。公園とは、私たちがよく訪れていた場所で、時間が余ったらそこでおしゃべりしてた。私が彼に告白したのも、初めて手を繋いだのも、初めてキスを交わしたのも、あの公園だった。私たちの原点とも呼べるような聖地だった。
ならば、私たちの最後も同じ場所に葬るべきなのだ。もう苦しいのは終わりにしたいと望む気持ちもあったが、明日が永遠に来なければいいのに、と願う気持ちの方が圧倒的に強かった。
やっぱり私は、彼のことが大好きみたい。
翌日、吹奏楽部での練習には熱心に打ち込んだ。抱えた悩みも憂鬱も忘れて、ひたすら楽器を奏でた。私はフルートを吹く。昔から興味があって中学から始めた。高校になってからもやめずにフルートを吹き続けている。今となっては唯一の精神安定剤かもしれない。音楽に包まれているとき、私は妙に安心する。安心に似た喜びがあるといえばもっと近づいた表現かもしれない。音楽は偉大だ。改めて思い知らされる。
夢中になれば時の経過は早く感じるもので、約束の時刻は迫っている。部活終わりの帰り道、同じ吹奏楽部の友達と話していても頭の中はこれからのことばかり。「大丈夫?」と心配された。何でもないふりをして私は強がる。その後、メンバーとは別れた。じゃあね、と手を振り合って。私は、一人になった。
――孤独は山になく、街にある。
そんな言葉を耳にしたことがある。山の中で一人生活していても孤独は感じない。人と人とが出会えば、いつかは別れてしまう。多くの人間が交錯する街の中でこそ、孤独は生まれるということだ。
その通りだと思った。
一人でいるとき、孤独は感じない。過去を振り返れば、私にもいくらだってある経験だ。
彼のことだってそう。一人でいるときには決してなかったが、彼に思いを馳せてからは毎日のように孤独を覚えた。もちろん、二人でいるときは楽しいし、幸せでもある。ただ、帰り際というのはどうしても寂しくなるものだった。
でも、それはまだ軽かった。耐えられる範囲のものだった。近頃、大きな孤独を抱え続けてきたのだ。帰り際寂しいなんてかわいいものだ。
ああ、切ない。
どうしようもないのだろうか、この感情を抑えることは。
こんな孤独を味わうくらいなら、好きにならなければ良かったのに、と昔の自分を責める。そんなことしても何にもならないのに。ただただやるせないだけなのに。迷宮の中を彷徨うことになった原因は、そう、彼だった。
そもそも彼と付き合うことになったのは、私が告白をしたからで、でも正直、その告白は失敗に終わると諦めていた。なぜならば、私は何となく知っていたから。
彼が、他の子を好きだってことを。
なのに。
彼は私の告白を承諾した。瞬間、涙が出るほどの嬉しさが込み上げたが、その日の夜には本当にこれで良かったのか、と自問自答に暮れていた。彼の好意は私に向けられたものじゃないはずなのに、どうして彼はオッケーをしてくれたのだろう。後で分ったけど、それは彼の優しさだった。苦しいほど切ない優しさだった。
告白してからというものの、彼とは楽しく過ごしていた。お互い笑顔でいれたし、沈黙の時間も嫌じゃなかった。自然な流れで手も繋いだし、やがてはキスもした。どこまでも同じような幸せな日々が続くと信じきっていた。小さな心配なんて忘れられるほど、幸せだった。
でも――。
忘れることができても、また思い出すのが定めだった。心配なんて簡単に消せるものじゃない。沈んだ感情は、ゆっくり時間をかけて心の岸辺にまで浮かんでくる。半年を過ぎたくらいから、私は疑わずにはいられなかった。
彼はまだあの子のことが好きなんじゃないか――。
一度家に帰るのも遠まわりになってしまう。それに、彼より先に行って気を落ち着かせたかったから、そのまま公園へと向かった。
しかし驚くことに、私よりも先に彼はいた。約束の三十分前に来るなんて、彼も私と同じなのかもしれない。半年も付き合えば似たもの同士になってくるようなことを聞くが、こんなときまで一致してしまうと笑うしかない。吐息のような私の笑い声に、彼が気付いた。
黙ったまま互いに見つめ合う。その間を一日の終わりを告げる初夏の風が通り抜けていく。妙に気持ち良かった。少ししてから、彼が手に持っていたものを示した。
「花火、やらない?」
彼の右手にはコンビニで売っているような線香花火セット。今から二人でその量を?と思ったが、きっと線香花火片手に話をするつもりなのだろう。断る理由は無い。流れに身を任せることにした。うん、と精一杯の声で頷く。用意周到で、彼の足元には水の入ったバケツが置かれていた。
その後準備を終えると、私たちはためらいながらも線香に火を灯す。地面に立てたロウソクの炎に線香を近づけて着火させた。
ぱちぱちぱち、と勢いよく音を立てて輝き出した。思わず私たちは感嘆の声を漏らす。キレイだね、と言ってみる。そうだね、と無愛想な低音が返ってきた。
よくよく考えてみれば、線香花火は久しぶりだった。その久しぶりの体験がこんな重いものになるとは。私の表情から笑みが消える。少し前までなら、花火の美しさ、彼との時間、空間にずっと心を弾ませていただろう。
新しい一本を袋から取り出し、再び火に近づける。それを無言のまま何度か繰り返した。いつ切り出すんだろうと私は不思議がる。
「ねえ」
我慢できなくなって、私はついに訊くことにした。
「やっぱり、あの子のことが好きなの?」
はっきりさせたかった。その事実の真偽を。彼が本当に思っている相手は、私じゃなくてあの子なのか。なら、どうして私と付き合ったのか。これまでの毎日、彼の瞳には私はどう映っていたのか。全てを明らかにしてもらいたかった。
私はじっと彼の横顔を見つめる。瞼を閉じた彼はやがて口を開いた。
「・・・ごめん」
その一言は私の胸の奥にどっしりと響いた。そして余韻だけを残してどこかへ消えていく。切なさや儚さといった虚無感が後から湧いてくる。
「ねえ」
「・・・ん?」
「じゃあさ、なんで、私と付き合ったの? 私と付き合ってこれたの?」
「・・・自分を好きでいてくれる人は大切にしなきゃいけないだろ」
「そういう優しさはいらないの!」
私は声を荒げた。何故か激しく息が上がっているのに私は気付く。
「・・・今日くらいさ、本音で話そうよ。嘘つかないでさ、優しさとか捨ててさ、全部ぶつけよ」
ちょうど火が消えた。しばらくお互い静止したままだったが、ヒュルルと鳴く風を浴びて、二人はほとんど同時に立ち上がる。意識しているわけじゃない。だけど、悔しいことに動作が揃ってしまう。以前だったら、失笑して和やかな雰囲気になるだろうに。
手を動かしながら、彼は語り始めた。あくまでも花火はしていたいらしい。
「結局さ」
「・・・うん」
「好きって気持ちは、上乗せだと思うんだよね。特に男子は」
「え?」
「いくらでも積むことはできるけど、ちょっとしたことで削れたら、違う好きって感情が露になる、みたいな」
つまり、彼が私に対する愛情は、あの子に対する愛情に上乗せされていたってことかな。それで風化して(もしかしたら外的営力かもしれないけど、いやきっとそう)、表面が削られて、あの子への気持ちが露出してしまった。
「告白してくれたとき、すごい嬉しかった。だって、こんな僕のことを好きになってくれる人がいるなんて、って思ってたから。その喜びもあったし、あとあいつのこと諦めたかったから」
「あいつ」とはあの子のことだろう。片思いを終わらせたかった、だから私と付き合ったってことなのね。
「君は、良い人だよ。本当に。心からそう思う。色々気付いてくれるし、笑ってほしいときに笑ってくれるし、一緒にいて楽しかったし。だけど、好きって気持ちはそんなに単純じゃない気がする。確かに君のことは好きだった。でも・・・」
その後は聞きたくなかった。彼も言いたくなかったらしい。それを優しさとは思わないことにした。今日は優しさとかそういうのは全部無しにしようと決めたのは私だ。
「・・・だから、さ」
彼は今日一番重そうな物言いだった。耳をふさぎたくなる衝動に駆られたが、私は線香花火を離さなかった。
「僕と、別れてほしい」
彼と目が合った。でも、私はすぐに逸らす。花火の火に揺れる虚空の一点に視線を注ぐ。彼も同じようにした。
私の身体は、彼の言葉を受け入れるのを全面的に妨げようとしている。たった一言で済むはずなのに、こんなに喉に詰まるわけがない。頑張って、頑張って「うん」とだけ言った。もう、これで終わりなんだ。
「ごめん」
彼はまた謝った。今日何度目だろう。そんなに謝るなら、別れなくてもいいのに。無論そんなことは言えず、私は最後の悪あがきをする。
「一つだけお願い聞いて」
「何?」
「最後の一本まで、一緒にいて」
「・・・うん。分ってる。最初からそのつもりだった」
実は驚いていた。自分に。そんなお願いをするなんて私も女子なんだってことに気付いたから。私も恋する乙女だったんだ。ちゃんと恋してたんだ。
こんなに彼のこと好きだったんだ。
最後になって、当たり前で大事なことに気付く。何かが終わるとき、人は当たり前を実感するんだろうな。そのときくらいしか、当たり前ってなかなか見えてこない。難しいな、当たり前って。
それから会話一つせず、時は流れた。空の群青色も目立ってきた。
辺りは静かで、線香花火の音だけが響く。今の私には、その炎もくすんで見えてしまう。まるで火花が叫んでるように聞こえてしまう。
そして、ついに最後の二本が残った。私と彼は特に何の反応も示さず、お互い一本ずつ持つ。
何も変わらないはずなのに、今までで一番輝いて見えた。最後の一本って意識するのとしないのとでは、やっぱり印象に差が出るのかも。
え――。
何だろう、この現象。
今、私の頭の中で映像が流れている。これまでの彼との時間や思い出が、走馬灯のように流れていく。
あんなに笑ったのに。
あんなに楽しかったのに。
あんなに優しくしてくれたのに。
私たち、幸せだったのに。
何かが頬を伝った。紛れもなくそれは涙だった。絶対に流すまい、とずっと心に決めていたのに。もうやだ、自分が嫌になる。強がっても強がっても、彼を好きな私以外なれなくて、いっそう早く振り切りたいのに、それをできる兆しさえ見つけられなくて。
視界に何かが入ってきた。それは彼の手に握られたハンカチだった。
優しさは捨てようって言ったのに。
優しくしないでよ、嫌いになれないじゃん。どんどん好きになっちゃうじゃん。
気付けば、私は自分の頭を彼の肩の上に乗せていた。本当は優しくしてもらいたかった、甘えたかったんだと思う。だって、女子だから。
温かかった。その温もりにまた涙が溢れてくる。彼からハンカチを受け取ったが、拭うことはしなかった。何となく、そのままにしておきたかった。流すだけ流したかった。
彼は何も言わない。そのまま二人で二つの光を眺めていた。そのとき私は永遠を覚えた気がした。彼の光がまず消え、私の光もやがて消えた。夏の夜の静けさが到来し、私は幻から現実へと引き戻される。目の前に広がる暗がりに、私は頭を起こし、ただただ呆然としていた。
隣の彼は立ち上がり、片づけを始めた。片手にごみ、もう片方にバケツを持ち、周囲を見渡した後、彼は歩き出した。私は何か言おうとした。でも、何を言っていいか分らなかった。頭の中は真っ白で、思考回路は完全に停止している。そのまま後ろから抱きつきたかった。でもその欲は欲のままで、身体は動きそうになかった。
ためらう私の背後(とはいえ、すぐ後ろじゃない。私の背中のずっと遠く)から、轟音がした。私も彼も驚いて振り向く。そこには花が咲いていた。一筋の閃光が闇を切り裂き、大きな花を咲かせたのだ。それは余韻を残しながらすぐに空気に溶けていく。
花火だった。近くで花火大会でもあるのだろう。
もしかして、彼が――。
最後の彼の優しさかもしれない。今日花火大会があることを知っていた上で、花火の見えるこの場所を選んだのかもしれない。そうじゃなくても、何でもない毎日を輝かせてくれたお礼に「ありがとう」は言いたかった。
しかし、振り向いた先に彼の姿は無かった。無情な夜風が私の心をすり抜ける。
轟音と鮮やかな光と共に再び花火が打ち上がった。その美しさを味方にして、一体どれほどの男が女を口説きに臨むのだろう。願わくば、今度は彼から口説かれてみたかった。
待つことにしよう。それくらいのわがままは許されるはず。待ち続けて、彼とまた一緒になりたい。
想いの灯が消されるまでは、私はずっとそれを祈ることにした。
恋の終わりとは、そういうものだ。
了