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徒花か、返り咲きか。


――あ、お花屋さん。

――キレイな花がたくさんあるね。

――私ね、この花が好きなの。

――カスミソウ?

――うん。「幸せ」とか「永遠の愛」って意味があるの。

――ロマンチックだね。


       *


 倦怠期ってどんなものだろう。

 知のバイブル、広辞苑によれば――互いに飽きてわずらわしくなる時期。よく付き合って三ヶ月目に襲来すると聞く。俺の周りでも、三ヶ月目で破局の路を辿るカップルは少なくない。倦怠期を乗り越えて、安定した恋愛関係を築いている二人ももちろんいるが。まあ、厄介モノなのだろう。

 そういう俺も彼女と付き合い始めてから、お、早いものでもうすぐ三ヶ月だ。問題の、三ヶ月だ。今のところ、特にこれといった兆しは見受けられない。少なくとも、俺は彼女に飽きたとか全く無い。一方の彼女も大丈夫のはずだ。昨日一緒に帰ったときも、変わらない笑顔で接してくれた。

 よしよし。

 結局、噂は傾向でしかないのだ。はっはっは。ざまあみろ、倦怠期。どうやら俺たちの関係を悪化させることはできなかったようだな。


 ・・・が、世の中はそんな甘いものじゃなかった。


 きっかけはひょんなことだった。

 俺の些細な嫉妬から、深い溝は生まれたのだ。最近、彼女と他の男子が一緒にいるところをよく見かける。二人で喋っている場面を。

 話し相手が欲しいなら、俺がいるのに。

 うやむやにするのは良くない気がして、その夜、思い切って俺はSNSで訊いてみた。送信するときには妙に指が震えた。

 それからというものの・・・。

 思い出したくもない。初めて俺たちに訪れた不幸せなひととき・・・。お互い言いたいことの言い合いで、最後は未読無視というオチ。躍起になって心にも無いことを言ってしまった。

 がっくりとうな垂れた。左手で髪を掻き毟り、ため息一つ。

 時計の針の音が、やけに響いて聞こえる。

 携帯の画面は消灯されて、そこには闇があった。


 それを折りに、俺たちは会話をすることもなければ一緒に帰ることもしなかった。同じクラスだけど、お互い近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。

 さらに、嫌な噂を聞いた。どこからそんな情報を得たのか知らないが、三、四人の女子の会話を俺は盗み聞きしてしまったのだ。

 中学時代、彼女は四人もの男子と付き合っていたことを。

 ただの噂に過ぎない。それでも気にせずにはいられなかった。

 確かに「高嶺の花」という表現が似合うほど清楚で愛らしい彼女だ。言い寄ってくる異性は少なくないのかも。三ヶ月付き合ってみて分ったが、彼女は優しい。良くも悪くも。気が利くし、包み込んでくれるような温かさもある。ただ、何でも受け入れてしまうのだ。男子に付き合おうと告白されたら断れない性格なのだ。好きでも嫌いでもまずは受け入れる。きっと、そういう人なのだ。もしかしたら、俺の告白も・・・。


 家に帰り――。

 虚無感に苛まれながら、俺は自室に吸い込まれる。

 ベッドに腰かけ、何をするわけでもなくボーっと・・・していても、彼女のことが頭から離れない。気になって仕方が無かった。

 携帯を取り出す。

 別に大した訳は無いが、昨日のやりとりを見返した。人差し指で遡っていく。

 酷いなあ。酷い言葉遣い。自分でも嫌になるほど。

 改めて見返してみて分ったことだが、酷い言葉を並べているのはほとんど俺の方だけだった。彼女はそれに反論したり、なだめたり、良い方向へと導こうとしていただけだった。

 もう自分が嫌いになる。

 どうして、彼女はこんな俺を受け入れたのだろう・・・と、彼女への不信感も湧き出てくる。いっそう切り離そうかと思いかけ、俺はため息をついた。

 何でこうなっちゃったかなあ。

 瞼の裏に疑問符を並べても何も解決しないことは分っている。何もしなければ、何も変わらないことも。ただ、頑張れる気がしなかった。頑張ろうと身を奮い立たせることもできなかった。

「・・・倦怠期か」

 まさか自分に来るとは思わなかった。対岸の火事じゃなかったわけだ。

 その言葉の重みのせいか、疲れがどっと沸いてきてそのまま後ろに倒れた。柔らかいベッドが俺の身体を包んでくれる。何のやる気も起きなくて、ただただ身を委ねる。久しぶりにこんなことをした。そう、久しぶりに。今までは毎日と言っていいほど当たり前な温もりに包まれていた。何か辛いことがあって心のどこかに穴が開いたとしても、そこを埋めてくれる温もりがあったのだ。

 たかが俺の些細な嫉妬で、今の俺の手から当たり前が消えた。

 自分の部屋の天井を焼き付けるだけでも疲れてきた。瞼を綴じる。そして、これまでの、つまり三ヶ月間のことを回想し始めた。ゆっくりと。古い日記をめくるように。

 

 始まりは俺の一目惚れだった。

 高校に進学して、彼女と同じクラスになった。もちろん、最初はお互い知らない間柄だったが。第一印象は、品があって清楚なイメージ。でも、話してみると意外と面白い人で、そのギャップに俺はさらに惹かれた。

 入学から二ヵ月後、俺は告白をした。こうと決めたら猪突猛進するタイプなのだ。ためらってチャンスを逃すくらいなら、どんな結果に終わろうと自らの手で掴みにいきたい。噂では彼女のことを気にしている男子も少なくなかった。だから、高嶺の花の彼女を自分のものにできるなんて無謀なことだとは思っていたが、俺は迷わず伝えた。ありのままの思いを。

 一瞬、彼女の言葉が理解できずにいた。受け入れてくれた事実を反芻できずにいた。思わず、「本当ですか!?」と訊いてしまったくらいだ。

 嬉しかった。素直に大喜びをした。その夜は今までに無いほどの安眠ができた。恋の力はすごい、そう実感した明くる朝だった。

 デートの数はまだ少ない。そりゃあ、三ヶ月だ。片手で数えても二本指が余る。頻度でいえば、一ヶ月に一回のペースか。これが多いのか少ないのかは分らない。でも、その一回一回に強い思い出があることは確かだ。水族館にも行ったし、少し奮発して人気のレストランにも行った。今でも鮮明に思い出すことができる。

 初デートは映画を観に行った。お互い見たい映画が共通していたから、そうしようと二人で決めたのだ。待ち合わせ場所で待っているときの緊張は忘れることができない。それも、大切な思い出のワンシーンだ。

 手も繋いだ。白く柔らかい手だった。最初はどれくらいの強さで握れば分らなかった。だから、ゆっくりゆっくり握ったことを思い出す。


 ちゃんと謝りたい。

 その結論に辿り着いた。一方的に意地張って関係を悪化させてしまったのだ。もう一度やり直すためには俺が動くしかない。

 もう迷わない。こうと決めたら猪突猛進するタイプなのだ。


 翌日、帰り道――。

 俺は彼女を誘って、帰りにゆっくり話がしたいと願い出るつもりだったが、時間を作れず、彼女の姿を見かけることもなかった。だから今の俺の足取りは重かった。虚ろな目でボーっとしていたせいで電柱にぶつかりそうになった。

 そして導かれるようにある場所に辿り着く。

 花屋だった。

 その景色を目にした瞬間、いつかの記憶が蘇る。そう、あれは初デートの日、帰り際二人で見つけたあの花屋だ。他愛もない会話しかしていないと思う。でも、一つだけ覚えていることがあった。

 彼女はカスミソウが好きってこと。


――私ね、この花が好きなの。

――カスミソウ?

――うん。「幸せ」とか「永遠の愛」って意味があるの。


 幸せ・・・。永遠の愛・・・。

 不思議な感覚だ。何かが糸を引いているような、何かに呼ばれているような。

 かつての記憶と今目の前にある花屋。この二つが俺を、この俺を・・・。


「え、どうして」


 女性の声。

 その声のする方に首を回す。彼女がいた。きょとんとした顔で佇む彼女がそこにいた。

 時が止まった気がした。

 ランドセルを背負った子どもたちがはしゃぎながら間を通った。

 その黄色い声に、短い永遠は終わりを迎える。

 彼女は振り返り、歩き出した。

 え・・・。ちょ、ちょっと・・・。

 声にならない声が空しい。でも、この機会を逃したらダメだと悟った。

 やり直すなら、今が正念場なのだ。

 足早に駆け出し、花屋へと入った。

「あのう、カスミソウってありますか?」


 用事を済ませ、俺は彼女を探す。

 もう姿は見えなかった。どこへ行ったのだろう。

 走り出す。

 息を切らして、汗を流して、俺はとにかく走った。

 太陽がビルに隠れる。

 都会の喧騒を風が宥める。

 そして、俺はついに見つけた。彼女の背中を。

「待って!」

 俺の呼び止める声に、彼女は立ち止まる。少しためらいがちに振り返った。

「渡したいものがあるんだ。・・・これ」

 俺は手に持っていたカスミソウを差し出した。さっき急いで買った花束だ。彼女は静かにそれを受け取る。

「前、好きだって言ってたよね」

 彼女は頷く。少し困ったような驚いたような顔をした。

 短い沈黙の後、彼女は呟くように言った。

「ねえ、どうして、あの店に行ったの?」

「え、いや、何となく。君は?」

「たまにあの道を通るの。少し遠まわりになるけど、花を見たい日はいつもあの道を通ってる」

「そうなんだ」

 彼女の口調はどこか冷たい。少し気まずい雰囲気になり、その空気の重みに俺は打ちひしがれそうになる。でも、もう逃げないって決めたんだ。

 俺は叫ぶように言い放つ。

「ごめん!」

「え?」

「俺、ずっと意地張ってた。でも、この数日、ずっと君のこと考えてて、忘れられなかった。全部俺が悪いんだ。ホントに、ごめん」

 俺は深々と頭を下げた。彼女の表情は見えない。見たくなかった。彼女がどんな顔をしていても、今の俺には耐えられないような気がした。言葉を並べるだけで精一杯だったのだ。

「私ね」

 彼女が口を開く。

「これまで四人の人と付き合ってきたの」

「え」

 あの噂は本当だったのか。

「でも、どの人ともすぐに別れた。三ヶ月くらいで。どうしてか分る?」

「え・・・ごめん、分んない」

「相手が私を好きになったとき、私はその人のことは何も知らない。相手が私に告白してきたとき、私は初めてその人のことを知ろうとする。好きになろうとする。相手のこと分ってきて、好きになってきた頃、もう相手の気持ちは冷めかけてる。きっと器用な人はそこから立ち戻れるんだと思う。でも、そういう人たちばかりじゃない。私は後者。だから、付き合ってもすぐ別れちゃうんだよね」

「そうだったんだ・・・」

「でも、あなたは謝ってくれた。あなたが悪いわけじゃないのに。立ち戻ろうとしてくれた。だから私ね・・・」

 唾をごくりと飲む。

「すごい嬉しかった」

「・・・そっか」

「こんな私だけど、これから一緒にいてもらえる?」

 その瞬間の彼女の表情に俺はときめいた。満面の笑み、ではない。ずっと彷徨っていた暗いトンネルの出口を抜けて新しい景色を目にしたときのような、未来への希望をそっと抱かせてくれるような笑顔だった。

 そして、俺は一つの欲に駆られた。迷いとかためらいとか、そんなものは風に乗せてどこかへ飛ばそう。それを促すように、夏を名残惜しむ温い風が通り過ぎた。

 俺は彼女を抱きしめた。

 上手く抱きしめられたかは分らない。ぎこちなかったようにも思う。でも、俺はただ心通った喜びを分かち合いたかった。不器用といわれたっていい。俺は真っ直ぐで在りたい。何かをするときも、何かを決めるときも、そして、好きな人への思いも。

「これからも一緒にいよ」

「うん・・・大好き」

 吐息混じりに囁いた彼女の言葉は耳を通り、鼓膜を振動させ、脳に辿り着き、心臓を膨れさせる。胸が高鳴るのを覚えた。

 ずっとこうしていたかったが、ここは道端だ。惜しみながらゆっくりと身体を離す。目が合ったとき、お互い同時に逸らして顔を赤くした。

 何となく可笑しくなって、そして笑い合った。


 今日の仕事を終えて地平線へと帰る太陽は、地面に二つの影法師を落とした。そこに在るのは、影本来の持つ闇とか不安とかじゃない。愛や希望にまみれた、まるで光のようなシルエットだった。


       *


 倦怠期は来るべきものなんだろうな。

 お互い意地張って二人の関係を悪化させる。

 どちらかが(あるいは両方が)意を決して、相手に「話そ」と誘い、二人の関係を良好にする。

 結末は二つに一つ。

 これは試練だ。恋人たちの前に立ちはだかる壁だ。

 でも案外、容易く前に進むことのできる隠し扉があったりする。鍵は、相手に弱さを見せる勇気。強がるのをやめて、素直な気持ちを口にしてみる。そうやってその壁の向こうへ行くんだ。弱さを晒す強さが大切なんだ。


 印象に残ってるのは、「大好き」という彼女の言葉。

 そして、耳元で感じた彼女の吐息。

 何かの巡り合わせだろうか。

 後で調べてみて分ったことだが、カスミソウの英名には「Baby’s breath――愛しい人の吐息」という意味が込められていた。

                                         了


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