ムーンライト・ラブ
月を見ると、不思議な気持ちになる。
狼は狼男へと変身するくらいだ。
普通の人だって、何かしら感じてもおかしくない。
おぼろげだったり、陰りを含んでいたり、そんな切なさがより美しくさせる。
昔から人は、喜びも哀しみも同時に照らすあの月に、何度も胸をときめかせていたんですね。
私――小多喜恵は今日も学校の図書室にいた。机の隅の席で興味を持った本を熟読するのがいつものスタンスである。子どもの頃から読書が好きな私は、やっぱり中学になっても変わらず、放課後は図書室にいた。中三になった今でも、だ。
――月が綺麗ですね。
明治時代の文豪、夏目漱石が英語教師をしていたとき、生徒が「I love you」を「我君を愛す」と訳したのを聞き、「日本人はそんな事を言わない。月が綺麗ですね、とでもしておきなさい」といわれる逸話から生まれた愛の告白の言葉。
私は読んでいた本を閉じた。夏目漱石についての情報が満載されている書物だった。「吾輩は猫である」、「坊っちゃん」、「三四郎」などで名が知られている夏目漱石だが、なんと私の通う中学校にも、「漱石」の異名を持つ男子がいた。
鈍い音と共に、扉が開かれた。反射的に私は見てしまい、そこに立っているのがその「漱石」であることにいささか驚く。
彼の名前は夏目諒。といった。名字が「夏目」だから、というのも一つだが、「漱石」と呼ばれている最大の理由は、彼が小説を書くからである。それも、風の便りで耳にしたことだが、とある文学賞で特別賞を取ったらしい。だから、才能は本物である。
彼は私のいる机のもう一つ向こうの机の席に座った。状況を簡潔に説明すると、向かい合わせになっているのだ。
私は彼に仄かな恋心を抱いていた。前髪は黒い瞳を柔らかに覆うほど長く、黒縁の眼鏡がよく似合う面持ちで、いかにも文系を思わせる雰囲気の男子。私は素直にカッコいいと思っていた。そのうえ、文章力に卓越した能力を兼ね備えているわけだから、読書好きの私にとっては理想という他なかった。でも、これまでにクラスは一度も同じになったことはない。だから、彼が私のことをはたして知っているか、それさえ不安だった。
彼は今日も書くらしい。鞄から原稿用紙と筆記具を手際よく準備すると、筆を走らせた。本を持ちながら、目線は彼の行動に注がれていた。彼が図書室で小説を書くようになったのは、二、三ヶ月くらい前だっただろうか。気が付いたら、「漱石」がいたのだった。
一度、彼の書いている小説を読みたいと素直に思った。どんなものなのだろう。恋愛、青春、ミステリー、ファンタジー・・・ジャンルは一体何だろう。
(ダメだ・・・集中できない。もっと興味を惹かあれるような本を探しに行こう・・・)
私は席を立ち、彼の座っている席の横を通り過ぎようとした。も、もちろん、意図的にではない・・・。
何かが落ちる音がした。床を見ると、彼の筆箱の中身が飛散していた。彼が誤って落としたのだ。
「あ、ごめん」
彼が口を開いた。しゃがみこんで筆記具を拾い始めた。私も一緒になって拾う。
「あ、大丈夫だよ。拾わなくても」
「ううん。いいの」
いいから、拾わせて・・・心の中で叫んだ。
全部拾い終えると、私はあたかも今気付いたかのように、「何、書いているの?」と訊いてみた。彼は席に戻ると、筆は持たずに私のことを見た。
「小説だよ。君、確か小多喜さんだよね」
「そうだけど・・・どうして?」
「よく図書館に来てるでしょ」
「え?・・・知ってたの?」
「うん。よくあそこの席に座っているでしょ。今日も」
彼が指差したのは、さっきまで私が座っていた席だった。彼は私を知っていた。彼は私が図書室に通っていることを知っていた。そう思うと、自分の胸が高揚していることを覚えた。その正体が恋心の膨張であることに思考は辿り着いた。
「あ、あの!」
私は少し大きな声を出してしまった。彼は人差し指を口元にあて、シッと静かにするよう注意された。私は周りを気にしながら、声を調整した。
「私、今度夏目君の小説読んでみたいんだけど」
「あ、僕のこと知ってたんだ。うん。全然良いよ。じゃあ、これでも読んでみてよ・・・」
そう言って彼が取りだしたのは、数枚の紙の束だった。どうやら短編小説らしい。両手で丁寧に受け取ると、一枚目に書式の大きな文字――タイトルを見た。
「ムーンライト・ラブ?」
「そう。どこの文学賞にも提出していないんだけど、結構気に入っている作品なんだ。どうかな?」
「ありがと。今、読んでもいい?すぐ返したいから」
「え?まあ、いいけど。そんなに急がなくても大丈夫だよ」
「うん。でも、申し訳ないし・・・ほら、まだ閉館まで三十分あるから、多分読める・・・あ、それと」
「・・・何?」
「隣で、読んでいい?」
「うん、良いよ」
それから私は、彼の書いた小説、「ムーンライト・ラブ」を読み始めた。彼の隣の席で。少しの間、憧れの彼の横、ということもあって落ち着けなかったが、何回かの深呼吸のあと、ページをめくり始めた。
話はタイトルからも分かるように、ラブストーリーだった。ヒーローとヒロインがとある十五夜に偶然の出会いを果たすところから物語は始まる。彼は私と同じ中学三年生なのだが、描くキャラクターは成人で、大人の恋を描いていた。だからといって、不自然さは感じられなかった。いや、私が未熟なだけかもしれないが。その出会いから、淡い恋は始まるのだ。同じく満月の日に、ヒーローがある歩道橋の上で想いを伝える場面があった。あなたを愛しています、と。ヒロインも同じ想いで、二人が抱き合い話は上手くまとまっていた。最後は「彼らの愛は月光に包まれ、僅かな翳りと共に輝いていた」と、いかにも文学的な語り口になっていた。
読み終え、隣を見ると、彼はまだ小説を綴り続けていた。紙がかなりの束になっている。長編作品を書いているのだろうか。ともかく、この小説を返さねば。
夏目君、と彼を呼ぶ。ん?と彼は筆を止めずに言った。
「読み終わったんだけど」
「ああ、そう。どうだった?」
「うん。いいと思う。大人の恋愛って、よく分らないけど、そういうこと書けるってすごいね」
「そうかな。いろんなものを読んで、見て、聞いて。まあ、大半が妄想の域を超えないけどね」
彼の語りを聞くと、まさに文学者に見えてくる。それと同時に、彼との距離を感じた。彼が遠い存在のように思えた。
ねえ、私は彼に訊いた。
「これからも、読んでいい?夏目君の小説」
彼はゆっくりと頷いてくれた。私は静かに微笑んだ。
それからは私の図書館へ行く理由が一つ増えた。そう、彼の書いた小説を読むため。私は好きな人の書いたものを読めることで、小さな幸せを抱いていた。そして、閉館時間ぎりぎりまで二人で過ごし、それから帰り道を二人で歩いた。好きな人と共に同じ時間を過ごせる喜びが、私には何よりの幸福で、とても楽しかった。
そんな生活が一ヶ月くらい過ぎた頃、いつものように私は図書室にいた。以前貸してもらった彼の長編作品を読んでいた。時計の針がちょうど五時を指したとき、彼が姿を現した。私の前の席に座ると、何を考えているのか、両手を頭の前に組んだ。小説の構想でも考えているのだろうか。いや、彼は小説を考えるときは筆を必ず持つ。ならば、何か悩みでも抱えているのだろうか・・・。
私は「夏目君、どうかしたの?」と心配している声を発した。
「いや、何でもないんだ」
「でも、凄い難しい顔して考えてるから・・・」
「・・・ごめん。先、帰ってもいいかな」
「え、どうして」
彼は黙ったままだ。どうしたのだろう。本人は「何でもない」と言っているが、絶対に何かあったのだ。このまま放っておくわけにはいかない。
「だったら、私も帰る」
その後、二人はいつもと同じ道をいつもと同じように歩いていた。しかし、二人とも黙ったままだ。私も話題は切り出せず、黙って足だけを動かしていた。大通りの十字路で信号を待っていると、ついに彼の口が開かれた。
「実はさ、ある子から告白されたんだ」
思考が止まった。同時に、心臓が一瞬停止した気がする。咄嗟のことで、上手く思考回路が繋がらない。
「え?・・・誰、から?」
「僕と同じクラスの波岡さんだよ」
波岡さん、とは波岡春美のことだろう。確か吹奏楽部の生徒だった。
「そう、なんだ・・・」
それしか言えなかった。告白を受けた、ということは付き合うことに繋がると思う。私の片想いは届かないまま、私の心の片隅に置き去りのままなのか・・・私にできることは、感傷的な気持ちに浸るだけなのだ。
信号が青に変わり、私たちは再び歩き始めた。
「でも、僕、断ったんだ」
「え?」
「僕には他に好きな人がいるから、君の気持ちには答えられない、彼女にはその場でそう言ってきた」
「・・・そっか」
心のどこかでほっとしている自分がいた。まだ微かだけど望みがある。希望があることに、私は安心したのだ。片想いが片想いのままで終わらないかもしれない、と。
いろいろと考えていると、彼の足が止まっていた。そして、彼の目線は、漆黒の夜空に向けられていた。つられて私も見上げると、そこには黄金に輝く満月の姿があった。
(そうか、今日は満月だったんだ・・・)
私はじっと眺めていた。どこか幻想的で、どこか神秘的で、美しかった。しばらくそうしていると、彼の口からある言葉が零れた。
「月が綺麗ですね」
「え?」
彼は振り向くと、眼鏡の奥に潜む純粋な瞳を私に向けてきた。冷たい夜風が彼の長い前髪を揺らした。同時に私の心も・・・。
「僕は、小多喜さんが好きです。だから、波岡さんの気持ちには答えられない、そう言った。小多喜さんという好きな人がいるから。小説みたいに上手くいく恋なんて無いと思ってる。だけど、信じてみたい。僕の気持ちに嘘はないから」
私の眼から募りに募った想いの結晶が溢れ出た。その雫は再び吹いた風と共に流れていった。
「小多喜さん?」
涙を流した私を憂慮したのだろう。
「私、嬉しい」
「え?」
「私もずっと夏目君のこと、好きだった。図書室で夏目君が小説を書くようになったときからずっと・・・こんな私でよければ、よろしくお願いします」
私はできるだけ深く頭を下げた。やがて頭を上げると、私は温もりを感じていた。彼の腕の中にいたのだ。彼の胸の温かさに、また涙が出そうになった。
「今日が綺麗な満月の日でよかった」
「え?」
気が付けば、私たちが立っている場所は、とある歩道橋の上だった。
END