琥珀色の恋
ガラガラガラ、音がした。
担任の男の先生が入って来た。白髪の少し交じる毛髪。丸縁眼鏡の向こうには細い眼。手には出席名簿と得体の知れない書類を持っている。教卓の前まで来ると、担任は自己紹介をする。名を佐藤と言った。
この席は少しばかり緊張が走る。何せ一番前だから。でも、これにはもう慣れっこになった。
――安曇琥珀。
「あ」から始まる私の苗字の関係で、小学生の頃から扉の近くの一番前の席。この緊張感も今までの緊張感とは若干違う。この春からの新たな顔触れを眼にすると、さすがにドギマギしないわけにはいかなかった。
「明日、自己紹介してもらう。それ相応の準備はしておくように」
自己紹介、か。
こういうときも、「あ」から始まる私は、少なくとも女子のトップバッターではあるのだ。自分の名字を恨む、まではいかないにしても、自分の名字のせいで時に結構な重圧に耐えなければならないことしばしあった。
翌日、宣言通り自己紹介が始まる。最初に壇上に上がったのは、私の隣の子。爽やかなヘアスタイルと、高校生とは思えないクールな雰囲気が私の第一印象だった。
その彼が口を開く。
「赤岩壮。中学の時は美術部でした。まあ、おそらく美術部に入ると思います・・・よろしく」
質素な自己紹介だったが、私は聞きいってしまった。
彼、赤岩君は美術部に入部する予定らしい。私も中学時代、もっというと、幼稚園の頃から絵を描くことが好きだった。両親からは「琥珀は絵を描く才能があるね」と幾度となく褒められた記憶がある。美術は得意でもあり、そして大好きだった。なんだか、赤岩君とは気が合いそうな気がする。
そんなことを思っていると、自己紹介を終えた赤岩君が隣に座る。
「ねえ、赤岩君さ、美術部入るの?」小声で訊く。
「え?・・・ああ、まあね」
突然の質問に若干うろたえていたが、赤岩君は小さく答えた。
「私もね、美術部入るつもり」
「そう、なんだ。じゃあ、よろしく」
「・・・うん」
よかった。嬉しかった。共通の趣味を分かち合える友達ができて。
それから、生徒たちは順番に自己紹介をしていく。気が付くと、最後の男子が席に戻っていた。
(あ、私の番だ)
そのときの私はどこか清々しく胸を張れた。チラ、と一度赤岩君のことを視界にとらえてから、私は口を開いた。
*
時早く、五月上旬。放課後、美術室。
私が扉を開くと、既に赤岩君はキャンパスを前に、手を器用に使っていた。
「あ、赤岩君。いたんだ」
「うん。このデッサン、早く完成させようと思って」
「そっか。頑張ってね」
「ありがと」
そう言うと、赤岩君はすぐに真剣な顔つきに変わった。邪魔しちゃいけない、私は私のやるべきことを準備し始めた。
はっきり言って、私は赤岩君に恋していた。絵が私より上手で、かっこいい赤岩君に恋をしていた。
――でも。
もちろん、口では言わないけど、私って結構可愛い方の部類に入るらしい。その証拠にこれまでにも何人かと付き合ってきた。男子の方から告白されて。だけど、何人もと付き合ってきたってことは、それだけ各々の付き合っていた期間が短いことを示す。実際、一年保ったことがない。相手のことを好きになることはだんだんと好きになるのだが、やっぱり、どこかで「迷い」や「戸惑い」みたいなものが秘められているのかもしれない。
誰と付き合っても、途切れ途切れの会話を噛みしめながら、必死に話題を探す双方。歩きながら首を回し、やっと探しだした話題の種。あのさ、の第一声がかぶったこともあった。
しどろもどろの会話。伝えられぬ好きの文字。付き合ってるっていっていいのか、それさえも疑うようになった私と彼。結果、自然と別れる末路を辿ることになるのだ。
離別するのを重ね、友達にこう言われるようになった。
「琥珀って、微妙な恋しかしないよね。まさに琥珀色の恋」
私は苦笑するしかできなかった。
琥珀色――。色彩規格によると、「くすんだ赤みの黄」それが琥珀色だという。確かに、微妙だ。黄色みを帯びた茶色、そう明記されていることも何かで見たことがある。
とにかく、「琥珀色」って微妙。そう思うと、自ずと自信が萎えていく。本気で恋をしたことが無い。そういっても過言じゃない。でも、赤岩君に対するこの気持ちは・・・。
「安曇さん、どうしたんだ」
どこからか声がした。
「え?」
振り向くと、赤岩君が腕を組んで立っていた。どうやらしばらくの間、眼の前にいる赤岩君への想いが止まらず、物想いに耽ってしまったらしい。
「あ、いや、大丈夫です」
まさか、あなたのことを考えていました、なんて言えるわけあるまい。
まさか、あなたのことで頭がいっぱいです、なんて言えるわけあるまい。
まさか、あなたのことを本気で想っています、なんて言えるわけあるまい。
まさか、あなたのこと好きです、なんて・・・。
「ホントに?」
赤岩君が顔を近づけてくる。胸の鼓動が高まっていく。
「調子悪いんじゃないの?」
「ほ、ほんとに大丈夫だから・・・」
沈黙が二人の間を襲う。それが一番緊張する。
「・・・そう。じゃあ、張ろうね」
「う、うん」
赤岩君は自分のキャンパスに戻った。少し間、彼を見ていると、やっぱりカッコいいと思ってしまう。これまでに付き合ってきた男子たちには失礼だけど、彼らとは比にならない魅力を赤岩君からは感じる。
ついついじっくり見つめ続けてしまった。
「あ」
眼があった。咄嗟に視線を逸らす。
(どうしよう。赤岩君のことでいっぱいだ)
これまでにない、すなわち人生初めての気持ちを私は抱いていた。今までは大好きな絵のことを優先してきた。将来も、絵画関係の仕事に就きたいな、と望んだほど絵を描くことには力を入れている。
それなのに、今となっては・・・。
完全下校時六時半まで十五分をきった。
やっと絵に熱中でき始めた、と思ったらもう帰らなければならない。
「あれ?」
赤岩君の姿が見当たらなかった。もう帰ってしまったのだろうか。しかし、片付けをして早く退散しないと、生徒指導の先生がうるさい。手際良く後始末をすると、鞄を肩にかけ、美術室を後にした。先輩達がまだいたので、鍵の処理はやってくれるだろう。
下駄箱で靴を履き替え、校門を出た。
さ、帰るか――と思い、帰り路の一歩を踏み出したそのとき、眼の前に人影が現れた。瞬間的にそれが誰だかを悟った。
「あ、赤岩君?」
「おつかれ。安曇さん」
「え、どうして・・・もしかして、待っててくれたの?」
それを確かめずにはいられなかった。
「いや、部活日誌を渡し忘れちゃったから。ほら、名前順でしょ。これの順番」
「え?あ、そっか・・・ありが、と」
赤岩君から部日誌を渡される。市販のノートの表紙には「美術部」と明朝体でレタリングが施されている。
確かに、「アカイワ」と「アズミ」を比べたら、同じ「ア」から始まる名字でも「アカイワ」の方が先だ。
・・・っていうか、何をおいても今の私は大いに恥ずかしかった。変な期待を自分から持ち出し、まんまと恥を知ることになるとは・・・。私自身徐々に頬が紅潮していくのが分る。
「でも」
赤岩君が口を開いた。
「でも、僕は何の用事無かったとしても、安曇さんを待ってたよ」
「え?」
思わず肩がピクリとなった。赤岩君の言葉を反芻しきれていない。
(えーっと、つまり・・・)
答えを出す前に赤岩君は既に次の言葉を発する。
「帰ろっか。帰り路、同じ方向だったよね」
「・・・うん」
私は二つの意味で頷いた。一緒に帰れることを素直に喜びたかったが、それよりも赤岩君の言動を理解しきれずに動揺の方が大きかった。
*
二人は川の上に架かる橋の上をゆっくりと歩いていた。
二人は川の上に架かる橋の上で美術の話題で盛り上がっていた。
二人は川の上に架かる橋の上で同じ時を共に過ごしていた。
「ほら、シャガールの手法もさ、結構僕は好きなんだよね」
「あ、私も同感!」
「だよね。まさに彼こそ天才というべきだよ」
二人は川の上に架かる橋の上で会話する種は絶えることはなかった。
二人は川の上に架かる橋の上で笑顔が絶えることはなかった。
(楽しい・・・)
ふと私はそんなことを想った。心から楽しんでいる自分に驚いている。
そうかそうだったんだ。共通の話題があるとこんなにも楽しんだ。この収穫は私を自信づける。
――でも。
これまでの過去の出来事が走馬灯のように脳裡に蘇生する。たいそう派手な口げんかをして別れたこともあった。先生をも困らせるほどの喧嘩だってしたことある。苦い記憶が私の頭の中で巡る巡る。
突然足を止めた私の様子を察したのか、赤岩君も同じく歩くのを停止する。
「どうしたの?」
私は黙ったまま。
「安曇さん?」
赤岩君が本気で心配してくれる。
「赤岩君・・・」
「何?」
指先が微かに震える。これでいいのか、葛藤そのものを私は感じていた。希望の光のみえる未来と漆黒の影が残る過去の狭間に私は今いた。
どこか温もり感じる五月風が吹く。川辺に生える樹木が揺れて鳴いている。震えていた指先を意識させ、拳をつくってみせた。
琥珀は私。琥珀色は私色。
私がどんな恋をしたって良いじゃん。
ふられても、良いじゃん。
だって私は颯君が好きだから。
付き合っても上手に恋愛できなくても良いじゃん。
私の色、颯君の色、二人の色。
どんな色でも、二人の色を二人で一緒に塗りたい。
だから、私はこれからも琥珀色の恋をする。
私は川の上に架かる橋の上で葛藤していた。
私は川の上に架かる橋の上で初めて彼のことを「颯君」と言おうとしていた。
私は川の上に架かる橋の上で初めて本気で想いを伝えようとした。
「私、颯君のことが好きです」
END