第3章 嫌になる戦へ(Ⅰ)
荷物は昨日のうちにすべてまとめておいた。必要なものはそれほど多くない。衣類と今年度分の教科書、あとはこまごまとしたものだけだった。この施設、そんなに物を持てる場所じゃない。だから鞄一つでどうにかなった。
……まあ、別にこの子が無欲な子だなと思うわけではない。私も別に何かを欲しがるタイプじゃないから。むしろさっぱりしているほうが好感が持てる。
「…………」
朝食を済ませ、あとは迎えの車が来るのを待つだけだ。昼前には来ると言っていたな。しかしながら、これからどうしようか……何もすることがない。
周りを見渡してみるが、この部屋にはもう大して物がない。汚れてもいない木目の床、壁には特になにもあるわけではなく、大きな窓の向こうにベランダがあるだけ。あとあるものは、姿見とベッド、あと箪笥と机だけか。あいや、窓の左右脇にはカーテンがまとめられている。黄色をベースとした花柄のカーテンだ。
……この場所とも、もうお別れか。そう考えると、ノスタルジーか何かに似たものを感じる。引っ越しにはもう慣れてしまったのだけれど、こんな風に感じてしまうのだろうか。
……あの布団で、かなめちゃんは泣いていたな。枕に顔をうずめて、涙を流していた。泣き声を、今でも覚えている。
久しく聞いていなかったのだから。
――自分の泣き声さえも。
「…………」
かなめちゃんは何も言わない。
すっく、と立ち上がり、かなめちゃんはベッドに向かう。そして横になる。
ふかふか――とは言いづらいけれど、それなりの柔らかさを持つ布団。慣れていることもあって、すごくリラックスできる。
ごろごろ、うつぶせになって、仰向けになる。
髪の毛が乱れるのも気にしない。
「…………」
今の行動は、私の意志ではない。かなめちゃんが自分でしようとして、やったことだ。ただ、どうしてしたのかはわからない。私が覗けるのは、かなめちゃんの記憶だけで、かなめちゃんの考えが読めるわけではない。
ただごろごろしたいだけだったのだろうか。最後にこの布団でごろごろして、リラックスしようということか。
あるいは、ただ暇だっただけか。
……暇さえあればごろごろしている、と言うわけでもないからなぁ、この子は。
友達と遊ぶとではなく、本を読むタイプの女の子だ。
机の上に数冊、本が置いてある。持っていく荷物としてまとめてはいない。この子が「別にいい」と言ったのだ。まあ、一通り読んでしまったからなぁ。もう一度読む必要はまったくない。
……まあ、面白い本だから持って行ったほうがいいとは、私個人としては思っているのだけれど。
そこは、肉体の主人を優先させることにしよう。
「友? いるかい?」
扉が開く音が聞こえて、友くんの姿が見えた。友くんも荷物をまとめ終わったあとなのだろうか。荷物らしきものは持っていない。
かなめちゃんは体を起こし、友くんのほうを見る。何も言わずに、友くんの言葉にうなずく。
友くんはそれを見て、かなめちゃんのベッドに腰掛ける。かなめちゃんは友くんに座る場所を譲ってやる。
こうして近くで見ると、この兄妹、顔つきがよく似ているなぁ。どちらもそれほど覇気はなく、丸顔で、それでいて細かく整っている。とろんとした目もとを見れば、兄妹であることは推測できるだろう。
「あと30分くらいで着くって。迎えの車」
30分か。となると本当に何かする暇もないけれど、何もしないとなると暇が過ぎる。
このままあと30分間、何もしないで過ごすのか、面倒だなぁ。
まあ、夜眠っている間よりは暇ではないけれど。
……でもまあ、友くんには悪いことをしたなぁと思う。
私の独断で、友くんの人生を変えてしまった。私に、他人の人生をどうこうしようという気はない……はずだったのだけれど。
やってしまった。とは思っている。
どうしてあんなことを言ってしまったのか、自分でも疑問だ。
……でも、撤回して、いいものだろうか。
友くんも友くんで、何か考えているのかもしれない……そう思ったら、うかつに何かを言うことなんてできない。そもそも、あのとき友くんが何も思っていないというわけではないだろう。
自分の能力、時間喪失について――何も考えていなかったわけではあるまい。
時間を、飛ばす。それだけ強い能力がある――そのアドバンテージについて、何も考えていなかったはずはない。あの化け物――トートロを倒すことができるかもしれない。その期待を持っていないと、言えるはずがない。
……だからと言って、自分で倒しに行こうとは全く考えていなかったかもしれないけれど。
私は、拳をぎゅっと握る。
……それは、かなめちゃんが握ったのかもしれない。
かなめちゃんの心は分からない。かなめちゃんの記憶の中に――あの化け物のことは、鮮明に残っている。
透明か不透明かもわからない、何の形にも似ていない、それはそれとしか形容できない存在――そして、それが家をぶち壊し、両親をがれきの下敷きにして、自分に傷をつけたこと――覚えていないわけもない。
無論、私も覚えている。
化け物の中で――トートロの中で、私はかなめちゃんに、殺すつもりでかかっていた。
かなめちゃんに、乱暴に、這入りこもうとしていた。
……結果的には、這入りこむことに成功したのだが……もちろん、それは私の望むことではなかった。
私の望みは、ただ一つ。死にたい。それだけだ。
それだけ、だったはずなのに……。
「かなめ……大丈夫?」
友くんが、頼りなさげな声で訊く。
かなめちゃんは数秒の後に、こくり、と頷いた。
大丈夫か、だって……そんなざっくりとした質問じゃ、この子はただ頷くことしかしないんじゃないか。質問が抽象的すぎる。
「荷物はもうまとめたんだよね……?」
「…………」
再度、かなめちゃんは頷く。
……ここで荷物をまとめ切っていないのだとしたら、まだ「行きたくない」という意思表示になっていた。でも、まとめてしまった――かなめちゃんの意志で。
行きたくないのなら、まとめる必要はない。けれど、もう行く準備は整ってしまった。あと数分――十数分待てば、車が来る。
現実はそれだけだ。
……この子は、何とも思わないんだろうか。自分が今日から何をするか、まったく考えていないのだろうか。……なんとも、危機感がなさすぎる。
足りないのは危機感ではなく、現実を把握する能力か? ……致命的だ。その欠陥は。
決めたのは私かもしれないが、それからノーを突きつけるのは、かなめちゃんの自由だ。
……頼りない。
どうしようもなく、頭が幼い。
「……ごめんね、お兄ちゃん」
と、かなめちゃんは言った。
かなめちゃんのせいじゃない。かなめちゃんのせいじゃないんだ……全部、私が悪いんだ。
「かなめは何も悪くないよ。……大丈夫。僕があの化け物を、倒してやる」
頼りない声だが、頼りになる言葉だ。
……そして、すべてを決めてしまったにもかかわらず、何も口出しできない私。
変な話だ。あの時は私がかなめちゃんの主導権を無理やり奪っていたというのに……今になって、それを奪いたくないと思ってしまうなんて。
なんて無責任なんだ。
嫌になってくる。――自分が。
「さあ、ロビーで待っておこう。忘れ物はない? 大丈夫?」
友くんは立ち上がり、そう言った。
かなめちゃんも立ち上がる。
荷物に向かって、てくてくと歩く。
軽い荷物。ただこれだけでいいのかと、心配になる。
この子は、本当に大丈夫だろうか。たったこれだけの荷物で……この子は、たったこれだけでやっていけるのだろうか。
たったこれだけで、どうやっていけるのだろう。
友くんが部屋を出る。かなめちゃんも、荷物をもって部屋を出る。
……部屋を出る前に、もう一度部屋を見渡す。
恐ろしいほどに、何もない。
……私が、無駄なことをしてしまったから。
……ごめんなさい。いや、
「……ありがとう」
どうして、そんな言葉が出たのだろう。