第9章 花坂かなめ(Ⅰ)
やってしまった。
……そう後悔したのは、すべてが終わってからだった。
もうここに、吉光里利はいない。私の言葉に納得した様子で、目の色を変えて――彼女は、もう帰ってしまった。
踊り場に残っているのは、私――いや、花坂かなめ、ただ一人だった。
ただ一人と――意識がもう一つ。
「…………」
やってしまった。
私は再度――後悔する。
今まで、散々決めていたじゃないか――できるかぎりかなめちゃんには迷惑をかけず、できる限り変化を与えることなく、化け物は倒されるべくして殺されるように、と。
なのに――すべて、破ってしまった。
私はすべてを、壊してしまった。
……なにもしなければ、友くんは死ななかっただろうところを、私のわがままで、殺してしまった。何もしなくても、吉光里利はトートロを倒したであろうところを、私のわがままで、速めてしまった。
どうしてこんなことをしてしまったんだろう。
私は、変わることが嫌だったはずなのに……。いや、これもまた、意識の変化ということだろうか? 私もかなりの世界に触れてきた――上も下も、浅きも深きも、高きも低きも。強きも弱きも。そして善も悪も――はずなのに。そのうえで死ぬことを選んだはずなのに――変わらないことを選んだはずなのに。
それとも――変わらないために、変わることが必要だった――ということだろうか。私がちゃんと死ぬために、吉光里利に忠告することが、必要だったと。
そういうことだろうか。
自暴自棄になって、かなめちゃんごと殺そうとして――そこに、良心という名のブレーキが作動し、非常事態だとして、認識を変えたということか。だとすれば、抗いようのないことのように思える……よいか悪いかは、別にして。
そして、この場合は、もちろん悪いことだった。
後ろを向き、窓枠に肘をつく。月を見上げる。銀色に輝いて町の風景を照らしている。太陽ほどの明るさはないものの、うっすらとした影を残すには十分だった。
夜風が気持ちいい。鼻の奥を冷たい風が、つん、と刺激する。
柔らかい空気が、くすぐるように耳に入る。
私は、ため息をつく。
もはや、逃れようがない。言い逃れのしようもない。私がかなめちゃんの肉体を乗っ取って、好きかってやっていたことを――誰にも、知られないようにしていたはずなのに。
もう、そんな秘密を保つことはできなくなった。
「…………かなめちゃん、起きてる?」
その言葉を外気に放ち、私は意識を少しだけ引っ込める。
数秒の沈黙。かなめちゃんは目をつむることもなく、窓の外を見ていた。
「……うん、起きてるよ」
と、かなめちゃんは答えた。
「……そっか」
かなめちゃんに、知られてしまった。
自分が――神岸かずみという人格が、かなめちゃんの中にいることを。肉体の中に、誰か別人の精神が、巣食っていることを。
と、そこで――ぐら、ぐら、と――視界が揺れた。
「……? ……っ!」
吐き気がして、慌てて口を押える。
「……う、うっ」
かなめちゃんが嗚咽を漏らす――吐き気に近い感覚だ。お腹から何かがこみあげてくるような、そんな感覚。
私も――頭が、痛くなってくる。もう頭なんてないはずなのに。精神の部分が、ぐちゃぐちゃと悲鳴を上げている。
一人の肉体に、二人の精神――なんてのは、医学の分野では珍しくもないことだろうけれど、一般的に考えればそれは珍しいなんてものではなく、奇怪なものでしかない。奇異なもの。おかしいもの。気持ちの悪いもの。そういった類のものであり――
花坂かなめは、まさにそういったものである。その、真実。
気分が悪くなるのも、仕方がない。
「う、あ……ぁ。……ぅ」
ふら。ふら。
頭が揺れる。一つの脳を、二つの精神が使っているのだ――キャパオーバーになるのは当然だ。キャパシティの問題ではないとしても、普段使わない部分を使っているのだからしょうがない。私が出てくるときはかなめちゃんはオフ。
逆にかなめちゃんが起きているときは、私は前に出ないようにしていた。両方が前に出てくることは、できない。
しかし今は、そんな状態とは、例外であった。
かなめちゃんが、私のことに気付いてしまった――そのことがある以上、私のことを考えずにはいられない。私のことを、前に出さずにはいられない――考えるなと言われて、素直に思考をやめることのできる人間など存在しない――だから、混乱している。
これは、器質的な問題だ。
かなめちゃんはたまらず、踊り場にしゃがみ込む。脳が痛い。割れるように痛い。そして、からあの内側から何かが出て来そうな気持ち悪さがある。
「お……ぅ……かなめ、……ちゃ……」
これは私の言葉だ。
気持ち悪さに踊らされながら、私はかなめちゃんの名を呼ぶ。どうにかなるわけではないけれど……この気持ち悪さを、解消しなければ。
でも、どうする? ……もう、どうしようもない。私が死ななきゃ、やっぱりなにも終わらないのだ。
失敗だった。
私が自殺を失敗してから、何もうまくいっていない。吉光里利を遣る気にすることはできたかもしれないが、所詮それだけだった。人を殺し、ついにはこうして――かなめちゃんに気付かれてしまった。
かなめちゃんは、たまらず倒れ込む。冷たいコンクリートが、頬をなでる。
「ぅ……くぁ……」
いや、違うな。
どだい、バレないなんて無理だったんだ。バレずになんでもうまくやろうだなんて、それこそ虫が良すぎる。何か行動をする――決定的な行動をするにあたって、かなめちゃんに知られることは必然だった。
だから、この状態は不思議でもなんでもなく――この苦しみは、私の自業自得だった。すべては自殺に失敗したことに起因する。ああ、どうして私は飛び降り自殺なんてものを選んでしまったのだろう。そんなものを選んで化け物に食べられてしまえば、死ぬよりも苦しい現実が待っているんだぞ。慎重に選ぶべきだった。
今更後悔しても――もう遅いけれど。
ずき、ずき。あたまが割れそうだ。
視界が、少しずつぼやけていく。ああ、これが死ぬ感覚か? こんなに苦しいものだなんて――いや、そりゃそうか。死ぬのに楽に死にたいだなんて……そんなえり好みが、私にできるはずないだろう。だって、私は死んでいるんだぞ? そういうえり好みは、生きているうちにすることであって――もう、この場所で死んでしまっても、良いだろう。
そう思う。
「……ま……っ、て……」
そのとき、かなめちゃんが、かすれた声でそう言った。
「いか……ない、で……」
呼び止めても、もうどうしようもない。脳の限界だ。一つの脳で、二人の人間がアクティブに行動できるわけがない。
どちらかが消える定め……いや、どちらかが引っ込むか。だ。
もう、考えるな。私のことを考えるな――花坂かなめ。もう、私のことなんか気にするな。私は、望み通り追放されよう。その代り――肉体の持ち主であるかなめちゃんは、生きていなくちゃいけない。生きていなきゃ――
生きていなきゃ――何だ?
生きていないことが、何を意味する? それはただ死ぬということで、それを怖がる理由は一つだってない……なのに、かなめちゃんには生きていてほしいと思っているのか?
とんだエゴだ。
「…………っ!」
それでも、かなめちゃんは、ふんばる。自由に落下していく私の意識を、かなめちゃんはつなぎとめる。
どうして、そこまで。気持ち悪いから、吐きだそうとしていたんだろう? 私の人格なんて、かなめちゃんには必要ない。
もう、やるべきことは全部やってしまったんだ。
おねがいだから、もう、死なせてくれ。
おねがいだから……
「ころしてよ……もう……」
私の言葉が口から出る。瞳からは、涙が出てくる。
「なんで……私にもっと求めるの……? もう十分でしょう……! もう十分、役目を果たしたでしょう……! だからお願い。もう休ませて。もう死なせて。おねがい、おねがい……!」
ずっと心の奥底に挟まっていた思いが、今、あふれだす。それでも私の意識は落ちない。
かなめちゃんがまだ、手放していないのだ。
そんなかなめちゃんは、右手で――額を触れる。
そして、こう言ったのだ。
「情景……移植!」
そして、ぱたぱた。と意識が折りたたまれる。そして、同時に、広がっていく。




