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嘘のような一週間。十年の嘘。

 雨は駆け足で、全力疾走で通り過ぎて行った。駆け抜けて行ったのは雨だけではなかったが――

 呼び止めようとした俺と目を合わせることもなく全力で……。松葉杖をついている人間とは思えない動きだった。――必死。その言葉が似合うような無茶苦茶な動きで逃げるように帰って行った。

 家も近くなっていたから追いかける事もできない。その辺りは計算に入れていたのだろう。かく言う俺は、シャワーを浴びながら遁走した春菜の事を思い出していた。

 自意識過剰などと叩かれるかも知れないが、俺は春菜に好きになって貰えていると思っていた。実際変えられてしまっている過去ではあるが一度告白を受けているし、もし今は惚れていないと言われたとしても、好意有り……くらいはあってもいいだろう。

 そう思っていた。

 あんな言葉は予想の遥かリング外だ。今度こそ俺の方から伝えられると思っていたんだ。俺は――掛け値なしに春菜の事が好きだ。今度こそ、はっきりと言葉にだってできる。

 学校の帰り、春菜に会うまでは次に会った時に想いを伝えよう――そう意気込んでいたのに。計画が根底から崩されたような……。

 おかしいだろ。

 誰が好きとか、誰を選ぶとか。そんな事は今まで考えた事も無かったからなのか――。気持ちの整理も言葉の整理も上手くできない。慣れない事で頭が混乱しているだけだ。そうに違いない。

 今まで怒った事も悲しくて泣いた事も無い無感情と言われても仕方がない俺だけど。そんな俺だからこそか……。全くを以って分からない事もある。いくら勉強ができたって、何度百点を取ったって分からない事がある。

 俺は狭心症ではなかったよな?

 何でだろう。……心臓だけが深い暗い湖に沈められたような圧迫感。それでいて激流に巻き込まれているような不安定感。体と脳と心臓がそれぞれ分離されてしまったかのような浮遊感。――喪失感。

 自らの喜怒哀楽が分からない。笑えない事から、喜楽でない事は確からしい。何だろう、変な病気? そんな病名……。

 ……記憶には――無いみたいだ――

 いや、そんな事はどうでもいい。俺はさっき何を見た? 全てはそこにあるんだろう? 分かっているんだ。混乱の原因。

 分からないんだ。

 なぜ、春菜が泣きながら帰って行ったか。土砂降りの中、雨が隠してくれるとでも思ったのか? 関係ない。隠してたってどうせ俺には分かる。……幼馴染だからな。

 冷たいシャワーを殴るように浴びて頭を冷やした。


「さむっ」


 頭だけを冷やすつもりが体までかかってしまい、先程と打って変わって物理的な心臓への衝撃を受けた。冷え切ってしまう前にさっさと寝てしまおう。そう思って布団に入り丸まっていたのだが、気が付くと外は明るく、目が覚めるような鳥の囀りが聞こえてきたのだった。

 断っておくが、すぐに寝付いた訳ではない。集中していると時間が早く経ってしまう例のあれだ。頭の疲れがとれず、後頭部に血が流れていないかのような倦怠感がある。若干感覚も鈍いような気がする。

 ――やはり直接話をつけるしかないだろう。俺の気持ちも聞いてもらうしかないだろう。タイミング……どうしようか。俺は自然と、携帯で春菜にメッセージを送っていた。内容は別段変わったところもなく、朝一緒に登校しようというものだ。返事を待つ時間か長く感じる――。カップラーメンにお湯を入れて待っている時でももっと短く感じるだろう。いや、実際に長かったのかもしれない。

 時計を見ると、そろそろ出発しないと遅刻してしまう時間だった。

 ――とうとう返信は来ないまま。


『女の子って都合が悪くなるとすぐ無視すんだよなー』


 大木部長が言ってた台詞を思い出す。彼女とよく喧嘩する人だ。

 ――学校で捕まえるか……。しかし、学校までの道のりで春菜に遭遇することはなく、 教室に辿り着く。やはりと言うか――そこには春菜の姿は無かった。ついでに言えば雄介も居なかった。

 雄介に関して言うならば、朝一に携帯に連絡が来ていたから特に気にはならない。


『一週間程、恋の逃避行してくる!!』


 本当か嘘かは検証不能なので、一週間後に問いただすつもりだ。――心配ばかりかけやがって。ホームルームが始まったが春菜はまだ登校してこない。いつもなら朝練からのサボりだと分かっている分、何の心配もしないのだが――

 昨日の今日だ。事故をした翌日ならば流石の俺でも心配で、三階の教室からずっと校庭を眺めていた。――まだ来ないのかと。

ホームルームも終わろうかという時間、春菜はゆっくりとした足取りで校門をくぐり、校舎へと向かってきていた。松葉杖をつき、足元に気を付けて俯きながら歩いてくる。顔をあげる事は無かった。もちろん教室に入ってくる頃にはホームルームは終わっていたが、普段なら先生から説教をくらうところを怪我のおかげで少しの注意で見逃された。


「おはよう、春菜」


 変わらない挨拶をする俺。


「……」


 ――無視――かよ。


「おはよう春菜ちゃん!! 事故大丈夫なの?」


「うん。全然平気だよ」


 女子同士の会話にはいつも通り応対する春菜。俺にだけ明らかに異なる対応――。ここまで来ると流石にへこんだ。こつんという小さな音とともに机に突っ伏す。


「はー……」


 溜息をついたところで誰かが話を聞きに来るわけではない。雄介もいなければ茜ちゃんもいない。茜ちゃんは……厄介な能力のせいでクラスの誰からも欠席だという事も気づかれていない。――まだ元に戻れていない証拠だ。そんな状態で学校に来るはずが無かった。

 必然的に今日も俺は一人ぼっちなのだ。

 授業が始まって皆が口を閉ざしている瞬間が孤独を一番感じないなんて、我ながら女々しいよ。少し離れたところに座る春菜に目をやると、授業を真面目に受けている姿しか記憶になかった春菜が机の下で何やらずっとごそごそと何かをしていた。

 ……なんだ?

 よく見るとそれは、携帯をいじっていた。健全な女子高生なら寧ろ正常、月並みの表現をするなら、普通というのだろう。

 しかし、春菜のそんな姿は見たことがない。例題を早く解き終えて俺にちょっかいを出してくる事なら数えてもキリがない程ある。だが、今は講義中。先生は新しい単元の説明をしているところだ。春菜が先生の話を聞かずに携帯に夢中になる理由。俺を無視する理由。玲菜を薦めてくる理由……。嫌な結論が脳裏を過ぎる。

 不安な俺をしり目に、授業終わりに春菜はこう言ったのだ。冷たい表情で――


「放課後……屋上に来て」


 一時間目あとの休み時間。俺と春菜の会話というには短すぎるやり取りはそれだけで終わった。話したいことは山ほどある。あるが、どのみちここでは話し辛い内容であることは確かなので、変わらないと言えば変わらないのかも知れない。

 二時間目が始まっても、春菜は携帯をいじる事を辞めない。授業なんて欠片も聞く気がないようだ。

 次の休み時間、さらに次。そして昼休み。授業外では常に教室から飛び出し、他クラスの友人や部活の仲間と忙しなく話をしていた春菜。俺の傍に一瞬たりとも居たくないのかとでも考えてしまうような移動量だった。

 ――いったい春菜は今日一日で何人の人と話をしていたのだろう。ただでさえ交友関係の広い春菜が、まるで知人全てと話をしようかと言うような勢いであった。

 一人ぼっちの就学時間も終わり、放課後――

 春菜との約束の放課後。

 俺は一人、屋上でフェンス越しに町を眺めていた。待てども待てども春菜はやってこない。もうそろそろ一時間は経つのではないか? こんな事なら部活に行っておけば良かった。……そう考えていた時だった。後ろから物凄い力で、俺の腕ごと抱きしめられた。――いや、ロックされたと言った方が正しいかも知れない。


「何だよ春菜。苦しいだろ」


「そのまま……。そのまま聞いてて」


 背中に――春菜の頭が固く押し付けられている感覚がある。絶対に顔は見せない――。そう捉えて間違いないだろう。


「何だよ。それより、昨日の事と今日の態度の説明が聞きたいんだけど」


「……」


 返事なし――か。


「はあ……。で聞いて欲しいことって何だよ」


 話を進めない。その方が現状において良くないと判断した。俺は、春菜が言おうと思っていたこと、震えながら、絞り出すかのように伝えようとしていること。その方が重要だと直感していた。聞くのは少し怖かった。

 春菜に――

 恋人ができたのではないか――その予想が当たるのではないかと――


「薫に……お願いがあるの」


「なんだ?」


 お願い?


「一生のお願い」


「何度目だろうな」


「今度こそ最後……」


 意地悪なこと言っちゃったかな。


「本当にっ!! 本当に最後っ!!」


 さっきより強く締め付けられる。震えも強くなっている。


「俺に叶えられることなら」


 一呼吸おいて、一つの間をおいて。再び春菜が口を開くのは拍子をしばらく外してからの事だった。いざ言葉を発しようと思ってから悩み始めたのだろう。俺の体にきつく巻かれている腕の力が弱まったり強まったり。……余程言いだしにくいことなのだろう。

 ――俺は待つことにした。春菜が口を開くことを。ふー。と春菜は大きく息を吐く。来るか?


「私と、一週間だけ恋人になってくださいっ」


 俺の頭の中は真っ白になっていた。予想の春菜斜め上を行く台詞。予想の遥か斜め上を行く台詞。モノローグの中でも言い間違える程の混乱。一週間だけ恋人になる――だと? というより、春菜の一人称は『私』ではなく『あたし』ではなかったか? 『私』と、そう言ったのか? いやいやそうじゃない。一週間だけ恋人になってくれ。春菜はそう言ったのか? 冗談じゃない。


「一週間だけ恋人だなんて嫌に決まっているだろう」


「一週間! 一週間だけで良いの。それが終わったら忘れてくれて良いから。無かったことにしてくれて良いから! ていうか、一週間後には無かったことにして忘れて。お願い」


「なおさら嫌に決まってるだろう」


「なんで? 一生のお願いなのっ! 恋人って言ってくれるだけで良いから。一週間だけ私の事を好きって言ってくれるだけで良いから。……口だけの嘘で良いから。他に薫にお願いなんてしないからっ!!」


「だから――」


 なんで分からないかな? 普段は察さなくてもいい事まで察して俺の事を困らせるくせに、大事なことは伝わらない。


「ゴミ拾いのボランティアみたいに思ってさ! 一週間後のゴミの日までただ持ってるみたいな感覚で良いから。だから」


「お前ちょっと黙れよ。さっきから聞いてたら自分の事をゴミ扱いまでしやがって。俺の気持ちは無視するのか?」


「無視――。そう思われてでも」


「だーかーらー。俺の気持ち! 聞けよ! 一回しか言わないからな」


 そういうと春菜は黙った。処刑待ちの囚人のように。


「俺は……春菜の事が好きだから。一週間だけなんて嫌なんだよ。ずっと恋人でいたいんだよ。ずっと……好きなんだよ」


 春菜の腕が一層強く締め付ける。


「だから――、泣くなよ」


 すすり泣く声が――背中から聞こえてきた。小さく、ごめんねごめんねと何度も言う声が聞こえてきた。別に春菜が謝る必要なんてない。悪いことはしていないのだから。それでもまあ。強いて悪いことを挙げるとするならば、自分の事をゴミ扱いしていたことと。


「春菜、そろそろ離してくれよ」


 両の腕とあばらが悲鳴をあげる程締め付けている事だろう。どうにか動かすことのできる腕先で春菜の手を軽く叩く。プロレスで首を絞める腕をタップするの近い。


「もう一回……」


「え? 何が?」


 本気で締め上げることをかなあ?


「一回しか言わないって言ってたけど。もう一回言って」


 ……ああ。巷で噂の恋人たちがやっている例のあれか。例の『好きって言って』ってやつか。


「――帰ったらな」


「録音していい?」


「嫌に決まっているだろう」


「ふふふ。もう手遅れよ」


「聞きたくない言葉が耳のトンネルを通り抜けた気がする」


「でも、もうちょっと待って」


「今度はなんだよ」


「涙拭くからちょっと待って」


 そういって春菜は俺の背中に顔を押し付ける。……ちょっと待てよ。この展開、映画とか漫画なら鼻水もついでにってやつじゃないのか?


「春菜? 早まるなよ? 拭くのは涙だけ……だよな?」


「ふふふ。もう手遅れよ」


 本当に聞きたくない言葉だった。


「心の汗も拭いたわ」


「どっちも涙だよ」


「右目からは涙。左目からは心の汗」


「すごいハイブリットだな」


「これなーんだ?」


「なぞなぞみたいに言うな。しらねーよ」


「あれ? 全知の薫でも知らない事あるんだ。これは失礼」


「全知全能の神みたいに言うな。じゃあ、全能は誰だって話だし。俺もまだ全知なんかじゃない」


 そう、今はまだ……。


「全能? お姉ちゃんのことかしら」


「それは否定できない。寧ろ全知だって喜んで献上いたすよ」


「ねえ、聞いていい?」


「なんだ? 少しでも早く拘束を解いてくれるなら聞かれてやる」


「あたしたちって恋人同士になったんだよね?」


「俺の勘違いじゃなければ、そうだな」


「何も変わらないね?」


「俺の勘違いじゃなければ、そうだな」


「あたしさあ、恋人になったらこう……。なんか凄くなると思ってた。なんかチュドーンって感じで。――何か変わった事しなくて良いの?」


「俺の勘違いじゃなければ、そうだな」


「去年、あたしが勝手に食べた薫のアイスは?」


「俺の勘違いじゃなければ、爽だな」


「ねえねえ。恋人っぽいことしようよ」


 俺から離れた春菜は笑顔溢れる笑顔で言った。……笑顔の中の笑顔。ベスト・オブ・笑顔。笑顔チュドーン。


「恋人っぽいことなー」


 恋人なんかできたことないし――


「経験豊富なあたしにまかせなさい!」


「春菜、男と付き合ったことなんてあるのか?」


「……どうせ、あたしはモテませんよー。世界で二番目に無価値な人間ですよー」


 しゃがみ込んでいじける春菜。ギプスなのに器用に体育座り。


「一人で乙女ゲーにハマって何が悪いのよっ!」


「悪いなんて言ってねーよ。てか今、こっそり俺の事を世界一無価値って言っただろう。気づいてるからな! ちゃんと気づいてるからな!」


 乙女ゲーにハマってたのか。キャラがブレまくる原因はそこにあったのか?


「そんなことより、知りたい? 恋人らしい行いってやつ」


 妖艶な目つきで撫でまわすように俺を見る春菜。恋人らしい行い……。生唾が喉を通って行くのを感じる。言い貯める春菜のせいで俺の頭脳はフル回転でピンク色の物質を放出していた。いや、決して卑猥なことを望んでいる訳ではないんだ。全くではないけれど、たまたま十六歳の脳味噌がそういう作りになっているだけなんだ。仕方ないんだ!! 言い訳っ言い訳をさせてくれ!!


「……なに頭抱えてんの。気持ち悪いわね」


「彼氏に向かって気持ち悪いとは何事だ」


 失礼だな。悪態をついた春菜は、座ったまま照れ臭そうに右手を出す。


「手……繋いで帰りましょ」


 視線は合わせられ無いようだ。かく言う俺は、健全な内容で安心していた。よかったよかった、ふー。……本当にそう思っているからな? 俺は真っ直ぐ春菜の目を見て返答する。


「松葉杖だから無理じゃね?」


「…………」


「…………」


「こんなものーーーーっ!!!!」


「まて! 折るな! 折らなくて良いから!」


 若干曲がった松葉杖を手に涙目で何かを訴えかけてくる春菜。腰を下ろしているから必然的に上目遣いになる。普段可愛げのある仕草をしないやつがこういう態度を取る事にはレッドカードを出して良いと思うのは俺だけではないはずだ。


「まあ、なんだ? 変わりと言って良いか分からないけど……。おぶって帰るのじゃダメか?」


「お姫様だっこ」


「あほか」


 帰り道。恥ずかしさで後悔するとはこの時は思ってもいなかった訳で。

 幸いだったのが、囃し立ててくる知人に遭遇しなかった事だろう。それでも誰の目にも止まらず家まで着くという事は不可能な訳でして……。何あれ? 的な視線を気にせずに歩くというのは中々骨の折れる事だった。まあ、実際に骨が折れているのは背中に乗っかっているこいつな訳だが。


「タクシーさん、そろそろこの辺りで降ろしてください。家近いので」


「誰がタクシーだよ。料金取るぞ」


「身体で払えばいい?」


「なんと? 恋人になれば身体というのは基本無料じゃないのか?」


「オンラインゲームじゃないんだから、そんな都合よくないわよ」


 世間一般男子諸君は、俺と同じことを考えていたことだろう。いや待て、確か性交要求権なるものを耳にしたことがある。


「性交要求権は、夫婦間でしか無いわ。それに、離婚理由として成立するというだけだし」


「何でそんなに詳しいんだよ。授業で習う話でもないだろう」


「最近の乙女ゲーを舐めて貰っては困るわ」


「確かに舐めていたかもしれない。大事なことは漫画から学んだ、なんて言葉もあるくらいだし、どんなエンターテイメントもただ楽しむものとしての枠組みに納まったままではいられないのかもしれないな」


「別にそこまで深い意味で言ったわけじゃないんだけど……。そういうことで良いわ」


 春菜は松葉杖を突きながら歩き始める。


「明日には、松葉杖がいらないギプスにしてもらうわ」


 余程手を繋いで帰れなかったことが悔しかったのか。はたまた、おぶられていたことが想像以上に恥ずかしかったのか。――俺は断然後者なのだが……。


「放課後に病院に行くのか? なんなら付き添うけど」


「いいわ。朝一で行くから。あと、学校ではあまり話できないかもしれないけど、我慢してね」


「えっ? なんでだ?」


「学校中の友達と話がしたいの。薫とは放課後からの関係になるわね」


「そうか、それで今日は一日中走り回っていたのか。授業中にずっと携帯をいじっていたのも友達とのアポ取りの為か」


「そんな所まで見られていたのね。あれは他校の友達とのやり取りもあるわ。あと……過去のメッセージ読んでたり。文章がずっと残るっていいわよね。その点、電話よりメールやラインの方が好きかな」


「電話は、一言一句覚えておけるものでは無いしな」


「薫となら電話でもいいのよ」


 俺が首をかしげると続けてこう言った。


「全部覚えていてくれるから」


 確かに思い出そうと思えば、一言一句間違えることなく思い出せる。そういう能力なわけだし。しかし、こう……人をレコーダーか何かのように言われると複雑な気分になる。


「今日は晩御飯食べていく?」


「良いのか? 突然お邪魔しちゃったりして」


「今週は毎日来なよ。お姉ちゃんもいなくて寂しいし」


「そういえば、雄介の奴が恋の逃避行だとかなんとか言っていたけど本当の事だったのか」


「さあ? それは知らないけど、二人一緒なのは確かなんじゃないかな? 一週間くらい戻らないって言ってたし」


「雄介が一週間家に戻らないってのは、二年前の夏休みを思い出すな」


「ああ、あれ……」


 あれ――と言うのは、俺達が中学三年の夏休み。クラスメイトが誘拐されるという事件があった。誘拐されたクラスメイトは、別段仲が良かったというわけではない女子生徒で、犯行動機も身代金目的だった。

 ただ、どうしようもない事情もある。その子の両親は、断固として身代金に応じようとしなかったのだ。警察がなんとかしろだとか、子供が殺されたら警察からも金をとってやるだとか。子供の心配をしない親だった。

 他人の家庭事情にまで口を挿むつもりはないが、誰しもが可哀想に思っていたことは言うまでもない。警察だって動きにくい状況になってしまったのだから。

 そこで、単身誘拐犯から人質を取り戻そうと動いたのは十四歳の少年である新田雄介だったのだ。頑なに俺を巻き込もうとせず、メールで無事であることだけを伝えながら一週間で犯人の居場所をつきとめたのだ。雄介は人質奪還に成功した。しかし、頭を犯人に殴られてその時の記憶が綺麗に無くなっている。

 初めて若菜さんと話したであろう瞬間の記憶を――


「あの時、お姉ちゃんが動いてなかったらもっと大変なことになってたかもしれないね」


「初めは、居場所をつきとめたら警察に連絡するって話だったのに、突入するなんて言いだしたからな。それに、居場所をつきとめる時も若菜さんが手伝ってたなんて言うんだから」


「逆に、お姉ちゃんが初めから動いていなかったら新田君が危険な目に合わずに済んだとも言えるか――」


「その場合、人質がどうなっていたかは分からないけどな」


 雄介は高校に入って若菜さんに一目惚れしたって思い込んでいる。けど、本当はその時の記憶がどこかに残っていたのではないだろうか? 若菜さんに口止めされているから黙っているけど……。


「でもなんでお姉ちゃんは、新田君に黙ってるのかな? もうちょっと恩を着せてやればいいのに」


「えげつない事をサラッと言ったな。何だろう、思い出してほしくない事でもあったんじゃないか? ウサちゃんパンツ見られたとか、ウサちゃんパジャマ見られたとか」


 気が付くと俺の鳩尾に松葉杖が刺さっていた。確かに松葉杖は突く物だが突き方が違う――


「あんたの記憶って消せないのかしらね?」


「残念ながら……」


「まあいいわ。ご飯にしましょ。お姉ちゃんがいないから、今日は全部お母さんの手作りだし」


 嬉しそうに語る春菜。


「あっ、そうそう。みんなには絶対に内緒だからね! あたしたちが付き合ってるってこと」


「えっ、ああ。気を付けるよ」


 まあ、恥ずかしくて言えるはずもないが。


 宮内家の玄関を開けると、なぜ分かったのか知らないが、玲菜が飛びついてきた。


「わーーーー! 薫お兄ちゃんだ!! どうしたの? なんだか二人で帰ってきて恋人同士みたい」


 地雷を投げ込んできやがった。どう切り返したらいいものか。取り敢えずばれないように誤魔化すには何と言って返事をすればいいのか。俺が考えている間に春菜が素早く動いていた。


「恋人? そんなわけないじゃん。あたしより先に玲菜の方が先に彼氏作れるでしょ? ほら、先週男の子から電話で告白されてたし」


「春菜、それはどこのどいつだ? 生きていることを後悔させに行かないといけない」


「薫。心配ないわ。もう制裁は与えてあるから」


「ちょっと二人ともっ! 日本太郎君はそんな悪い人じゃないよ」


 見本書きみたいな名前の男だった。


「あれはちゃんと断ったもんっ! 気持ち悪いって」


 ああ、この子はなんて残酷な事を言うのだろう。まるで、部屋に出た蚊を叩いて、ちゃんとやっつけたもんとでも言う感覚で。


「ね?」


 そういう春菜に俺は心底賛同した。制裁には十分すぎる内容だったようだ。


「そんなことよりさっ! ご飯にしよ! お姉ちゃんもいっぱい食べて早く怪我を治さないとだしねっ」


 俺と春菜は玲菜に引っ張られるような形で食卓についた。


「あらいらっしゃい」


 そういって、手際よく料理を出すおばさん。出てきた料理は春菜の好物、有体だがハンバーグだった。ただ……。


「わーい! ハンバーグー!」


 ただ、春菜以上にハンバーグが好きな女の子がいた。いや、春菜の性格を考えると逆なのかもしれない。逆という表現も些か可笑しいのかもしれないが。

 それに関して俺がこう思う。春菜が好きな食べ物と玲菜が好きな食べ物がたまたま偶然同じだった。そうではなく、そうというわけではなく、本当は玲菜が好きな食べ物を春菜も好きだと言うようになった。春菜も同じものを好きだと言うことで、家庭で出てくる確率を上げる。このように。

 取り合いになっても、姉だから譲る。そう言っておけば全てが丸く収まる。上手くできているものだ。上手く作っているものだ。


「不良娘が家出中だから、代わりに薫くん。いっぱい食べてね」


 不良娘……?


「わーい! 玲菜の好きなものばっかりだー!」


 確かに、今日のおかずは野菜料理が少ない気がする。白菜と根菜を小さく刻んで長い時間コンソメスープで煮込んだものがあるくらいだ。普段なら、サラダや酢の物などが一品は出てくる。


「皆が美味しいって言って食べてくれるのが一番だもんね」


 そう言って、おばさんは椅子に座る玲菜を後ろから撫でた。


「えへへ、お姉ちゃん健康にうるさいんだもん」


 若菜さんは、まるで管理栄養士みたいなのだ。出てくる料理を全て食べると、教科書に載っているような完璧な栄養バランス。――これは例えで言っているわけではなく、実際に若菜さんに確かめた事だ。

 疑った訳ではないけれど、出てきた料理をインターネットで調べたことがある。……すると、夕飯だけでなく、朝昼晩全て食べることで完璧な栄養バランスを保つ事が出来るようになっていたのだ。さすがの俺も、その時は驚いた。


「玲菜美味しい?」


「うん!!」


 その時に見せたおばさんの表情は、ここ何年も記憶に無い程満ち足りたものだった。ここには、一人家族が足りないというのに――

 いやいや、一人足りないというのは語弊があったかもしれない。おじさんもいないので、正確には二人いないのだ。しかし、おじさんが食卓にいないと言うのは、もうそれが日常だと言わんがばかりに慣れてしまっている。


「いただきます」


 春菜の言葉を皮切りに、一斉に食事が始まる。俺はその日、家族水入らずの会話にあまり参加することなく、夕飯を頂いた。家族水入らずと言うのも何だが……。家族水入らずと言うのも難だが……。


 家に帰ると、時計の針は十一時を回っていた。

 もう良い子は寝る時間だ。良くない子は――良か不る子は――。不良娘と言われていた人は何をしているのだろうが……。

 携帯電話を見るが、そこには何の着信履歴も無かった。……連絡の一つくらいよこしやがれ。俺の手から無造作に投げ飛ばされ、ベッドへと弧を描く携帯電話。

 その放物線の頂点あたり。そこで着信音が鳴り響く。凛々と。

 ベッドに不時着した携帯電話型飛行機。その上面には、二人の名前が表示されていた。新田雄介、そして……宮内春菜。

 俺はまず春菜からのメッセージを見ることにした。特にこれと言って理由はない。ただ上に表示されていたというだけの理由だ。肝心の内容は――


『明日の朝、一緒に学校行きましょ』


 ただそれだけ。しかしなぜだろう。ただそれだけの言葉で寝る前の部屋が鮮やかになったような、世界が少しだけ綺麗になったような……。そんな気がした。なるほど。これが恋人というものなのか。

 春菜は何も変わらないと言っていたが、そんなことはなかった。十分変わっているじゃないか。断る理由なんてものはもちろんある訳がなく、二つ返事でOKを出した。 明日は春菜と二人で登校。思えば、春菜とは朝練の時間が違うため、中々タイミングが合う事はなかった。学校のホームルームで遅刻してくる春菜を迎える……それが恒例となっていた。

 翌朝を思ってベッドに横になり、携帯電話を枕元に投げ出す。ああ、早く朝にならないかな――と。けれど、そこで脳裏に何かがよぎる。というよりも、お前何か忘れているだろう! という怒鳴り声のようなものが聞こえてくるよう……。

 ――頭から飛ぶというのはこの事か。俺は今一度携帯電話を手に取り雄介からのメッセージを読む。内容は――


『今、若菜さんのお父さんと二人なんだけど。電話してもいいか?』


 若菜さんと二人きりじゃなかったのか? いや、考える必要はないかも知れない。何せ、あのおじさんと話をするのだから。なぜそこまで言い切れるのか。それは、今俺の中で優秀な人間をランク付けするならば、ダントツでトップに君臨するのが春菜のお父さん。宮内邦男――その人だからだ。

 住んでいる世界が違う。次元が違うといっても過言ではない。起業家であり実業家である邦男さん。彼の能力は底が知れない。俺は頭の中で邦男さんを思い浮かべながら、雄介に返事をした。


『大丈夫だよ。いつでも電話してくれ』


 別に、通話料金をケチったわけではない。おそらく事情があるであろう向こうの状況も分からない段階で、時間的拘束を強いる電話をこちらからするわけにいかないという判断からだ。

しかし、俺の心配など無用だったらしく、返信後すぐに電話が鳴った。ワンコールで出ると、そこから聞き慣れた。それでいて若干懐かしい声が聞こえてきた。聞き慣れたといっても昔、懐かしいと言っても何年か昔。


「やあ、久しぶりだね、薫くん。少しは身長も伸びたかい?」


 開口一番そう言った邦男さんは、いつも通りの印象だった。必要なことや本当に話したいことは後回しにして適当な話題から入ってくる。そのおかげでどこまで本気なのかが分からないのだ。


「ええ、以前会った頃よりは伸びていると思いますよ。確か、前にお会いしたのは三年前の冬でしたから」


「流石、何でも覚えているねー」


「俺は物覚えがいい事だけが取り柄ですから」


 誤魔化した。ワールドメモリーの能力の事を。


「いやいや、別に薫くんが覚えているだなんて一言も言っていないじゃないか。覚えているのは世界が――だよ」


 まさかの返事に背筋が凍る。これは暗にワールドメモリーの事を知っているとでも言っているのか? 雄介から聞いたのだろうか? いや、言い回しからして雄介や俺が知っているそれとは次元の違う知識のようだ。


「わざわざ、電話をしてくれ。ではなく電話をしていいかと聞いた事からこちらの事情まで察してメッセージのみで返してくれた薫くんだから、変な勘違いはしないと思っていたのだが、こちらの勘違いだったようだ」


「さっきのメッセージは邦男さんが送ったんですか?」


「そうだよ。雄介くんに任せようとしたんだが、やけに長文で送ろうとしていたものだから。大人の要らぬおせっかいだとは思ったが、代筆させてもらったよ」


 大切なのは必要な情報のみを的確に伝える。逆もしかり。そう邦男さんは付け加えた。


「ところで――」


 俺が質問をしようとしたところで、邦男さんは言葉で遮った。


「すまないね。時間があまりないんだ。こちらからの質問に答えてもらう形をとらせてくれ。それで薫くんが欲しい情報も提供できるはずだから」


 おそらくそれが最善最速なのだろう。なぜか納得させられるものがあった。


「では質問。そちらで何か事件や事故の類は起きてないか? 春菜の交通事故は除いてだ」


「特に俺が知っている限りではありません」


 初めに思い浮かんだ答えを一瞬にして潰されたら。


「そう、それは良かった。今私たちは悪の秘密結社と戦っていてね。便宜上わかりやすいから秘密結社と言ったが、実際には名前も何もあったもんじゃないんだ。ただ、特殊な人たちと戦っていてね。そちらに流れ弾を通してしまっていないか不安だったんだ」


 悪の秘密結社? そんなSFチックな台詞を聞くなんて想像だにしていなかった。


「ちなみに、今言った私たちというのは、私と雄介くん、そして若菜の三人だよ。少しだけ茜ちゃんにも手伝ってもらってはいるがね。実は彼女も私の娘みたいなものなんだ」


「なるほど、パラレルワールドに行こうとしたのは邦男さんでしたか。納得です」


「おやおや、茜ちゃんはそんな事まで言ってしまったのかい? 悪い子だねー。後でお仕置きだなー。そんなことは置いておいて。薫くんと春菜には手伝ってもらわなくてはならなくなりそうなんだ」


「いったい、俺達なんかに何が手伝えるというんですか? 邦男さんと若菜さんでどうにもならない事が俺たちにどうにかできるとは思いません」


「いやいや、買いかぶりすぎだよ。良くないなー。その考え。なーに、大したことじゃない。私が来週から身動きを取ることができなくなるから、自分の身を守ってもらおう。――そう言いたいだけだよ」


 身を守らなければならないような大層なことが起こるというのか? にわかには信じがたいが、邦男さんの言葉なら覚悟はしておくしかない。


「実はこの秘密結社が狙っているのは薫くんと春菜の能力と命なんだ」


「は?」


 何の躊躇いもなく出てきたその言葉が俺の脳回路、思考回路を停止させた。


「彼らはワールドメモリーの能力を奪おうとしている。……三つ全て揃えば世界を根底から変えてしまえる力だからね。世界の記憶を全て読み取る力・世界の情報を集め、未来を予測演算する力・世界の記憶を書き換える力。これらが揃えば何ができるか――。聡い君なら分かるだろう?」


 未来への影響を見ながら過去を都合よく書き換えられる……?


「おそらく、今薫くんが想像していることだけでは収まらないはずだ。物理法則を変えることだってできるかもしれない。最悪、宇宙を消すことだって」


 なんとなく、学校で雄介が慌てていた理由も分かってきた。おそらく、若菜さんから近しいことを聞いたのだろう。


「つまりは、君たちには最低でも来月までは生き残って貰わなければ困るんだ。来月には私も復帰するから。以上だ。今度は一緒に夕飯でもつつこう」


 そう言って邦男さんは電話を切ろうとした。しかし、大事なことが聞けていない。


「若菜さんは……今どこにいるんですか?」


 我ながら確信を突く質問だと思う。邦男さんはそこには触れずに会話を進めていたが、俺は初めからずっと気になっていた。


「若菜は……」


 言おうかどうか悩んでいたのだろう。しばらく電話先から声が聞こえてくることはなかった。けれど、俺は確信があった。絶対に話してくれると。

 なぜなら、初めにメッセージで『二人』と明言していたから。必要な情報のみを伝え、聞きたいと言っている邦男さんがわざわざ疑問を持たせるような単語を放つはずがない。初めから言うつもりがなければ……。


「そうだね。察しの通りここにはいない。攫われたんだ。若菜は今まで君たちを守るために、ワールドメモリーの能力を持っているのは自分だと偽り続けていたんだ。結果、攫われた。しかし安心したまえ。こちらは私と雄介くんでどうにかする。薫くんは自分の身と春菜の事を考えてくれればいい」


「そんなことを言われても、攫われたなんて聞いたら放っておけませんよ! それこそ何か手伝えることはないんですか!?」


「残念ながらないね。何せ、この私が命を懸けてでも守ると決めた子だからな」


「流石、父親ですね……」


「父親以前に、若菜は私の初恋なんだよ。つまり、今恋敵と手を組んでいるという事だね。どうだい? 心強く感じてきただろう?」


 本当、この人はどこまで本気なのか分からない人だ。


「納得はしませんよ? ですが、力になれないというのも本当なんでしょう。今は――。俺はいつでも連絡を待っていますから。何を差し置いてでも駆けつけます」


「君のそういうところは好感が持てるんだろうねー。一般的には。でも、良くないねー。その考え。薫くんには何を差し置いてでも春菜の傍にいて貰わないと。君たち二人の幸せを私も雄介くんも、遠くに行ってしまったご両親も望んでいるんだから」


「俺は、自分の幸せより、周りの人を幸せにする方を選びたいんです。だから――」


「なんだい。他人を幸せにするってのが流行っているのかい? でもね、人は自分以外の他人を幸せにすることなんかできないんだよ。幸せは、どう頑張っても主観なんだから。他人を幸せにするなんてのは厚かましい押し付けなんだ。だからこそ、今一度念を押しておく。薫くんは自分の幸せを考えていればいい」


 本当に時間がないんだ。そう言って邦男さんは話を切る準備をした。俺も今のところ聞くことはない。


「それでは、また会おう――薫くん」


「はい」


 それ以上、言葉は必要なかった。通話終了後の無音が、部屋の彩を減らしてしまったかのようだった。そういえば――

 雄介とも少し話していけばよかったな。

 明日の朝、いったいどんな顔をして春菜に会えばいいのだろう? 若菜さんが攫われている事実を知ってしまったからにはそれを春菜にも共有するべきなのだろうか。いや、それはやめておいた方がいいだろう。 二人の幸せを考えるならば、いらない心配を増やさない方がいい。邦男さんもその点もあって俺に伝えるかを俺に委ねていた節があったのだろう。明日は普段通りの自分で生活しよう。何も知らないことにして。

 さあ、良い子は寝る時間だ。


 朝、俺はけたたましいインターホンの音で目を覚ました。何度も何度も鳴らされるインターホンは、まるで目覚まし時計のようだった。本来の仕事をさせて貰えなかった目覚まし時計を見ると、まだ六時――。普段起きる時間よりも三十分早かった。


「誰だよ。こんな時間に……」


 寝巻のTシャツ短パンで玄関を開けると、そこには満面の笑みを浮かべた春菜が立っていた。


「迎えに来たよっ!」


 ひょいっと右手を上げた春菜。


「早すぎるだろう。後一時間半遅くても良いくらいだ」


「そんなこと言わずにー。まあ、正直なところ朝ごはんでも作ってあげよっかなって」


「まだ松葉杖ついてるんじゃ無理じゃないのか?」


「台所で立ってるくらいならこのギプスでも松葉杖なしで大丈夫よ」


「そうか……。じゃあ、お言葉に甘えてみようかな」


「おうおう。甘えなさい。その間に着替えといて」


 そう言うと、春菜は慣れた様子で家の中に入って台所へ向かった。顔を洗って、歯を磨き、制服に着替えるまであまり時間はかからなかった。ものの十五分ほどでリビングに戻ると、丁度春菜が料理を出しているところだった。


「さあ、召し上がりたまえ! 私の最高傑作!」


 テーブルに乗っているのは、誰の目から見ても明らかな味噌汁――。かつお出汁の利いた、香りだけで濃厚な栄養を取れそうな味噌汁――。これは作ってきたな……。十五分で作ったにしてはまとも過ぎる。それともう一つ。香ばしいが少し甘そうな香りを立ち昇らせるもの。どんぶりに黄色い何かが入っている……?


「スクランブルエッグかけごはんです!」


 卵かけごはんなら聞いた事がある。いや、寧ろよく作る。しかしなんだ? どんぶりに、ご飯が見えなくなるほど沢山のせられたスクランブルエッグ。そしてさらに、刻んだ……味付け海苔だろうか? これでもか、と言うほど振りかけられている。

 まずいなんて事はないとは思うんだが……。どうなのだろう。


「どうぞスプーンで食べてください」


 心配――と言う訳ではないが、ゆっくりと一掬いし、口へと運ぶ。スクランブルエッグに隠れていて気付かなかったが、ご飯には出汁醤油が風味付け程度にまぶしてあった。口の中に入れると――

 口内に広がる芳醇な和の香り。そして、醤油ベースの濃厚なうまみ! かすかに感じる刺激は……和辛子……か? 卵料理に隠し味として入れるだけでこんなにも甘味が引き立つのか!? これが味の対比効果か。 刻んだ味付け海苔も卵のみで飽きさせないための、良いアクセントになっている!! 夢中で、夢中で掻き込める!! 若干薄味なのもまた丁度いい!!


「気に入ってくれたかしら?」


「おう! 美味いよ。旨いよこれ! 春菜、意外と料理が上手かったんだな。卵がこんなにおいしいと感じたのは初めてだ」


「まあこのくらいは余裕ね、味噌汁もどうぞ」


 嬉しそうに春菜は机に肘をついて笑う。だがしかし、まだ満足といった風ではない。


「あ、味噌汁は箸がいる」


「箸が無ければ、スプーンで食べればいいじゃない」


「なんてマリー・アントワネット!!」


 仕方ない。このままスプーンで食べるとするか。


「うん、美味い。ちょっと味付けが濃いような感じもするけど、旨味が強くて全く変な感じがしない」


「そう。それで、あたしが何の理由もなくスプーンで味噌汁を食べろなんて言ったと思ってる?」


「違う……のか?」


「そのスプーンは、分量的に中さじ。濃い目に味付けした味噌汁をスクランブルエッグかけごはんに四杯……」


 俺は言われるがままにスプーンを動かす。クレーンのように機械的に四往復。


「さあ、どうぞ」


 RPGのラスボスが変身するような高揚感。スクランブルエッグかけごはんの真の力を見ることができる!


「う…………うっめーーーー!!」


「でしょ?」


「まさか、このために初めに薄味で仕上げていたのか? 薄味なのはてっきり、最後まで食べ切りやすくするためのものかと思って満足していた。卵料理の頂点を見たように感じていた二分前の自分が哀れすぎる! これが真の姿か!」


「そんなに喜んでもらえるとまでは思ってなかった。興奮しすぎて喉に詰まらせないでよ。はい麦茶」


 自然な動作でコップを差し出す春菜。そして、一気に飲み干す俺。


「くっそ……。うまいじゃないかこの麦茶。分かったぞ、このお茶には!」


「ただの麦茶よ」


 ……そうか。


 朝一から興奮したせいか。登校路が若干気怠く感じた。


「そういえば、朝一からギプスを代えて貰いに病院に行くんじゃなかったのか?」


 昨日と同じく松葉杖をついて歩く春菜。


「あそこって、救急病院だから朝から開いてはいるんだけど、お医者さんが十時になるまで救急用の人しかいないらしいの。だから、経過観察とかは十時以降にしてって言われたの」


「ならどうするんだ? 夕方にするのか?」


「三時間目から抜けて昼休みに戻ってくるわ」


「ハードなスケジュールを組むんだな。そこまでするなら、午前まるまる休んで、午後から学校に行けばいいじゃないか」


「それも考えたわ。でも……」


「でも?」


 少し間を置く春菜。


「そうすると薫と一緒に登校できないって思ったから」


「お、お前。そういう事言うのやめろよ。恥ずかしい」


「大丈夫よ。あたしの方が恥ずかしいから」


「全然大丈夫じゃなかった」


「学校では、他の子たちと遊ばないといけないから、薫とはあまり話せないしね」


「そうだ。昨日から気になってたんだけど。何でそんなにいろんな人と話して回ってるんだ? なんか、必死と言うか無駄な時間を一秒でも作らないようにしている感じと言うか」


「青春は待ってくれないのだよセニョリータ」


「どっちかと言うとセニョールだと自負していたんだけど」


「もっといっぱい皆と仲良くしておけばよかった、なんて後悔はしたくないなーって思っちゃってね。勉強なんていつでもできるし、そう思ったら、昨日みたいに走り回るのが一番いいって結論になったわけ」


「確かに、昨日は松葉杖で出せる限界の速度を何度も見た気がする」


「部のスローガンは、昨日の自分の前を行く。なのよ。今日はさらに速いわ」


「良いスローガンだな」


 春菜が作ったスローガン。恐らく、俺にこのスローガンを披露するのは初めてのはず。


「あたしが作ったにしてはまともだと思わない?!」


「さすが春菜! 良い腕してんじゃん!」


「陸上部員としては、良い脚してるって言われた方が嬉しいわ」


「さすが春菜! 良い脚してんじゃん!」


「変態ね」


「お前が言うから!」


「ねえ薫。……あたしからこのスローガンの話聞くの何回目?」


 ……ばれましたか。


「何回目……と言いましても、記憶にありませんなー」


「分かりやすい嘘にも程があるわね。ほら、誤魔化していないで吐いてしまいなさい」


「くっ! なぜ嘘だとばれた!」


「こう見えても、あたし。――彼女ですから」


「そうでした。まあ、正直言うと、これが二回目だよ」


「二回目か……。ギャグとしてはまだまだ定着させるには心もとない数字ね。あたしと言えば――くらいのインパクトを出させないと芸人として失格よね」


「誰が芸人だよ。しかも一発屋の芸人が売れるためにする努力みたいな内容じゃないか」


「そうね、インパクトよりも、寧ろその後のトーク術や飽きられないキャラクター性の方を心配するべきかしら。ちなみにどう? あたしのキャラクター」


「ぶれすぎて、キャラクターなんて呼べる代物じゃない。もう少し安定させた方がいいぞ。俺の為にも」


「いまさら薫にキャラクターを覚えて貰おうなんて、どうでもいいわ。それより、こんなのはどうかしら? 魔法少女キャラ」


「まず少女って年齢じゃない。今の時代、女子高校生が魔法を使ったところで、ひっこめババアって言われるのが関の山だ」


「じゃあ、魔女キャラ」


「とりあえず、魔法から離れようか?」


「だって使えるじゃない? 未来予知」


「キャラ付けの為に未来予知なんかひけらかしていたら悪の秘密結社に命を狙われるぞ」


 嘘はついていない。寧ろ自然と注意を促した自分を褒めてやりたい。


「まあそうね、あまり常識の範疇から外れた事は隠しておいた方が良いってお姉ちゃんも言っていたし」


「ああ。俺のこの能力も俺を含めて六人しか知らないしな」


「六人?」


 俺の口から出た人数に、春菜は頭をひねった。無理はない。恐らく、四人しか知らないと思っているだろうから。


「あたしと薫と、新田君と茜ちゃん。……それに、もしかしてお姉ちゃん? あと一人は――?」


 しばらく、無言で歩く春菜。中々答えが出てこないらしい。


「ギブアップ! 答えは?」


 クイズ感覚で考えていたらしい春菜は、そう言って俺に正解を催促した。


「邦男さんだよ。昨日電話があって、何故か知っている風だった」


「あー。そう言われれば納得。お父さんは何でも知ってるからなー。尊敬はするけど、ちょっと気持ち悪いよねー」


 なるほど、これが俗に言う『お父さん気持ち悪い』ってやつか。年頃の女の子がお父さんの事を気持ち悪いだとか臭いだとか言うことで、四十代男性の鬱病患者を爆発的に増加させるあれか。

 違うな。


「またくだらないこと考えてたでしょ? あたしには分かるんだから」


「一言一句間違いなく当てられそうで怖いよ」


「肌に触れたら、ワールドメモリーシンパシーで考えてることも分かるようになるかもよ?」


 そう言って春菜は松葉杖を持っていない右手の方を差し出す。


「ほら、手握ってみる?」


「今そんな事言われて握れるわけないだろう。心を読まれるのは勘弁だ」


「あたしは今、とってもエッチなことを考えています! どう? 握りたくなった?」


「ならねーよ。ほら、行くぞ」


 俺が手を握らずに学校へとまた一歩足を進めると、春菜は手をひっこめた。俺の視界から外れ、後ろからついてくる形になる春菜は、何故か松葉杖で俺の脚を殴った。


「痛って! 何するんだよ」


「別に。ちょっと腹が立っただけ。ほら、学校見えてきたわよ」


 腹が立つって……。なんでだよ。


 学校が見える距離。もう少し正確に言うなら二百メートル程だろうか。自転車通学の生徒が俺たちの登校路と合流する地点だ。


「やっほー。春菜ー」


 そう言って声をかけてきたのはクラスメイトの女子だった。名前は確か、朝倉さくら……だったか。


「おはよう春菜。相変わらず丸岡くんと一緒ね。ホント双子みたい」


 追いかけるように挨拶を重ねてきたのは、同じくクラスメイトの田坂愛だった。

 ――恋人には見えていないんだな。


「おはようさくら、愛ちゃん。あたしの弟をこれからもよろしくお願いします」


「いえいえ、こちらこそ。ふつつかものですが」


 田坂さんは春菜の言葉にのって、ぎくしゃくした挨拶をした。……いったい俺はなんて返したらいいんだろう。


「あ、薫は先に学校行ってて。あたし二人と行くから」


 朝日みたいな笑顔で手を振る春菜。――学校では他の子と遊ばないといけない……。さっきの言葉を思い出して、俺は早々に女子トークの輪から抜けた。次にまともに会話をすることになるのは、下校時だろうか。今日が木曜日。明後日の土曜日には、恋人らしい休日を送ることができるのだろうか――

 付き合い始めて二日目にして不安だった。感じた不安と言うものは、往々にして当たるもので、学校に着いてから相も変わらない一人ぼっち。ただ、昨日とは違って、独りぼっちではなかった。

気分の問題だが。

 宣言通り、二時間目が終わると同時に病院へ向かい春菜が学校を去った後も、一人だったが独りではなかった。

 気持ちの問題だが。

 しかし、人と話をしていないという事は顕然たる事実だ。結果的に一人で考え事をしている時間が増える。いらない事まで考えてしまう。例えば……そうだな。

 春菜はなんで俺と一週間の恋人なんかになりたいと言い出したのだろうか――とか。俺と恋人になることで、一体どんなメリットがあるというのだろうか……とか。

 俺が誇れるものなんてのは、記憶力がいいことくらい。それも、最近、ワールドメモリーとか言った超能力みたいなものだと分かった感じだから、実際、俺自身の力と言った風に堂々と言えそうにもない。別段、金持ちと言うわけでもないし、顔がいいなんて言う事も無い。運動神経抜群でキャーキャー騒がれるような事も無い。なまじ何かと当てはまる友人を知っているから、そちらに惚れない事がむしろ不思議でならない。

 まあ、そいつはモテているが心に決めた人に一途なので無理な訳だが――

 ならば、他に俺と付き合おうと考える理由は他にどういったものが挙げられるだろうか。幼馴染で、気心が知れているから――なんてのも理由の一つかもしれない。しかし、幼馴染なんてものがそんなに評価を上げる要因となりうるのだろうか? 俺にはそうは思えない。

 よくドラマや映画の中で出てくる幼馴染に惚れていると言うやつは、過去に危機的状況から助けたとか、辛いときに支えていたことがあるとか……そんなテンプレートがあるものだ。

 しかし、俺たちの間にはそんなエピソードはない。世界の記憶がそう言っている。何もない。何もないのに、俺と恋人になってほしいと言ってきた。……なぜだろう。

 ――なぜだろう。俺はこれだけ思考しながら一度も、春菜が俺の事を好き――そう表現しないのは。

 言葉に出してもらえていないからか? いや、そんな簡単な理由ではないはずだ。逆に、言葉に出さない事にこそ理由がありそうなものだ。

 例えば……そう。


 言葉にすると本当に好きになってしまいそうだから……とか。


 ああ、なんて面倒な性格をしているのだろう……。もしその理論なら、今は俺の事を好きじゃないみたいじゃないか。

 まず、好きじゃないなら、付き合うなんてならないか――。好きでもないのに付き合うなんて、ブランドもの感覚で男を誑かす悪女くらいじゃないのか? それか、結婚を焦る女性か……。それなら、社会的に何かしらの大きな魅力がある男を選ぶものだろう? 俺にはそんな魅力なんてない。それに、春菜本人が言っていたじゃないか。


『あたしが無価値でも、薫の方が価値がないから大丈夫』


 そう言っていたじゃないか。それに、改めて考えると春菜は肩書きとか見栄に興味なんてなかった。そういう奴だった。無能な俺といると安心感を抱ける……そう言われると一発で納得できる。いや、意外と遠からずな答えなのかも知れない。

 頭の片隅には、恋人になる意味という答えの出ない論理パズルが眠っているが、今はどうにも解けそうにない。恋人だったという事実が残る……それ以外の解が出ない。

 その答えがぼんやりと浮かんでいることで、更に何かが引っかかっているような気がする。何か見落としているような気がする。このまま後十倍の時間をかけて思考を巡らせれば答えが出る気がする。

 若菜さんくらいの頭の回転の速さがあれば、今の時間で答えられただろう。冗談抜きで若菜さんは十倍速の思考回路を持っているからな。頭の回転が速い人は本当に羨ましい。

 ……俺には、本当に記憶力しかないな――


「痛っっっったっ!!」


 突然首元に放たれた大量の輪ゴム――。マウスぐらいなら殺せるんじゃないかと思えるほどの大質量の輪ゴムが足元に落ちる。ぼんやりと机に肘をつき、窓から夕焼け空を眺めている姿勢から、今や後頭部を押えて突っ伏している。


「っっっ……ぷ。ぷふははっっ!! 良いリアクションしてくれて、あたし腹筋も骨折しそう」


 抱腹絶倒。その言葉が表す通り、腹を抱えて床を転がる俺の彼女らしき生物が視界の端でちらつく。


「腹が攣った……」


「俺は腹が立ってるんだが」


「まあまあ、立ちっぱなしも何ですからどうぞお掛けください」


「うるせー。新しいなだめ方を開発してんじゃねーよ」


「AIBOみたいに、ぼんやり外なんか眺めてたからついね」


 懐かしいなAIBO。春菜のおばあちゃんが飼ってたな。

 AIBO「ERS―7M3」

春菜のおばあちゃんが大切にしていたロボット犬だ。若菜さんが四六時中一緒にいたイメージがある。今はどうなってしまったのだろう。


「ほら、せっかくギプスも新しくしたんだから一緒に帰ろっ。ちょっと人通りが少なくなるまで手を繋ぐのはお預けだけど」


「なんでそんなに秘密にしようとするんだ? 良いじゃないかみんなに知られても」


「だめよ。あたしたちみたいなド底辺カップルが幸せそうにしていたら、世の努力している優秀な方たちに失礼よ。恨まれるわ」


「確かに、あまり公衆の面前でイチャついているカップルは見ていて気分のいいものでは無いな」


「そうよ。よく言うじゃない。カップルには死を、夫婦には冥福を。って」


「春菜、それは変なサイトを見ているからよく聞くだけであって実際によく言ったりはしないぞ」


 それじゃ、カップルが結婚と言う死を迎えて、冥福を祈られる流れみたいじゃないか。


「で、何難しい顔して悩んでたの?」


 先程とは変わって、若干心配そうな顔で俺を覗き込む春菜。なんだ、可愛いところあるじゃないか。


「当ててあげようか?」


「いや、遠慮しておくよ。大したことじゃないし。それに、当てられても反応に困る」


「じゃあ、悩みが吹っ飛ぶような情報を提供して上げましょう」


「何だ?」


 放課後の教室に誰もいない事を確認し、ご丁寧に廊下まで確認した春菜は教室の対角に立って言った。約十メートル離れた距離でも聞こえる声で言った。


「あたし、薫のこと。――大好きだよ!!」


 本当に、人の心を読んでいたみたいな――。それでいて本当に俺の悩みが吹っ飛ぶような情報を提供してくれた。満面の満足げな笑みを湛える春菜。俺は恥ずかしくなり走って駆け寄ると春菜の細腕を掴んで教室から飛び出した。


「痛い! 痛いって!」


 そのまま下駄箱まで行ったところで、春菜は今まで我慢していたとばかりに声を挙げた。


「さあ、気を取り直して行こう」


「なんか、誤魔化された気がするー」


 腕は放したが、春菜はまだまだ御立腹のようだった。帰宅途中、二人きりになるまでずっと頬を膨らませている。あの頬を突いたら良い音が鳴りそうだ。

 そう思ったそばから、体は動いていた。両手の指でグサっと。


「ぷっ!」


 おお。予想以上に高い音だな。


「ちょっと! 何すんのよ!」


「いや、鬼灯みたいで良い音が鳴りそうだったから」


「理由になってない」


「知ってたか? 鬼灯って赤く膨らんだ頬に似ている事が語源らしいぞ」


「だから! 知らないって!」


「でも、良い音が鳴ると言えば、鬼灯よりも風船葛だよな」


「……そうね。フウセンカズラね。確かに叩けば良い音が鳴るわね」


「昔はよく二人で風船葛を割って遊んだなぁ。ほら、あの角の家。毎年風船葛が実を付ける。今年は……まだ早いか」


 実が生るのは、確か八月末くらいだったはずだ。今はまだ七月。花は咲いているだろうが、音を立てる風船はまだだろう。


「あっ、実が生ってる」


 ギプス姿で器用に駆け寄って、春菜は一つ実を摘んだ。なんで今の時期に……?

 俺の眼前まで持ってきた春菜は、小気味の良い破裂音を出して風船葛を叩き割った。


「あたしはこんな音出ないでしょ?」


「俺も一つ、やってやるか! 久しぶりに良い音対決だ」


 そうして、約十年振りに開催された風船割りバトルは、家主に叱られるまで続いた。それもまた、十年振りで――

 十年ぶりに注意をしてきたおばさんも何故か嬉しそうだ。勘違いでは――無いだろう。 何せ笑っていたのだから。そして、そのおばさんは、帰り際に手土産までくれたのだ。そんなに好きなら、自分の家でも育てたら良いと……。一掴みの風船葛の種を。


「あっ、薫! フウセンカズラって英語でなんて言うか知ってる?」


 楽しそうに、種が握られた俺の手を指差して微笑む。


「えっと……バルーンパイン――だっけ?」


「違う違う。いや、違わないかも知れないけど、あたしが知ってるのとは違う」


 指をノンノンと振る春菜は、楽しそうだ。


「その種を見てみて、実はね……」


 そっと手を開き、種を眺める。そういえば、まじまじとは見たことが無いな。いや、種を見たのも初めてか――


 白い……模様?


「フウセンカズラはね、ハートピーとか、ハートシードって呼ばれてるのよ。その名の通り、種にハート型の模様があるから」


「確かにハート型だ」


「それとね。想いを届けるって花言葉も持ってるのよ。風船が運んで――ね。ハートを風船に入れて誰かに届けるなんて、随分ロマンチックな植物よね」


「春菜の口からそんな話が聞けるとは思ってなかったけど――良いな。そういうの。もしかしたら、季節外れに実ってたのも、誰かが想いを届けようとしていたのかも知れないな」


「薫こそ。らしく無いこと言うじゃない」


「二人で叩き潰したけどな」


「薫らしいこと言ったわね」


 こういうノリ、嫌いじゃないからな。


「春菜の機嫌も治ったことだし、万事解決! だな」


「そうよ! あたし怒ってたのよ! 結構痛かったんだから、謝ってよね」


 わざとらしく頬を膨らませる。もう怒ってはいないようだ。どう? とばかりにチラチラと俺の顔を伺う? まあ、実際俺が悪いわけだし……。


「ポン!」


 ここは上手く春菜の頬を叩くことにした。


「だから! なんで叩くのよ!」


「なんだ、良い音鳴るじゃないか。その調子で、風船葛と同じように心をさらけ出してくれたら良いんだけどな」


 春菜は目を丸くしていた。


「まだ、俺に言えないこと抱えているんだろ? いつでも聞いてやるから」


「くさい」


「えっ?」


「だから、セリフがくさいっての!」


「うっうるさいなっ! 良いだろ、たまには」


「まあ、良いけど……」


 顔を背けて、春菜は俺の胸を手の甲で軽く叩いた。


「松葉杖外したんだから。手……繋いでくれるんでしょ」


「あ、ああ」


 差し出した俺の手を、握り潰す勢いで掴む春菜。


「手って、どのくらいの力で繋ぐものなのかな……」


「良いんじゃないか? このくらいで」


 丁度良いんじゃないのか?


 俺たちなら。

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