第一話 神様の悪戯
(一)
江ノ島電鉄、通称江ノ電の極楽寺駅を降りて徒歩八分圏内に、天道家はある。極楽寺は紫陽花の季節となれば観光客で賑わう場所の一つだが、別の意味でやって来る者もいる。
「本当に、この辺りなのか?」
「いいか? いつでも撮れるよう準備しておけよ。『BROTHERS』の『KAI』、『SORA』の日常――、このネタ余所に取られたら、編集長に何言われるか」
雑誌記者らしい男たちが、周りを見渡しながら通り過ぎていく。
今、芸能誌を騒がせているのは歌謡界にデビューした、ロックバンド『BROTHERS』。ルックスも技量も申し分ないと、瞬く間に歌謡界を駆け抜けた。
そのメンバーである双子、『KAI』と『SORA』がこの地に暮らしているという。
天道家の周りには『BROTHERS』メンバーの私生活を覗いてやろうと言う雑誌記者、ファンが今日もウロウロしているが、幸い詳細な住所までは掴んでないらしく、自宅の前で鉢合わせする事はなかった。
「――あら、海ちゃん。今日も早いのねぇ」
ゴミの収集場にいた中年女性が、見慣れた顔を見つけた。
「おばさん、俺もう二十三だよ? その《海ちゃん》はやめてよ」
「いいじゃないの。あんた達が赤ちゃんの頃から知ってるんだから」
ゴミ出しに来た青年を前に、彼女はケラケラと笑う。
「そう言えばまた雑誌社の人、最近増えたわねぇ」
「そのようだね、さっきすれ違ったよ」
「一体どんな大物が住んでるのかしら? 海ちゃん知ってる?」
「さぁ、俺そういうの詳しくないから」
海の見事な惚けっぷりに、彼女はそれ以上追求してはこなかった。まさか、『BROTHERS』のメンバー『KAI』本人だとは全く気付かず、「これ、良かったら食べて」とお菓子を渡す。
青年――、天道海は目立つこの上ない容貌だが、周囲は今やスターになろうかと云う人間がゴミ出しに現れるとは思っていないのだ。一人でスーパーに買い物にも行けば本屋にも行く。何処かの外人モデルと思われる事はあっても、意外にファンや雑誌記者には理解らない。決して変装している訳ではないのだが、普段は金髪を無造作に束ね、保育園の保母さんかと思うようなクマやらウサギのアップリケ付きエプロン姿だ。
そんな天道家のダイニングでは朝食用のパンが焼け、天道家の末っ子・陸が今起きたとばかり入って来る。まだ寝足りない目は半眼で、視界に人影を捉えて一言。
「……う」
思わず呻いた彼に、既に席にいた男は眉間に皺を寄せる。いつもなら、彼が登校してから起きてくる天道家次男・天道空である。陸は、どうもこの次兄は苦手だ。しかも、席は彼の真正面である。もう少し和やかに出来ないものかと思うが、空はいつも眉間に小さな皺を刻み、無愛想ぶりを徹底している。
長兄に言わせると「無駄に顔だけはいい」と言う。
確かに、にっこり笑おうものなら、通りかかった女性は一発で落ちるだろう。腰まで伸びた金髪と碧眼、一七八の身長である。だが、一度やってみたらと提案したら鼻で笑われた陸である。以後、余計な事は言わないようにしている。
「――俺がいちゃあ、悪いのか?」
視線が合えば合えばで、温度が下がる。何せ陸は、思っていることが顔に出る。
「そ、そんな事はないよ。ただ驚いただけ。空が、こんな時間にいるなんて何年ぶりかなぁと……」
寝起きが悪いのは陸も同じだが、この次兄は特に悪い。起こし方を間違えると、普段は口数の少ない彼が毒舌を展開してくるのだ。既に機嫌が悪そうな顔に、やらかしたのは誰かは陸は察しがついた。
(海兄だな……)
空はその海とは一卵双生児で、日本人の父親とアメリカ人の母親の間に生まれたハーフである。同じ金髪碧眼の悔しいほどのイケメンだ。問題は性格である。
「グッドモ~ニン~♪今日も快晴」
ゴミ出しを終えた長兄の底抜けに明るい声に、空の眉間に刻まれた皺と、冷気が増す。
「海の脳天気頭は、いつもだろ」
今すぐにこの場から退散したい気分だが、この次兄を前に逃げるのは態とらしく、引き攣った笑顔を浮かべながら陸は始まるであろう兄たちの舌戦を覚悟して、一応聞いてみた。
「海兄、何したの……?」
「何って、起こしただけだよ。こいつを起こすのは俺しかいないし」
「普通に起こしてない、……よね?」
「俺にとっては普通だけど?愛のモーニングコールさ」
何をしたか、陸は理解った。長兄の一番、厄介な癖。
「何だよ、もやしになるよりはいいぞ~。鉄仮面の次にもやしじゃ、親父も墓の中で嘆くぞ。布団中で本当になっちまうぞ。もやしに」
布団の中で、本当にモヤシが栽培できるか考え物だが、起こさなければ昼間まで起きないのが空だ。
「もやしもやしと……! だからって、抱きつくんじゃねぇ」
実にくだらない、兄弟喧嘩である。
(ウチの兄貴達、本当に『BROTHERS』なのかなぁ……)
陸がそう思うのも、無理はない。
「やっぱり、抱きついたんだ……、空に……」
怖いもの知らずと云うか、ある意味凄いと感心する陸であった。
「呼んでも起きないし。あの、もやし……」
にっこり笑う空の背後から、スリッパが飛んで来る。
「物は大事にしようねぇ……、もやしくん」
見事スコーンと後頭部に命中したスリッパを拾い、海が全く懲りていないのが陸にも理解った。双子の口喧嘩は天道家お馴染みの光景だが、『BROTHERS』のとしての切り替えはそれは見事なものだ。
「陸、そろそろ行かないと遅刻するよ」
「いけね」
パンを口に挟み、リュックを背負いつつ去っていく末っ子を見送りながら、海は改めて空に視線を戻した。その表情はさっきとは別人だ。
「――今月発売の『LEGEND』、もう見たか?」
『LEGEND』は創刊五十年の音楽専門誌である。その名の通り、取り上げられるアーティストは大物揃いだ。
二人の前には、その音楽専門誌『LEGEND』の月刊誌があった。そこには、一人の中年男性の写真が載っている。神崎芸能事務所の社長、神崎竜二。
神崎竜二は、昔ミュージシャンだったと云う。カリスマと云われた天才ギターリストは、二十二年前、日本から突然消えた。神崎が何故帰って来たのか、今の二人には嫌と云うほど理解る。天童家と全く関わりがないと云うのなら、無視が出来たが。
「あの叔父貴にその顔、台無しにされない事を祈るんだな。俺は同じ面、家の中でも見なくて済むが」
とことん容赦ない空の言葉に、とてもその叔父には云えないと思った、海である。
「助けてくれる気ないわけ?兄貴のピンチだぞ」
「ないな」
あっさりと切り捨てられ、海の顔が引き攣り出す。
「薄情な弟だな」
「何とでも言え。海が殴られるピンチなど、俺のに比べられば屁のようなモンだ」」
海が何をしたのか、それを叔父・天道リキが知るのはこのずっと先の事である。
◆
幽霊が出た――、そう彼女が聞いたのは11月半ばの事だった。
パソコン画面を開く所属社長が、『彼』が目覚めたと言う。
そこには、『幻のギタリスト・KIRAは何者か』とあった。
十三年経って世に出た『KIRA』の名前。何故今なのか――。単なる同名と無視して、その後その話題はネットからも消えた。
それから間もなく、彼女――橘涼子は更に驚愕する。
都内某所――、ビルの一角に芸能プロダクションを構える男はその日、懐かしい顔と再会した。デスクのコールが面会者を告げ、その名に驚く一方で彼は笑んだ。
「――涼子、まさか君が僕を訪ねて来るとは思わなかったな」
「久しぶり、竜二。いえ、今は神崎芸能芸能プロダクションの社長さんだったわね。貴方にそんな才能があるとは意外だわ」
女性は、棘のある物言いであった。視線もきつく、好意的ではないのは男も理解った。昔の彼なら負けずに言い返していたが、男は苦笑しているだけだ。
「相変わらず、厳しい物言いだな」
「ミュージシャンとしての貴方の才能は認めるけど、人としては嫌いなだけよ」
「僕は、もうミュージシャンじゃないよ」
「そのようね。随分様変わりしたようだわ。あの貴方が」
彼女の名は、橘涼子という。大手芸能プロダクション『デープ・ジェロ』通称DJの敏腕マネージャーだが、十三年前はロックバンド『SOULJA』の担当マネージャーだった。男――、神崎竜二はその『SOULJA』のライバルタレントで、当時は何かと嫌味な物言いや挑発をしてきたので橘涼子に嫌われているのだ。当時、神崎竜二はカリスマギタリストと言われ、音楽業界の賞を総なめしたが、彼は二十二年前突然日本から消える。その彼が何故今になって帰って来たのか、出来れば逢いたくない男だったが彼女は動かざるを得なかった。
「君が僕を訪ねて来たのは、アレかい?」
「世を騒がす事だけは、変わってないわね」
今月号の音楽専門誌『LEGEND』の頁を開き、その表情は更にきつくなっていく。
――僕が音楽の世界に戻ってきた切欠は、『KIRA』です。
「その内容の通りだ。僕が、この世界に戻る事を決心させたのは『KIRA』だ。ここの前社長は僕の叔父でね。アメリカにいた僕に、社長を継がないかと連絡があった。それだけなら帰るつもりはなかったんだが」
「冗談言わないで!彼は死んだわ!!」
神崎はゆっくりとデスクから離れると、窓際に立った。そしてCDを取り出し、デッキにセットした。流れてくるのは、ロックギターの音色だ。さすがの橘涼子も、絶句した。
「ミュージックチャンネルって、知っているかい?」
「ええ、知っているわ。プロを目指すアマチュアミュージシャンが集まるインターネットサイトよ。ウチのタレントも何人かは、そこから探してきたわ」
「その君が、『彼』を見逃すとはな」
「どういう事……?」
「これだけの才能だ。なのに、君も椎名プロデューサーも気付かない。世の中には、彼以上のテクニックを持った人間はまだいるからな」
そう、普通なら埋もれてしまう筈だった。『ミュージックチャンネル』には膨大な曲がUPされる。どんなに技術や曲が優れていても、埋もれ消えて行くものの方が多い。
しかもその人物は一度しか、UPして来なかった。一人の人間が聞き漏らさずDLして残さなければ、世に出ることもなく。
「UPされたのは五年前だ。それが一部メディアによって五年経って世に出た。『幻のギタリスト』として」
もはや、橘涼子は顔面蒼白だ。『幻のギタリスト』の噂は、彼女は知っていた。しかも『KIRA』と名乗っている。反応した人間は、多かった。曲までは聴いていなかった彼らは、敢えて調べようとも探そうともしなかった。神崎以外には。
彼らの知っている『KIRA』は、十三年前に死んでいるのだから。
「音楽の神様は、とんだ悪戯をするものね」
「音楽の神様か……、君がロマンチストだとは意外だ」
「私が言い出した事じゃないわ。でもこの世界には偶に神懸かり的なアーティストが生まれる。自分はスターだと、人を馬鹿にしてばかりいる奴もいたけど」
とことん、容赦のない橘涼子である。
「果たして悪戯か、でも僕は間違いなく『KIRA』に呼ばれて帰って来た。名を騙る偽物だったとしても、僕にもう一度この世界で生きる機会をくれたんだ」
二度と帰らないと決めてきた日本、挫折し音楽業界から引退した男に火を付けた謎のギタリスト『KIRA』。
嘗て、その名のロックミュージシャンがいた。
ライバルだった神崎竜二は当時を懐かしそうに振り返る。
『KIRA』は本名は、天道吉良と言う。兄、天道リキと共にバントを組み、その人気は神崎竜二を超すと期待された。
音楽の世界は、次々と新しいスターが生まれ、逆に消えて行く者もいる。その一人に、神崎がいた。カリスマ、スターと持ち上げられるままに天狗になり、努力を怠れば腕も人気も落ちるのは当然だ。更に悪い評判だけが人々に刻まれれば、尚更だ。自ら足を踏み外したのだと、神崎が認めるまで随分かかった。音楽の世界を恨み、評価しなくなった関係者を恨み、当時の神崎は全て人の所為にした。
「そういえば『BROTHERS』は、今凄い人気だそうだな」
「もうそのメンバーに誰がいるか、掴んでいるんでしょ」
「『KIRA』の息子だろう?」
今度は天道吉良の息子達と対立する側に回るとは、橘涼子の云う通り、音楽の神様のこれは悪戯だろうか。
果たして『KIRA』の息子達は、父親のような存在となるか。それとも―――。
神崎は出会うのを楽しみに思いながら、唇を吊り上げた。
(二)
藤沢から鎌倉まで走る江ノ島電鉄は、通称江ノ電と呼ばれ親しまれている。紫陽花の季節となれば沿線に紫陽花が咲き、成就院、長谷寺、明月院は紫陽花見物の観光客で賑わう。その江ノ電十一番目の駅が近づく。
「次は、極楽寺」
車内アナウンスに一人の男子高校生が椅子から立ち上がり、扉の前に立つ。
「ねぇ?」
近くにいた女性客が、ひそひそ話を始める。
(俺……、何かしたかな……?)
癖っ毛の髪を弄りながら、彼は女性客の視線に気付いた。一人だけなら未だしも、数人ともなると、恐怖でしかない。いつもは、こんな事はないのだが。
「よっ、お帰り。陸」
肩を叩かれ振り向いた彼の顔が、如何にも迷惑そうに歪んだ。
波打つ金髪を束ね、ギターケースを背負った男性が、にっこりと微笑んでいる。女性客には、何処の外人モデルだろうと思っているのだろうが、陸にとっては家の中で、毎日見慣れた顔である。
(騙されるなよ、こいつがいいのは外見だけだからな)
陸は、頭にハートマークを浮かばせそうな彼女たちに向かい、心の中で警告した。
「海兄、何でいるんだよ」
「なんでって、家に帰るんだからいるのは当たり前だろう。そう、迷惑そうな顔をするなよ。お前の兄貴だぞ? 俺は」
降車駅まで後二三分なのに、何と長いことか。そんな弟の心境を理解っているのかいないのか、その兄はニコニコしている。兄と云っても異母兄で、この兄は一番上の兄で天道海。母親がアメリカ人と云うハーフである。しかも、顔はいいが性格が最悪な兄はもう一人いた。
「何で、車を使わないんだよ。『BROTHERS』の『KAI』とあろう人間が、江ノ電に普通に乗るか?」
「いいじゃん。誰も気づいてないみたいだし」
人気ロックバンドメンバー『KAI』は、海のもう一つの顔である。本名の海を音読みして『KAI』と名乗り、バンドではリーダー兼ベースを兼任している。その『KAI』が、まさか堂々と電車に乗っているとは思っていないのか、一度もばれた事はなかった。それでも、別の意味で目立つ。
陸は、そんな海の弟だが恥ずかしがり屋だ。乗り合わせている女性の目は今も海のイケメンぶりに釘付けとなっていて、当然視界には一緒に親しそうに話す陸も捉えられる。
一度どういう関係?と、しつこく聞かれて大変な目に遭ったことがある。兄です、など云えば間違いなく今後自宅までストーカーされる。
「よくもまぁ、そうポンポン言えるなぁ? 益々、空に似てきたな」
「なんで、空が出てくるんだよ」
「口を開けば地面に沈みたくなるような毒舌を展開するし、寝起きは悪いし、あいつを相手にした奴は、かなり落ち込むぞ?」
そう言ってる彼も、相当酷い事を云っているのだが。
海と一卵双生児と云うもう一人の兄・天道空も、海と同じ金髪碧眼だ。性格は見事に真逆で、絶えずポーカーフェイス。海曰く、『鉄仮面』。
「その空は?」
「まだスタジオにお籠もり中。多分、曲作りさ」
「新曲、この間だしたばかりじゃん」
「いくら双子でもアイツの事は何でも理解る訳じゃないよ」
『BROTHERS』は、一年前プロデビューしたロックバンドである。今や人気ロックバンドとなったそのメンバーに、陸の二人の兄はいたのである。
そんな三兄弟が利用する極楽寺駅は、木造のこぢんまりとした駅舎だ。緑色の大きな看板を掲げたその駅舎の脇には今では見られなくなった旧式の郵便ポスト、駅を出て左に曲がって歩けば、江ノ電長谷駅と極楽寺駅の間にある江ノ電唯一のトンネル、極楽寺トンネル、通称『極楽洞』が近くにある。駅名となった極楽寺へ通じる橋の前を通ると、『極楽洞』から出てくる江ノ電を撮影しに来ていたらしい鉄道ファンも、さすがに海の姿に手を止めた。
昔は、三人で並んで歩いた事もあるが、それは陸が幼稚園の頃だ。海と空が『BROTHERS』としてメジャーデビューしてからは、食卓に三人が揃う事も減った。
男も見とれるイケメンは、足を速める弟にぴったりと寄ってくる。
「それより喜べ。今日はおでんだぞ」
海の片手には、スーパーの買い物袋がある。実は彼は、家事炊事も熟す。何せ、小学三年生の頃からだと云うからそれは見事なものだ。
「俺はカレーがいい」
「文句ないいわないの。昔は、兄たんと云って可愛かったのに」
「し、知るか」
「そう恥ずかしがるなって、りっくん♪」
抱きついて来た海に、陸は悲鳴を上げた。
「こんなところで、抱きつくんじゃないっ。馬鹿兄貴!」
◆
誰もいなくなった、稲村ヶ崎の貸しスタジオ。譜面を睨んでいた天道空は、人の気配に視線を上げた。『BROTHERS』のプロデューサーでもある叔父・天道リキが、いつになく深刻そうな顔で切り出す。
「――神崎竜二が日本にいる」
「そのようだな」
「知っていたのか?」
「雑誌に載っていたのさ」
「あの男、今頃あいつの名を口にしやがって……」
「あんた、神崎の話になると人格変わるよな」
空も口はいい方ではないが、人前ではリキのように感情は外に出さない。腰までる金髪を荒く掻き上げて、空は滅多に出さぬ笑みを零す。
「お前は、平気なのか?」
「俺は、そんな柔な奴じゃないよ。叔父貴」
「なら、いいが……」
空が帰宅したのはもう二十三時になっていたが、海はまだ起きていた。
「――まだ寝てなかったのか?」
「明日の準備をしておこうと思ってな。今帰ってきたのか?」
愛用のベースを機器に接続し、彼はチューニング中だった。
「ああ」
「空」
「なんだ?」
「絶対立うな、武道館のステージに」
「――当たり前だろ。じゃあな」
「ああ、おやすみ」
ラジオから流れて来る『BROTHERS』のナンバー。
ドラムのサトシに、ギターのレン、ベースの海、そしてヴォーカルの空。武道館のステージという亡き父の夢は、『BROTHERS』メンバーの夢ともなった。
夢は絶対叶う――、諦めず、逃げなければ。
子供の頃に聞いた、父の言葉。
――親父、見ていてくれているか?
海はそう、心の中で亡き父に呼びかけていた。
(三)
『BROTHERS』の、CD売り上げは快調だった。オリコンランキング上位をキープし、所属芸能事務所社長・幹玲奈は上機嫌である。何せ、タレントは『BROTHERS』しかいない。お陰でプロデューサーであるリキが、彼らのマネージメントまでしなくてはならない。崖っぷちだの貧乏だの、小中高と一緒のクラスだったと言うリキは口では貶すが、いざ仕事でパートナーとして組めば頼れる存在であった。最近はモデルの依頼もあるそうだが、これに眉を寄せたのが空だ。海と違って目立つのは嫌いな男は、即答だった。
「断る」
「もったいない。モデルとしても抜群なのにぃ」
「幹さん、無理無理。スタイルより性格に難ありだもん」
『BROTHERS』は、小さな芸能プロダクションに所属している。社長の幹はモデル茶化し始めた海に、空は毒づいた。
「それは海も、だろうが?」
「ほらね、口を開けばこの口の悪さだよ?俺ならいつでもいいんだけど―――…、って睨むなよ。冗談も通じないんだから空は」
同じ金髪を大きく掻き上げて、海は空の一睨みに後退った。
「まさか引き受けてないだろうな? うちは音楽一本だぞ」
「プロデューサの貴方に逆らうなんて、怖い事はしないわ」
「幹さん、社長なのにこの叔父貴が怖いの?」
「温厚そうに見えるけど、意外に気が短いわよ。昔は、良く神崎竜二に噛みついてたわ。吉良と二人で止めるの大変だったんだら」
「ミキ、余計な事を云うな。昔の事だろう」
「ムッとすると、ここに青筋浮かぶのよねぇ」
思わず噴き出しそうになった海は、口を押さえた。リキのこめかみに、本当に青筋が浮かんだからだ。慌てて話題を逸らした。
「『SEIYA』って、あの?」
「さすが、海ちゃんね。神崎芸能プロの新人よ。社長神崎が自ら育てたギタリスト、さすがカリスマ仕込みのテクニックね」
「だが、コピーでは上へは行けない。音楽の世界は、そんな甘くない」
「ほんと、貴方執念深いわねぇ。神崎と聞くと容赦ないんだから」
幹は、神崎竜二とリキの間にある因縁を知らない。その訳を、海と空は知っているが敢えて言わず、席を立った。
「誰が来ようが、全力で俺たちはやろだけだ」
「今夜の『SUCCESS』でのステージは俺は行けん。テレビ関東で打ち合わせがあるんでな」
「もしかして出演依頼?叔父…じゃなくてプロデューサー」
「どうやらテレビ側も俺たちを見過ごせなくなったようだ」
『BROTHERS』はメジャーデビューしたと云っても、生のテレビ出演はない。現在の活動場所ライブハウス『SUCCESS』は、バンドの聖地と云われる。そこを連夜超満員にする『BROTHERS』に、所詮は親の七光りと嘲っていたテレビ関係者は視聴率を確実に採れると計算したらしい。
海と空が出て行くと、幹が真顔になった。
「まだ、忘れないの?リキ。もう十三年経っているわ、吉良が死んで」
「神崎との事なら、トラブルを起こさないようする」
「そうじゃないわ。あの子達に対する貴方の態度よ。子供じゃないのよ、あの子達は。ここは危険だから駄目、あそこは危険と過保護な親みたいよ」
それ故に、リキは多くの目に触れるような仕事は引き受けない。十三年の弟の死を未だ引き摺っている事は、長年の付き合いである幹なら理解る。
「あいつの……吉良の事に、何も気付いてやれなかった。俺は、もうあんな思いはしたくないだけだ」
「さっき貴方は、『SEIYA』は神崎のコピーだと言った。リキ、『BROTHERS』に吉良と貴方の夢を重ねるのは駄目とは言わない。でも、彼らも貴方たちのコピーじゃないわ。何を怖れているのか理解らないけれど、過保護すぎてあの子達の可能性を塞ぐ事になったら、それは護っている事にならないわ」
「理解ってる」
そう理解っているのだ、頭では。傷付くことを怖れていては、前へは進めない。なのに、躯が動いてくれない。ベースが弾けなくなった指のように。
◆
テレビ関東――Aスタジオ。
「――お久しぶりです、ヤマさん」
夜の収録に向け、セットを組んでいた男は怪訝そうに振り返った。
「……誰だったかな?」
「神崎竜二ですよ」
「神崎竜二……!? 本当に君なのか?」
昔から大道具担当の男・山南は、神崎竜二を覚えていた。
「ええ、そうですよ」
「理解らん筈だ。神崎芸能の社長が来るとは聞いていたが」
このAスタジオでは、毎週木曜日に放送される歌番組が収録される。神崎芸能プロの『SEIYA』が出演決定し、神崎がその下見に来ていたのだ。
「しかし、残念です」
「何がだい?」
「今日は『BROTHERS』を直に見れるかと期待してたんですよ。あの『KIRA』の息子たちを」
「『BROTHERS』は、来週中継での出演だ。そう言えば、そろそろ打ち合わせに来る頃だ。おお、来た来た」
振り向いたた神崎は、思わず固まる。
「天道リキ……」
リキも気付いた。嘗てのライバルの、二十二年振りに対面である。
「話すことはない」
「ウチの『SEIYA』も今度出演する事になってな」
「アレで満足するようじゃ、あんたも落ちたな」
「厳しい意見だな」
神崎は、リキが何を云いたいのか理解っているようだった。『SEIYA』は、確かに上手い。しかし、それ以上ではない。教えられた通りに、ギターを弾いている時点では。故に、コピーなのだ。
「ソフィア……いや、ソフィア・天道は元気か?」
「――彼女は、死んだよ。二十二年前に」
「死んだ?病気か?」
「あんたが殺したのさ」
リキは、神崎竜二に会ってもも冷静でいようと心掛けでいた。あのままいたら殴っていたかもしなかった。やはり、危険すぎるそう思ったリキは駐車場で躯を強張らせた。
空が、真正面から歩いてきたのだ。目立つこの上ない男は、長い金髪を靡かせ、周りを釘付けにしていた。ただ、『BROTHERS』人気ヴォーカルだとは気づかない。まさか人気ヴォーカリストが堂々と道を歩いているとは思わない。いや、それどころではなかった。
「空!」
「何だよ、真っ青な顔をして。俺は幽霊じゃねぇぞ」
「いいから、来い!」
空の腕を掴んだが、そこにテレビ局から出てくる神崎竜二も現れた。
「まさか、彼は――」
神崎が言い終わらぬ内に、リキは叫んでいた。
「空、俺の車に乗れ!早く!!」
空は、神崎を無言で睨んでいたが、往来の場所で騒ぎを起こす訳にはいかない。
「……まったく、今日は何て日だ」
「叔父貴がカッとした姿、初めて見たよ」
「お前、何故あんなところにいた?」
「近くに用があってね。しかしさっきのは、露骨すぎる。神崎も変だと思うぞ。あれだけあんたが焦れば」。
「お前は許せるのか?神崎を。あの男は――」
「以前に、云った通りさ。俺は、あんたほど執念深くない」
彼らが去った駐車場で、神崎はまだ呆然としていた。そんな神崎に、秘書が歩み寄る。
「社長、こちらでしたか」
「今すぐ調べて欲しい事がある」
「お急ぎになりますか?」
「とりあえず、ソフィア・天道と言うソプラノ歌手の事を」
天道吉良の最初の妻にして、アメリカ人ソプラノ歌手。
――あんたが殺したのさ。
リキの言った言葉が、気になった神崎であった。
(四)
運命は、時として残酷である。その日、藤堂外科クリニック院長である医師は一人の患者に驚きを隠せなかった。相手は、いきなり会って驚かれるのか理解っていなかったようで眉を寄せた。確かに目立つ存在だが、医師が驚いたのは別の事だ。
そして彼は、今度は更に愕然とさせられたのである。
その患者が帰って、間もなく届いた検査結果。
「悪戯にも程がある……」
彼が何を云っているか、側にいた看護師には理解らない。差し障りのない話題を振った。
「さっきの患者さん、とても綺麗な方でしたね」
「え……」
「嫌ですわ。ほら、長い金髪の男性。風邪を引いたとかで」
やはり、その顔は強張っている。患者用の椅子には二時間ほど前まで、確かに看護師の言う男は座っていた。勘のいいその患者は、藤堂の反応を察したらしく軽く笑った。
「神様の悪戯は残酷だな……」
帰り際、そう言って長い金髪を翻した。神様を信じていたのは、どちらかと言えば男の父親である。
帰り道、その彼は父親の口癖を思い出した。
――夢は、諦めたら終わりなんだよ。信じ、諦めず、決して逃げない。そうすれば神様はちゃんと叶えてくれる。その道の先に最高のプレゼンを用意して。
(諦めたつもりも、逃げたつもりもないんだが)
神様に悪戯される覚えなどないのにと、空は苦笑した。
「――っ!」
思わず蹌踉めいた躯は、支える間もなく転倒した。
「空?」
帰宅した陸が、驚くのも無理はない。海なら理解るが、空は滅多に転ばない。壁に片手を突き、立ち上がろうとしている次兄がいるのだから。
「海ならまだ帰ってないぞ」
「なんか俺、最近空の貴重なシーンよく見るんだけど」
「顔色悪いよ、空。最近徹夜で曲を書いてると海兄も心配してたけど」
「止まっていられないのさ」
「あまり――無理をするなよ。空も俺の兄貴なんだから」
「ああ」
トントンとリズム良く二階に上がっていく弟の足音に、空は拳を握りしめる。
そう、止まってはいられないのだ。
何気なく捲っていた古い音楽専門誌、とある頁に目を止め空は笑う。そこには父のバンド『SOULJA』が紹介され、父の天道吉良、叔父の天道リキ、そしてさっき空の診察をした医師の若い顔がいた。となれば、その医師が何をするのか空には理解る。
今頃、叔父の元に連絡がいっているだろう。
空は挑むように笑んで押し入れを開けた。その中で、見たモノ。海やリキには、過去には拘っていないと言い切ったが、内心では揺れている。しかし前に進むためには、決断しなくてはならない。大丈夫だ。これまでだって三兄弟で乗り越えて来られたのだから。
空は、自信にそう言い聞かせ、ソレに向かって云う。
「俺は、もう逃げない」
夢からも、運命からも。まさか、夢の実現への道程がこんなに過酷とは思っていなかったが、空の意志は更に強まった。
◆
「やっぱり、コレなんだよなぁ」
海は、部屋の中で思わず独り言を言った。
開いたパソコンから流れている、巧みなギターソロ。弾いているのは天道吉良、彼の父親だ。これを見つけ出し、聞いた時の興奮は今も消えない。肉体は消えても、父の音楽は今もこうして息子の心を震わせる。同じテクニックを使える人間に、該当する人物はいた事はいたが――。
ネットに検索をかけると、その名前は未だ存在していた。
――幻のギタリスト『KIRA』
五年前、一度だけネットにUPされたギターソロ。多くの人間は『KIRA』と名乗るアーティスが既にこの世の人間ではないと知っている。
表の世界に出る事は、リスクを伴う。故にネットの『彼』は表に出ることはなかった。 だが、父の音楽や『彼』の音楽を聴いた時の心躍るものが『BROTHERS』には感じられない。演奏者故に理解る。音が一つになる感動と興奮、なのに何かが足らない。
そしてそれは、この二人も感じていた。
「歌も演奏もいいんだけどねぇ……」
そう言ったのは、『BROTHERS』所属芸能事務所社長・幹である。そして「貴方の方が理解るでしょ」と隣のリキに話題を振った。
「『BROTHERS』には何かが足らない――」
「正解。さすが元ミュージシャンね、リキ。貴方たちの時には感じられたものが、あの子たちにはないのよ。別に真剣にやっていないんじゃなくて」
「ミキ、それはあいつらが見つけるしかない」
「リキ、何かあった? 顔色悪いわよ」
「いや」
この時、リキの心は複雑だった。悩めば悩むほど、悪い方へと傾く。
切欠は、嘗てのバンドメンバーからの電話。その声は震え、そして告げられた。
皮肉で残酷な運命を。今度こそ呪いたくなる、神様の悪戯を。
「疲れているんじゃない?」
リキの耳に、心配する幹の声は聞こえていなかった。